長篠の戦い

日本の戦国時代に起こった合戦

長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも言う)は、戦国時代の天正3年5月21日1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。

長篠の戦い
Battle of Nagashino.jpg
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
戦争戦国時代 (日本)
年月日天正3年5月21日1575年6月29日
場所三河国長篠城・設楽原(設楽ヶ原)
結果:織田・徳川連合軍の圧勝
交戦勢力
織田・徳川連合軍 武田軍
指導者・指揮官
Oda emblem.svg 織田信長
Aizu Aoi (No background and black color drawing).svg 徳川家康
     (下記参照)
Japanese Crest Takedabishi.svg 武田勝頼

     (下記参照)
戦力
38,000 - 72,000(諸説あり[注釈 1] 11,000 - 25,000(諸説あり[注釈 2]
損害
6000程度[2] 10,000 - 12,000(諸説あり[注釈 3]
織田信長の戦い

決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため、長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。

前史編集

甲斐国信濃国を領する武田氏永禄年間に、駿河の、今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国三河国方面へも侵攻していた。その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪化すると、元亀3年には反信長勢力を糾合した将軍義昭に挙兵される。そこで将軍義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻(西上作戦[注釈 4])したため、織田氏と武田氏は手切れとなった。

しかし信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされた。一方の信長は、将軍義昭を京都から追放し、朝倉氏浅井氏ら反信長勢力も滅ぼした。

武田氏の撤兵に伴って三河の徳川家康も武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めた。天正元年(1573年8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属[注釈 5]。すると家康からは、武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)。

武田氏の後継者となった勝頼は、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始[12]奥平氏の離反から2年後の天正3年(1575年)4月には大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至った。また、大岡弥四郎(大賀とも)の内通事件が、天正3年(1575年)の事件であるとする説が出され、大岡の調略に成功した武田軍が岡崎城を目指したものの、内通が発覚して大岡が殺害されたために長篠方面に向きを変えた可能性がある[13][14]

経過編集

長篠城攻城戦編集

 
鳥居強右衛門が味方に援軍が来ることを伝える場面の錦絵(楊洲周延作)

1万5000の武田の大軍に対して、長篠城の守備隊は500人の寡兵であったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻にも何とか持ちこたえていた。しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。5月14日の夜、城側は貞昌の家臣である鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を密使として放ち、約65km離れた岡崎城の家康へ緊急事態を訴えて、援軍を要請させることにした。

夜の闇に紛れ、寒狭川に潜って武田軍の厳重な警戒線を突破した鳥居が、15日の午後にたどり着いた岡崎城では、既に信長の率いる援軍3万人が、家康の手勢8000人と共に長篠へ出撃する態勢であった。信長と家康に戦況を報告し、翌日にも家康と信長の大軍が長篠城救援に出陣することを知らされた鳥居は、この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと引き返したが、16日の早朝、城の目前まで来たところで武田軍に見付かり、捕らえられてしまった。

最初から死を覚悟の鳥居は、武田軍の厳しい尋問に臆せず、自分が長篠城の使いであることを述べ、織田・徳川の援軍が長篠城に向かう予定であることを堂々と語った。鳥居の豪胆に感心した武田勝頼は、鳥居に向かって「今からお前を城の前まで連れて行くから、お前は城に向かって『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。そうすれば、お前の命を助け、所領も望みのままに与えてやろう」と取引を持ちかけた。鳥居は表向きこれを承諾したが、実際に城の前へ引き出された鳥居は、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で部下に命じて鳥居をにして、槍で突き殺した。しかし、この鳥居の決死の報告のおかげで、援軍が近いことを知った貞昌と長篠城の城兵たちは、鳥居の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、見事に城を守り通すことができたという[15][注釈 6]

信長軍団の到着編集

 
現地に再現された馬防柵

信長軍30,000と家康軍8,000は、5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣。設楽原は原と言っても、小川や沢に沿って丘陵地が南北に幾つも連なる場所であった。ここからでは相手陣の深遠まで見渡せなかったが、信長はこの点を利用し、30,000の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ[注釈 7]、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。これは、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、さらに三重の土塁[要出典]に馬防柵を設けるという当時の日本としては異例の野戦築城[注釈 8]だった。海外の過去の銃を用いた野戦築城の例と、宣教師の往来を理由として信長がイタリア戦役を知っていた可能性に言及されることもある[18]

