桂陽郡(けいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の湖南省南部・広東省北部・広西チワン族自治区北東部にまたがる地域に設置された。

概要

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漢の高祖のとき、桂陽郡が立てられた。前漢の桂陽郡は荊州に属し、臨武便南平耒陽桂陽陽山曲江含洭湞陽陰山の11県を管轄した。王莽のとき、南平郡と改称された[1]

後漢が建てられると、桂陽郡の称にもどされた。桂陽郡は郴・便・耒陽・陰山・南平・臨武・桂陽・含洭・湞陽・曲江・漢寧の11県を管轄した[2]

のとき、桂陽郡は郴・耒陽・便・臨武・晋寧・南平の6県を管轄した[3]

南朝宋のとき、桂陽郡は湘州に属し、郴・耒陽・南平・臨武・汝城・晋寧の6県を管轄した[4]

南朝斉のとき、桂陽郡は郴・臨武・南平・耒陽・晋寧・汝城の6県を管轄した[5]

589年開皇9年)、南朝陳を滅ぼすと、桂陽郡は廃止されて、郴州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、郴州が桂陽郡と改称された。桂陽郡は郴・臨武・盧陽の3県を管轄した[6]

621年武徳4年)、唐が蕭銑を平定すると、桂陽郡は郴州と改められ、郴・盧陽・義章・臨武・平陽・晋興の6県を管轄した。742年天宝元年)、郴州は桂陽郡と改称された。758年乾元元年)、桂陽郡は郴州と改称され、桂陽郡の呼称は姿を消した[7]

脚注

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  1. ^ 漢書』地理志上
  2. ^ 後漢書』郡国志四
  3. ^ 晋書』地理志下
  4. ^ 宋書』州郡志三
  5. ^ 南斉書』州郡志下
  6. ^ 隋書』地理志下
  7. ^ 旧唐書』地理志三