森川 氏俊(もりかわ うじとし)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。旧姓は堀場氏で、後に母方の氏である森川氏を称した。

 
森川氏俊
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文14年(1545年
死没 慶長3年7月20日1598年8月21日
改名 堀場氏、森川氏
別名 金右衛門
戒名 宗悟
墓所 宗悟寺(埼玉県東松山市
主君 徳川家康
氏族 森川氏
父母 堀場氏兼森川定兼の娘
兄弟 氏俊長次重成重定真野信重室、山羽長勝
大村越前守の娘
氏信正次重俊成瀬正成室、長谷川正吉室、土屋忠直室、稲垣重綱
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生涯編集

父は尾張の武士で織田氏に仕えていたが、永禄4年(1561年)に死去。永禄8年(1565年飯尾連龍の客将であった母方の叔父森川氏次が連龍と共に戦死すると、連龍と内通していた徳川家康が氏次の働きを認め、一族であった氏俊を招いて家臣として森川氏と称させた(氏次の子孫も後に家康に仕えた)。永禄11年(1568年堀川城の戦い、元亀元年(1570年姉川の戦いで武功を立て、元亀3年(1572年三方ヶ原の戦いでは後備えに属して戦った。天正2年(1574年武田家臣山県昌景軍と浜松城外で交戦。翌天正3年(1575年長篠の戦いでも武功があった。天正12年(1584年小牧・長久手の戦いでは父の旧領でもあった尾張比良城を守備。天正18年(1590年小田原征伐にも従軍した。文禄元年(1592年武蔵国比企郡上総国山辺郡の内に2000石を与えられた。

長男・次男は幕臣として家名を保ったが、三男重俊は後に大名として取り立てられている。氏俊の兄弟や叔父・従兄弟がいずれも森川氏を称することとなった。また姉婿真野信重や妹婿・山羽長勝が早世していたため、その子重次長次を引き取って育て、いずれも森川氏を名乗らせている。

出典編集