決戦を決めるまで編集

武田軍編集

「甲陽軍艦」[19]編集

1.重臣山県昌景・内藤昌秀・馬場信春・原昌胤・小山田信茂らが敵は大軍なので合戦は不利であるから撤退するのが得策と進言し、もし織田・徳川軍が追撃してきたら信濃国内に誘き寄せ攻撃すれば勝利は疑いなしと述べた。

2.勝頼と長坂光堅は敵に背を見せるのは恥辱として賛成しなかった。

3.馬場信春は長篠城を力攻めにして陥落させればよろしかろうと主張した。それならば城方の鉄砲はせいぜい5百挺ばかりであろうから、攻め寄せるまでに二度の一斉射撃を受けても、武田軍の損害は千人程度の死傷者で済むだろうと述べた。

4.味方の損害が多すぎるとして長坂が難色を示し、勝頼もこれに同意した。

5.そこで馬場は、長篠城を攻め落として勝頼を城に移し武田信綱ら全ての御親類衆が城の背後を押さえ、残る全軍が旗本の前備となって寒狭川を前に当てて織田・徳川軍に備える。そして山県・内藤・馬場の三人が寒狭川を越え、敵と小競り合いをしながら長期戦に持ち込めば、武田軍は信濃からの補給が容易いが、信長は河内・和泉の人々を動員しているので長陣が出来ず、やがて撤退することだろうと述べた。

6.これに対し、長坂は、信長ほどの大将がそう簡単に撤退することはありえない、もし敵が攻め寄せてきたらどうするかと反問した。

7.すると馬場は、その時は戦うしかなかろうと返答した。

8.これを聞いた長坂は、迎え撃つのも、進んで戦うも同じ合戦である、と強弁した。

9.重臣たちは撤退、長坂光堅と跡部勝祐は決戦を主張し、両者の激論が続くなか、結局勝頼は決戦を決断した。

「当代記」[19]編集

1.勝頼は決死の覚悟で織田・徳川軍と決戦をすべきだと主張した。

2.馬場信春・内藤昌秀・山県昌景・穴山信君・武田信豊らの宿将、親族衆が反対し、敵は四万、味方は一万なのでここは撤退すべきであり、信長が帰陣したら秋にまた出陣してきて、所々に放火しさらに刈田を実施すれば、三河は亡国になるだろう。そうすれば一両年中に宿願がかなうに違いなかろうと主張した。

3.だが勝頼は同意せず、さらに長坂光堅が決戦論をまくしたてたため、重臣らの献策は退けられた。

以上の武田方の軍議の様子を伝えているのは勝頼側近安部加賀守宗貞から高坂弾正(春日虎綱)が聞いた「甲陽軍艦」と伝聞として記録した「当代記」である。これらを高柳光壽は「長坂光堅(長閑斎)は長篠の戦いに参陣していないのでこの軍議の様子は虚構だ」と主張した。しかし根拠とされた五月二十日付長閑斎宛勝頼書状の宛所「長閑斎」は、駿河国久能城代今福長閑斎であることが証明されたため(平山優「長閑斎考」『戦国史研究』五十八号、2009年)、高柳光壽以来の通説は完全な誤りである。

そして長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けた。これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別した。「信長公記」にある武田軍の動きは、「長篠城へ武将7人を向かわせ、勝頼は1万5千ほどの軍勢を率いて滝沢川を渡り、織田軍と二十町(約2018m)ほどの距離に、兵を13箇所ほどに分けて西向きに布陣した」というものである[注釈 9]

織田・徳川連合軍編集

・信長と家康は武田軍が長篠城近辺の鳶ヶ巣山砦に布陣したら敗北は必至と考えていた。なぜなら長篠城までは一騎ずつ一列横隊でしか通れない難所が一里半も続き、その上寒狭川(滝沢川)を越えるには一つしか無い橋を渡るしか方法がなかった。そのため武田軍が滝沢川を越え有海原に進軍してきたと聞いたときには「今回、武田軍が近くに布陣しているのは天の与えた機会である。ことごとく討ち果たすべきだ」と言ったほどである[20][21]

両軍の作戦編集

武田軍[22]編集

元々武田軍の遠征の目標は徳川軍の攻略であった。信長は家康の危機を救援しに来ただけにすぎず徳川軍さえ撃破すれば高天神城の戦いのように撤退するはずと睨んでいた。よって兵力差が激しい織田軍ではなく寡兵の徳川軍に対して武田軍の主力を集中配備した。また中央や右翼の武田軍も織田軍を引きつけ左翼の攻撃を援助するべく攻撃。そして武田軍が鉄砲や弓の攻撃を凌ぎながら敵陣に突入してこれを無力化し、さらに後方から続々と騎馬による乗り込みをかけて勝機を見いだすという浸透戦術だったと推測される。

