梁 迥(りょう けい、928年 - 986年)は、五代後周から北宋にかけての軍人本貫博州聊城県

経歴 編集

若くして吏部小史となった。後周の世宗柴栄が晋王だったとき、梁迥は側近として仕えた。柴栄が即位すると、殿直に任じられた。供奉官に転じ、左蔵庫使に累進した。

宋の太祖趙匡胤後蜀に対する征伐を決めると、梁迥は監秦州戍兵をつとめた。後蜀が平定されると、監覇州兵となり、宮苑使に転じた。北漢征伐に従軍して、帰還すると沁州兵馬部署に任じられた聶章の下で監軍をつとめた。北漢軍の侵入を受けると、梁迥は閻彦進とともに軍を率いて北漢軍を撃退し、功績により東上閤門使に転じた。開宝5年(972年)、広南道兵馬都監となり、諸州巡検を兼ねた。

開宝8年(975年)、南唐に対する使者をつとめた。南唐からの過剰な接待を受け、連日の宴会を楽しんで帰国をしぶったため、人々の笑いの種になった。趙匡胤が南唐に対する遠征を決めると、梁迥は潘美劉遇とともに先に荊南に進軍し、護行営歩兵・左廂戦棹として南唐軍と采石で戦った。南唐が平定されると、功績により順州団練使となった。

開宝9年(976年)、太宗が即位すると、梁迥は判四方館事となり、禁軍を率いて沢州に駐屯した。太平興国3年(978年)、呉越銭弘俶が入朝するにあたって、梁迥は淮州泗州まで迎えに出て慰労した。夏、汴水が決壊すると、梁迥は畿内の丁男3000人を動員して決壊箇所を塞いだ。太平興国4年(979年)、宋軍が北漢を征討すると、梁迥は行営前軍馬歩軍都監として太原城を攻撃し、流れ矢4本を身に受けながら奮戦した。北漢が平定されると、孟玄喆(孟昶の子)や崔翰とともに定州に駐屯し、功績により引進使となった。

太平興国5年(980年)、潘美とともに并州の三交に築城した。太平興国7年(982年)、李継遷が宋の西北辺境をおびやかすと、梁迥は軍を率いて銀州夏州の防備にあたった。太平興国8年(983年)、召還されて唐州防禦使に任じられた。

雍熙2年(985年)、李継遷が都巡検使の曹光実を誘殺すると、宋の西北辺境はにわかに騒がしくなった。梁迥は召還されて銀夏都巡検使に任じられ、再び銀州・夏州に駐屯した。

雍熙3年(986年)夏、銀州の官舎で死去した。享年は59。

子に梁廷翰があった。

伝記資料 編集

  • 宋史』巻274 列伝第33