松平勝全
松平 勝全(まつだいら かつたけ[1][2])は、江戸時代中期の大名。下総国多古藩4代藩主。官位は従五位下・豊前守。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛延3年10月27日(1750年11月25日) |
死没 | 寛政8年2月3日(1796年3月11日) |
別名 | 源三郎(通称)[1][2] |
戒名 | 徳彰院殿維隣道栄大居士[3] |
墓所 | 東京都豊島区巣鴨の白泉寺 |
官位 | 従五位下豊前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 下総多古藩主 |
氏族 | 久松松平家康俊流 |
父母 | 父:松平勝尹、母:松平忠刻養女 |
兄弟 |
勝全、久松尹方、飯河信門、 本多忠興正室、政、脇坂安崇室 |
妻 | 正室:松平信直娘 |
子 | 勝従、勝升、村上正方、全好 |
生涯
編集寛延3年(1750年)10月27日[1]、3代藩主・松平勝尹の長男として誕生[1][2]。明和5年(1768年)5月24日、父の死去により家督を継ぐ[2]。同年6月1日に徳川家治に御目見し[2]、同年12月18日に従五位下・豊前守に叙位・任官する[4]。明和6年(1769年)2月15日、はじめて領地に赴く暇を得る[3]。
安永9年(1780年)に大坂加番に任じられ[5]、寛政2年(1790年)3月から寛政5年(1793年)4月まで江戸城馬場先門番を務めた[要出典]。寛政6年(1794年)10月6日[3]、病気を理由に[5]家督を次男の勝升に譲って隠居する[3]。寛政8年(1796年)2月3日に死去した[3][1]。享年47[3][1]。
系譜
編集特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[4]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f “松平勝全”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月15日閲覧。
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.281、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.287。
- ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.282、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.288。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.281-282、『新訂寛政重修諸家譜1巻』pp.287-288。
- ^ a b “通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年3月15日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二十九、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.157。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.169-170。
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082717/150