勝頼は信玄から「陣代」(武田家家督の中継ぎ)としてしか見られておらず、勝頼側近と信玄子飼いの重臣の対立も発生していたことにより権力基盤が非常に弱かった。そのため信玄最後の目的だった信長・家康の撃破こそ武田家中における当主としての権威を名実ともに確立させ、諏訪勝頼を武田勝頼に昇華させる最も確実な方法だった。

織田・徳川連合軍[23]編集

信長は馬防柵を構え麾下の軍勢に柵の外へ出て戦わぬように厳命した。乱戦になれば不利だからであると推測される。あくまで鉄砲と弓で武田軍の攻撃を凌ぎ、危険な場合は足軽だけで対抗するよう下知した。

酒井忠次が鳶ヶ巣山を南から回り込んで攻略し長篠城の奥平信昌と合流、武田軍の背後を遮断し、酒井忠次が抜けた徳川軍の右翼を佐久間信盛・水野信元、左翼を滝川一益ら率いる織田軍鉄砲・弓衆を配備し、家康を挟み込むように両側面から援護して、武田軍の突撃を撃退しようとした(高柳光壽は佐久間信盛・水野信元の家康援護を記述した「甫庵信長記」ではなく佐久間信盛・水野信元が左翼で戦った記述がある「甲陽軍艦」を信用した。しかし藤本正行・平山優は家康と佐久間信盛・水野信元両人との個人的・社会的関係を考慮すればこの「甫庵信長記」の記述は正しいと高く評価している)[24]。そもそもこの作戦は、20日夜の合同軍議中に酒井忠次が発案したものであったが、信長からは「そのような小細工は用いるにあらず」と頭ごなしに罵倒され、問答無用で却下された。しかし、信長がこのように軍議の場で忠次の発案を却下したのは、作戦の情報が武田軍に漏れる可能性を恐れてのことであった。軍議の終了後、信長は忠次を密かに呼びつけて、「そなたの発案は理にかなった最善の作戦だ」と忠次の発案を褒めたたえ、直ちに作戦を実行するよう忠次に命じたとする逸話が『常山紀談』に載せられている[25]

武田軍の布陣編集

設楽原の武田軍本隊[26]編集

右翼

・馬場信春・土屋昌続・一条信龍・真田信綱、真田昌輝 350騎・禰津月直・穴山信君


中央

・小幡信真 500騎・武田信豊・武田信綱・安中景繁


左翼

・内藤昌秀・原昌胤 120騎・山県昌景 300騎・小山田信茂・加藤景忠・跡部勝資 300騎・甘利信頼


その他

武田勝頼、武田信光、山県昌次、土屋昌恒、土屋貞綱、武藤喜兵衛、鎌原重澄跡部勝資横田康景原盛胤兄弟、米倉重継小笠原信嶺小幡昌盛初鹿野昌久岡部正綱朝比奈信置大井貞清室賀信俊恵光寺快川岩手胤秀屋代正長堀無手右衛門柳沢信俊

長篠城監視部隊
鳶ヶ巣山、その他の砦守備隊(長篠城の南対岸)
鳶ヶ巣砦
河窪信実小宮山信近
姥ヶ懐砦
三枝昌貞守義守光兄弟
君ヶ伏床砦
和田業繁
中山砦
五味高重飯尾助友祐国兄弟、名和無理之助
久間山砦
和気善兵衛倉賀野秀景原胤成
有海村駐留部隊(長篠城の西対岸)
高坂昌澄小山田昌成雨宮家次山本勘蔵信供

織田・徳川連合軍の布陣[27]編集

設楽原の武田軍本隊編集

右翼

・徳川家康 5千人未満・佐久間信盛 7千・水野信元 3千・滝川一益ら率いる織田軍鉄砲衆・弓衆 数千


中央

・羽柴秀吉・前田利家・塙直政・丹羽長秀


左翼

・織田信忠麾下の美濃・尾張勢(柴田勝家5千人含む) 


