松平忠侯
松平 忠侯(まつだいら ただこれ)は、江戸時代後期の大名。肥前国島原藩3代藩主。深溝松平家13代当主。官位は従五位下・摂津守、主殿頭。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政11年11月22日(1799年12月18日) |
死没 | 天保11年4月9日(1840年5月10日) |
改名 | 秀太郎・又八郎(幼名)、忠侯 |
戒名 | 徳巌院殿有道源純大居士神儀 |
墓所 | 愛知県額田郡幸田町深溝の本光寺 |
官位 | 従五位下摂津守、主殿頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉、家慶 |
藩 | 肥前島原藩主 |
氏族 | 深溝松平家 |
父母 | 松平忠馮、井伊直幸娘 |
兄弟 |
井上正廬、忠侯、京極高景、中西元歴、 森川俊民、忠篤、真田幸忠、志賀、 板倉勝晥室、喜代 |
妻 |
井伊直中五女芳、阿部正精娘 琴、邦 |
子 | 忠誠、恭之助、万次郎、忠精、鍵吉郎、繁丸 |
生涯
編集寛政11年(1799年)11月22日、7代藩主・松平忠馮の四男として誕生。庶兄がいたが、忠侯は正室所生だったために世子となり、文化11年(1814年)12月16日に従五位下・摂津守に叙位・任官する。文政2年(1819年)に父が死去したため家督を継ぎ、4月2日に主殿頭に遷任した。
藩政では藩財政の再建を優先し、文政6年(1823年)には厳しい人別調査を行ない、その結果として文政8年(1825年)には菜種・小麦の税収増徴と生産品の運上銀制、生産方の設置と専売制の強化を行なっている。また、倹約令や奢侈禁止令を出した。しかし天災が相次ぎ、さらに長崎警備や軍事力強化に対する出費が相次いであまり効果は無かった。一方で廃校寸前だった藩校・稽古館の復興に努め、学生増加を奨励し、さらに医学校である済衆館を創設するなどして学問を奨励した。
忠侯はもともと病弱だったが、天保11年(1840年)4月9日、42歳の厄払いの宴会の最中に病に倒れ、そのまま死去した。享年42。跡を次男・忠誠が継いだ。
系譜
編集父母
正室、継室
側室
- 琴
- 邦
子女