メインメニューを開く

潘 美(はん び、拼音:Pān Měi、925年 - 991年)は、北宋初期の将軍。字は仲詢大名県(現在の河北省大名県)の人。北宋が南漢を滅ぼす戦いで指揮を任され、官位は客省使にまで到った。

潘美と宋太祖趙匡胤は親しく、趙匡胤が政権を取ってからも重用された。李重進の反乱平定の戦いにも参加し、揚州潭州(現在の湖南省長沙市)を守り、防禦使にまで昇進した。開宝3年(970年)、行営兵馬都部署になり、軍を率いて南漢を平らげた。これは、潘美が賀州を包囲することから始まった。南漢の将軍伍彦柔率いる3万の軍が救援に来ると、潘美はこれより10キロメートル兵を退かせ、南郷岸に兵を配置し、南漢軍を大いに破って伍彦柔を捉えた。続いて、昭州桂州連州を下し、進んで韶州に迫った。李承渥蓮花峰で再び破り、韶州を取った。ここで、南漢の主君は降伏した。

後に広州知州に任じられ、市舶司を兼ねた。山南東道節度使に昇進した。開宝7年(974年)、昇州(現在の江蘇省南京西南面行営馬歩軍戦棹都監に任じられ、都部署曹彬南唐征伐を助けた。南唐を平らげると、検校太傅宣徽北院使に加えられた。太平興国4年(979年)正月、北路都招討制置使に任じられ、太宗趙光義に従い、北漢征伐に赴いた。北漢が降伏した後、知幽州(現在の北京)行府事に任じられ、宋太宗に従い、遼への北伐に参加したが、敗れて帰国。太平興国4年8月、河東三交口都部署に任じられ、西北辺防を守り、を圧迫した。雁門での勝利を以て、代国公に封じられ、後に忠武軍節度使に改められた。

雍熙3年(986年)、宋軍は三路に別れて北伐に向かったが、潘美は雲州(現在の山西省大同市)、応州(現在の山西省応県)、朔州(現在の山西省朔州市)などの州行営都部署になり、楊業がこの副将となった。西路軍を率いて雁門を出て、勝利を続けた。暫くして、曹彬率いる東路軍が岐溝関の戦いで敗れたので、潘美らは撤退し、雲、応の民を内地に連れ帰るべき内容の詔を受けた。撤退の途中、潘美と王侁などは、楊業にあえて敵を迎え撃つよう迫り、必敗の地に置いて見殺しにした。楊業の軍勢は陳家谷(現在の山西省寧武県)にて全滅し、楊業自身は捕われの身になり、絶食して死んだ。これにより、潘美は位を三階級削られ、検校太保に落とされた。翌年、元の官職に復す。淳化2年(991年)、同平章事に加えられたが、数カ月後死亡した。

真宗の最初の正室潘氏(章懐皇后)は、潘美の娘(あるいは孫娘)である。

参考文献編集

  • 宋史』巻二五八 潘美伝

話本と京劇における形象編集