その他

織田軍
織田信長織田信忠北畠信雄織田掃部明智光秀(非参戦説有り)、高木清秀河尻秀隆稲葉一鉄池田恒興森長可蒲生氏郷丹羽氏次徳山則秀西尾吉次湯浅直宗
徳川軍武将
松平信康松平信一松平定勝松平重勝松平忠正石川数正本多忠勝本多重次本多正重本多信俊榊原康政鳥居元忠大久保忠世忠佐兄弟、大須賀康高平岩親吉内藤信成内藤家長渡辺守綱田中義忠高力正長柴田康忠朝比奈泰勝成瀬正一日下部定好
鳶ヶ巣山攻撃隊
織田軍武将
金森長近佐藤秀方
徳川軍武将
酒井忠次酒井家次松平康忠松平伊忠家忠親子、松平清宗松平真乗松平忠次松平家忠(東条松平家)、松平家忠(形原松平家)、本多広孝康重親子、本多忠次牧野康成奥平貞能菅沼定盈西郷家員近藤秀用小笠原安次戸田一西大沢基胤設楽貞通(樋田にて待機)
長篠城籠城軍
奥平貞昌松平景忠

鳶ヶ巣山攻防戦編集

 
鳶ヶ巣山砦址にある長篠之役鳶ヶ巣陣戦あか歿将士之墓

酒井忠次率いる別働隊は密かに正面の武田軍を迂回して豊川を渡河し、南側から尾根伝いに進み、翌日の夜明けには長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦を後方より強襲した。鳶ヶ巣山砦は、長篠城を包囲・監視するために築かれた砦であり、本砦に4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦という構成であったが、奇襲の成功により全て落とされる。これによって、織田・徳川連合軍は長篠城の救援という第一目的を果たした。さらに籠城していた奥平軍を加えた酒井奇襲隊は追撃の手を緩めず、有海村駐留中の武田支軍までも掃討したことによって、設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功した。

この鳶ヶ巣山攻防戦によって武田方の動きは、主将の河窪信実(勝頼の叔父)をはじめ、三枝昌貞五味高重和田業繁名和宗安飯尾助友など名のある武将が討死。武田の敗残兵は本隊への合流を図ってか豊川を渡って退却するものの、酒井奇襲隊の猛追を受けたために、長篠城の西岸・有海村においても春日虎綱の子息・香坂源五郎(諱は「昌澄」ともされるが不明)が討ち取られている。このように酒井隊の一方的な展開となったが、先行深入りしすぎた徳川方の深溝松平伊忠だけは、退却する小山田昌成に反撃されて討死している。

設楽原決戦[28][29]編集

有海原で対峙していた武田軍主力と織田・徳川連合軍の戦闘は夜明けと共に開始された。まず武田軍は馬防柵を敷設した敵の出方や戦法を探るために、鉄砲衆や弓衆を前面に押し立てながら徐々に接近した。次に逆茂木を除去し馬防柵を引き倒すことを試みたと推測が出来る。武田軍は懸命になって馬防柵を引き破り、遂に三重柵の引き倒しに成功した部隊もいた。しかしその作業に手間取るほど織田・徳川連合軍の三千挺の鉄砲とそれを間断なく打ち続けることが出来るほどの用意された玉薬、そして鉄砲衆を脇から援護する多数の弓衆は圧倒的な物量による犠牲者が増えいった。本来はそれを援護するはずの武田軍の鉄砲衆・弓衆も打ち倒されていき、用意した鉄砲の玉薬も底をついた[30]

 一方で織田軍は信長の命令通り馬防柵の内側で待機し決して柵外に出ずに武田軍を攻撃した。しかし徳川軍は断上山が途切れ平坦になる最も手薄な場所に布陣し武田軍を誘い込むために柵から出て攻撃を仕掛けた。なぜなら織田軍がいる今こそ徳川軍が勝てる機会であり、勝つために自ら危険に飛び込んだのである。だが信長はそんな家康を心配し開戦からまもなく織田本陣から家康本陣のある高松山に自ら出向き一緒に戦局を見守った[31]

 そして午前11頃に鳶ヶ巣山砦が落ち、長篠城包囲軍が壊滅した。背後が脅かされたことにより前面の織田・徳川連合軍を撃破する以外に武田軍の勝機はなくなった。そのためこの情報を知った武田軍が猛攻を開始。右翼の山県昌景がすでに援護射撃を失いながらも鉄砲・弓矢の猛攻を耐え徳川軍に肉迫するが柵内に逃げられまた雨のような銃弾にさらされた。たまらず引き揚げると追撃された。それが何度も繰り返される内に次第に消耗し始めた。中央・右翼の武田軍も右翼を援護すべく織田軍に攻撃を仕掛けた。しかしどの部隊も敵陣に接近するまでに鉄砲・弓矢の攻撃で甚大な被害を蒙り、消耗したところを織田軍の足軽により撃退された。この合戦の最中、土屋昌続が討死。それでも織田・徳川両陣の三重柵を全て攻め破り敵陣に攻め込むが多数の味方が死傷しすでに無勢であったために難なく切り倒された。兵力をすり減らし戦闘継続能力を失いながらも武田軍の兵卒は馬場信春ら指揮官を置いて逃亡することはなかった。そして午後二時頃、甚大な被害を鑑みて武田軍は勝頼本陣まで退却した[32]

