梅山無一軒
梅山 無一軒(うめやま むいっけん) / 西 昌盛(にし まさもり)は、江戸時代の武士(人吉藩士)、修験者。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦5年(1755年) |
死没 | 文政11年8月5日(1828年9月13日) |
改名 | 昌盛、常謹子、無一軒(号)、 |
別名 | 助平(幼名)、源六郎(通称) |
戒名 | 無一院伝燈正大先達金剛位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 相良長寛→頼徳→頼之 |
藩 | 人吉藩 |
氏族 | 般若院氏→西氏 |
父母 |
父:般若院行盛、母:上原儀兵衛の女 養父:西昌敷 |
妻 | 曾弥(西昌敷の女) |
子 |
於家(早世)、於信(西昌幸室)、 里袈裟(早世) 養女:於基(早世)、養子:昌幸 |
実名は西昌盛であり、当人は梅山姓を一度も名乗っていないが(西氏が梅山姓を名乗っていたのは戦国時代までで、再び名乗り始めるのは孫の昌寿から)、本項では『南藤蔓綿録』並びに『嗣誠独集覧』の編纂者名として定着している方を記事名とする。
生涯
編集昌盛(後の無一軒)は、山伏である般若院行盛の次男として生まれた。その後、同じく山伏の家系である西昌敷の婿となり、人吉藩の大御台所役および御家剣術師範方に任じられ(任命された年は不詳)、老齢となるまでの数十年間務めあげる。
安永4年(1775年)、昌盛は上原英清より、心形刀流目録序、並びに同目録を受ける。3年後の安永7年(1778年)には別府四兵衛より塚原卜伝流人物次第相伝免許状を、その翌年の安永8年(1779年)には心形刀流表位免状を受けて、常謹子と号した。また同年、心形刀流抜合目録序も受けている。
文化10年(1813年)に新規の一人扶持格となる。また文化年間に『南藤蔓綿録』14冊分、『嗣誠独集覧』28冊分を著している。文政6年(1823年)、老齢を理由に職を辞すると山伏となり、文政9年(1826年)に吉野山永久寺[要曖昧さ回避]に入山、権大僧都に補され無一軒と号した。
文政11年(1828年)に死去。家督は次女の婿である西昌幸が継いだ。