 武田軍は武田信豊や小山田信茂らが固まるように布陣。これを見た織田・徳川連合軍は武田軍の戦闘継続能力はすでに喪失しているとみて、柵から一斉に押し出し鬨の声を上げて武田軍に襲いかかった。武田軍の残存部隊はここが勝負所だと懸命に防戦したが多勢に無勢で遂に総崩れとなるが、家臣たちは勝頼を逃がすために踏みとどまった。この追撃戦の最中に山県昌景・真田信綱・馬場信春・内藤昌秀など主だった家臣たちが討死にするが、勝頼は戦場から離脱し菅沼定忠に助けられ無事に武田方の武節城に入城できた。その後、信濃の高遠城に後退した。しかし武田軍の損害は大きく武将は118人、兵士は山に逃げ込んで餓死、橋を渡ろうとして川に落とされ溺死した者が数知れずおり、数千人が討死したと推測される[33]。 こうして長篠の戦いは織田・徳川連合軍の勝利で終結した[34][35]。上杉の抑え部隊10,000を率いていた海津城代春日虎綱(高坂昌信)は、上杉謙信と和睦した後に、勝頼を出迎えて、これと合流して帰国した[注釈 11]

両軍の兵力数と損害数編集

通説では織田・徳川連合軍38,000(うち鳶ヶ巣山強襲部隊4,000)、武田軍15,000(うち鳶ヶ巣山に残した部隊3,000)となっているが諸説ある。

高柳光寿は『長篠之戦』で、織田12,000-13,000、徳川4,000-5,000とし、武田8,000-10,000でその内、設楽原へ布陣した兵数が6,000-7,000という数字を唱えている。連合軍の兵力はおよそ武田軍の2.5-3倍程度であり、これは通説とほぼ等しい。この数字が支持される理由に、設楽原の地形の峡さが挙げられることが多い。

武田氏の動員兵力は、『甲陽軍鑑』にある騎数9,121から想定し最小で36,000最大で52,000の動員が可能であったと考えられている[注釈 12]。このうち一部の兵力は、織田以外の勢力への備えとして領国内に残留させていたと考えられている。元亀3年(1572年)の西上作戦では30,000の兵力を動員したと言われるように、通説通りと見てもこの戦いにおいては最大動員兵力ではない。この理由として、対上杉に戦力を割かれたため(この時は対上杉に10,000の抑え部隊が配置されていたと言われる)、国人の経済状況の悪化による軍役拒否、長篠城攻城及び徳川単独との決戦のため(15,000と見ても可能性がある)等の理由がよく言われる。特に最後に関しては、織田との合戦を考慮していなかったという意味になるが、信長が出陣した時点で既に退却か長篠城強襲かを決定する必要があるため(信長の岐阜出陣は5月13日、三河牛久保から設楽原へ向かったのが5月17日)その可能性は低いことになる。

被害については信長公記の10,000人以上が通説になっているが、同時代に成立した『多聞院日記』には、伝聞記事ではあるものの、この戦いについて「甲斐国衆千余人討死」と書かれている。そのため、武田軍の犠牲者は1,000人程度だったのではないかという説がある(ただし「国衆」を国人級の武士だと解すると、全戦死者はより増える可能性はある)。また、『兼見卿記』には「数千騎討死」とある。

織田・徳川軍には主だった武将に戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして、原昌胤原盛胤真田信綱真田昌輝土屋昌続土屋直規安中景繁望月信永米倉丹後守など重臣や指揮官にも及び、被害は甚大であった[注釈 13]

影響編集

武田勝頼[38]編集

  1. 戦死した武将たちの代わりに息子や養子を当主として認めたが、年齢や経験などを考慮してその職掌を完全に引き継がせることが出来なかった事例が多くある。
  2. 信玄子飼いの重臣たちの影響力が1により低下し、勝頼側近の家臣が台頭。それによる勝頼の権力基盤の強化。
  3. 領内で名のある者の親族や出家、町人になっていた者まで全て跡継ぎとして呼び出し、二万余の軍勢を編成に成功。しかし軍勢の質的低下はどうしようもなく美濃・三河に二度と侵攻出来なかった。
  4. 岩村城の戦いに敗北したがこれ以後織田・徳川連合軍の攻撃を凌ぎきり戦線を膠着させ主戦場を遠江だけにすることに成功。

織田信長[38]編集

  1. 武田軍先鋒を破り、勝頼本隊を雪で足止めさせ東美濃岩村城を攻略
  2. 家康単独で勝頼に対抗できるようになったため西国への軍事行動が本格化[39]
  3. 織田信長の天下統一への自信を深めさせた
  4. 3による安土城の建設
  5. 3による足利義昭と同格である従三位権大納言・右近衛大将の叙任の受諾
  6. 5による「殿様」から「上様」への尊称の変化
  7. 北条打倒を視野に入れ、北関東及び東北の大名ら(佐竹義重・小山秀綱・田村清顕・伊達輝宗・安東氏)との通交を開始
  8. 5の論理を7のように全国に広めようとした。つまり天皇から委任された「天下」とは、「公儀」(足利義昭)に優越しこれを克服する新たな論理に他ならない。そしてその安寧(天下静謐)を破綻に追いやる者は将軍であろうと許されず、代わって信長が維持することを宣言

徳川家康[38]編集

  1. 奥三河を全て攻略
  2. 遠江・駿河を攻撃することにより高天神城の包囲を完成させる[40]
  3. 家康単独で勝頼に対抗できるようになった

太田牛一[38]編集

長篠合戦勝利後、太田牛一著「信長記」の記述が始まる。牛一は主君信長こそが天下人になることを実感とし始め、将来「信長天下」の成就の過程を書き記そうと思い立ち、詳細な備忘録を付け始めた[41]。 

奥平貞昌編集

長篠城主である奥平貞昌はこの戦功によって信長の偏諱を賜り「信昌」と改名[注釈 14]し、(もともとそういう約定があったが)家康の長女・亀姫を貰い受け正室とした上、家康所有の名刀「大般若長光」も賜るという名誉を受けた。さらにその重臣含めて知行などを子々孫々に至るまで保証するというお墨付きを与えられ、貞昌を祖とする奥平松平家は明治まで続くこととなる。また、武田に処刑された鳥居強右衛門は後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇された。

後世[43]編集

織田軍の勝利を鉄砲に求めた理由編集

「信長公記」等の信長の正当化、自己喧伝、彼を高く評価しようとする後世の人による意図があった。鎌倉時代以来の名家である武田家の当主、なおかつ諏訪信仰の中心者である勝頼を打ち破ることでいかに大変であるかを語ることによって信長の評価は上がる。そのため騎馬隊という特殊な兵力を持つ武田軍を、信長の鉄砲隊という新たな兵力で打ち破ったと喧伝した。織田・徳川連合軍は圧倒的な兵力差により鉄砲などなくても武田軍には負けることがなかった。勝利を特別な作戦勝ちだと信長側が主張しそれを後世の人が受け入れた結果、鉄砲隊が騎馬隊に勝ったとする図式が出来上がった。

研究編集

勝頼が長篠合戦で敗北した理由編集

1.武田軍と織田・徳川連合軍との兵力と鉄砲の玉薬の量の差が明らかに大きかったこと。織田軍3万人・徳川軍8千人に対して武田軍は1万5千人であり2倍以上の敵と戦って負けることは何の不思議もない。「甲陽軍艦」も勝頼の突撃命令を批判しておらず、圧倒的兵力差がある織田・徳川連合軍に戦いを挑んだことを非難している[44]

2.1の状況把握が甘く勝てると認識した。そして勝頼自身の武田家中における当主としての権威確立のために開戦に踏み切ったこと[45][46]

3.馬に乗った武将は狙い撃ちにされやすい。もし討ち死にし統制が効かなくなったら人数が多い織田・徳川連合軍が圧倒的に有利である。その中で6時間もの長時間を戦ったことは奇跡的である[47]

4.「松平記」では鳶ヶ巣山の奇襲の成功が長篠の戦いの勝利の要因としている[48]。 

5.織田・徳川連合軍は地元であり祖国防衛軍 武田軍ははるばるやってきた遠征軍であった[49]

6.通説では武田軍が大敗した理由として、武田の騎馬隊は柵の前に攻撃力を発揮できず、また、鉄砲の時間差を見越して断続的に攻撃を仕掛けたが、織田軍の時間ロスを減らした三段撃ちによって被害を拡大させ、著しく戦力が低下したところを柵より打って出た織田・徳川連合軍によって殲滅されたとされる。

7.井沢元彦は三段撃ちこそなかったものの、1,000丁という大量の鉄砲の一斉掃射による轟音によって武田の馬が冷静さを失い、騎馬隊を大混乱に陥れたのではないかと指摘している[50]。織田軍は過去に雑賀鉄砲隊との戦いで、雑賀軍が狙撃手を秘匿するために行ったおとりの空砲の速射で大混乱に陥ったことがあり、当時の軍隊に対しては鉄砲の一斉射撃や速射に高い威嚇効果があった可能性が高い。逆に武田軍はそれまで雑賀や根来のような鉄砲隊を主力とした軍隊と戦った経験はなく、過去に手痛い敗戦を被った織田軍よりも轟音対策が遅れていた可能性を踏まえた説である。一方で鈴木眞哉はこの説を否定しており、武田家では以前から鉄砲を使用しており、例えば長篠の戦いでも長篠城が穴だらけにされるほどに大量に持参したと考えられ、その武田家が馬が銃声にどう反応するか知らなかったのは考えにくいと指摘している[51]

8.武田軍の陣形が崩れたことも挙げられる。数的劣勢に立たされていた武田軍が取った布陣は翼包囲を狙った陣形だったが、これは古今東西幾度となく劣勢な兵力で優勢な敵を破った例があり、有名なところではカンナエの戦い(陣形図など当該記事が詳しい)がある。これは両翼のどちらかが敵陣を迂回突破することで勝利を見出す戦術であるが、両翼の部隊が迂回突破する前に中央の部隊が崩れると両翼の部隊が残されて大損害を被る。まさに長篠の戦いは失敗の典型例といえ、左翼に山県・内藤、右翼に馬場・真田兄弟・土屋と戦上手、もしくは勇猛な部将を配置していたのにもかかわらず、中央部隊の親類衆(特に重鎮。叔父・武田信廉、従兄弟・穴山信君)の早期退却による中央部の戦線崩壊により、両翼の部隊での損害が増大した(穴山信君、武田信廉はもともと勝頼とは仲が悪かったとはいえ、これらは総大将の勝頼の命令を無視した敵前逃亡と言うべきものだった)。現に、討死した将兵の多くは両翼にいた者達(譜代、先方衆)であり、中央にいた者達は親類衆以外でも生還している者が多く、戦死した近親者は従兄弟の望月信永(武田信繁三男、信豊の実弟)のみという有様だった。また、当然信長としても鶴翼包囲を予見し、限られた数の鉄砲を両翼に集中的に配置していたと考えるのが自然であり、実際左翼では山県が、右翼では土屋が鉄砲により討死している。

9.荷馬を四散させられて、武田軍は意思決定の選択肢・時間が制限されて心理的に圧迫されたことも大敗の重要な要因と考えられる[52]。また、和暦の5月という梅雨の時期に、この日だけは何故か武田軍の本陣付近以外は晴れていたと伝えられ、このため、織田軍の鉄砲隊が大活躍し、逆に武田軍は霧のために戦況を正しく把握することができず損害をいっそう拡大させたとされる(『長篠日記・設楽史』によれば信長は大事な合戦では必ず雨が降って行軍の足音を消したことから梅雨将軍とも呼ばれるほどだったので、晴れたのは珍しいことであったという)。

長篠合戦をめぐる論点編集

歴史学者の平山優は長篠合戦を巡る問題を下記の8つを挙げている[53]

長篠合戦に織田信長が投入した鉄砲三千挺は事実か編集

長篠合戦における鉄砲3千挺は現在でも教科書に記されるほど有名である。そしてその鉄砲3千挺を広めたのが、小瀬甫庵が著述した「甫庵信長記」の

「信長公先陣へ御出あって、家康卿と御覧じ計らはれ、兼て定め置かれし諸手のぬき鉄砲三千挺に、佐々内蔵助・前田又左衛門尉・福富平左衛門尉・塙九郎左衛門尉・野々村三十郎、此の五人を差添へられ(後略)」

という記述であった。しかし「甫庵信長記」が成立したのは長篠合戦よりも後の江戸時代であり、内容もフィクションが目立ち信頼性がないと藤本正行[54]や鈴木眞哉[55]などに否定された。しかし「甫庵信長記」とは反対に藤本正行などが信頼する太田牛一著の「信長記」における「鉄砲三千挺」も記述が異なっている。

太田牛一著「信長記」の成立過程

1.「信長記」稿本(下書き)成立(宝暦9年焼失)。

2.1の一部が写され「信長記」(尊経閣文庫所蔵)が成立。

3.牛一自身が1の記事の校訂や削除などの推敲を行いつつ浄書した「信長記」(岡山大学池田文庫所蔵)が成立。

4.3を書写し「原本信長記」が1750年に成立。

最初に作られた1の写本である信長記(尊経閣文庫所蔵)では鉄砲三千挺について

「信長ハ家康陣所(之)に高松山ハとて小高キ山(他)有、是へ被取上、敵之働を御覧し、御下知次第に可仕之旨被仰含、鉄砲三千余挺に御弓之衆を被加、作之内に備置、佐々内蔵佐・前田又左衛門尉・塙九郎左衛門尉・福富平左衛門尉・野々村三十郎、御下知之ことく近々と足軽被懸候処に如案之御敵も人数出し」

とある。上記のように馬防柵の内側に信長が配置したのは、鉄砲三千余挺と弓衆であった明記されている。しかし太田牛一は後に1を推敲し浄書していく際に、当初「鉄砲三千余挺に御弓之衆を被加」と記していた部分を大幅に書き縮め「鉄砲千挺計」にしたのである。この理由として

①    牛一が鉄砲数の誤りを認めて「千挺計」とした

②    書き忘れた

の2つがある。そしてこの「千挺計」の「千」の右横に「三」が書き加えられており、藤本正行などはこれを「甫庵信長記」の影響を受けた後世の者が勝手に改変したとしている(「三」のほかにもいくつも訂正を示す書き込みが存在しており、これらが牛一自身の訂正の可能性もある)。また3の書写である「原本信長記」は訂正に従って「鉄砲三千挺」としている。

上記の通り、藤本正行などが信頼を置く太田牛一著「信長記」でさえも「鉄砲三千挺」の記述は複数存在している。よって「信長記」を根拠にして「甫庵信長記」の「鉄砲三千挺」を否定することは出来ない。そして一番古い「信長記」(尊経閣文庫所蔵)が「鉄砲三千挺」について言及している以上、小瀬甫庵の記述も何らかの根拠に基づいているものと思われる[56]

鉄砲三千挺の三段撃ちはあったのか(織田信長天才的才能による、この戦法の発明を契機に軍事革命、戦術革命が起きたのは事実か)編集

 
『長篠合戦のぼりまつり』での再現[57]

「三段撃ち」とは射撃の都度・弾薬の装填をしなければならない火縄銃の弱点を補い間断なく射撃を行うことを可能にするため鉄砲衆を三列に並ばせた戦法のことである。しかし「三段撃ち」は「甫庵信長記」[58]にしか示されておらず

(1)  千挺づつ放ち懸け、一段づつ立替り~打たすべし

(2)  家康卿より出し置かれたる三百人の鉄砲足軽渡し合せ、爰(ここ)を先途込替へ~放し懸けたる・・・

(3)  彼の(鉄砲奉行の)五人下知して、三千挺を入替へ~打たせければ・・・

と記述されている。そのため「甫庵信長記」の信頼度の低さ・高い技術を必要とする三段撃ちを実行したのは家臣からの寄せ集めだったことなどにより藤本正行・鈴木眞哉は厳しい批判をしている[59]

名和弓雄も「鉄砲三段撃ち」は有名な戦法であるが、実在は疑問視されている。『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、具体的な戦法、つまり三段撃ちを行ったという記述はなく、最初の記述は江戸期に出版された通俗小説に見られる。それを、明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、一気に「三段撃ち」説が広まったものとされる(これは「大日本戦史」として1942年に出版されている)。は現代において火縄銃の発射を再現した経験から「三段撃ちは不可能」との見解を示している[60][61]

しかし(1)の「立ち替わり」は当時「交代する」という意味でしかなくここでは他方にいる銃兵に替わって射撃するということでしかない。つまりこれは場所を移動することなく「三段」の銃兵が代わる代わる射撃したとことである。(2)の「込替へ~」は家康の鉄砲衆が射撃に専念し、足軽が弾薬の装塡を行って手渡すことだと思われる。(3)の「入替へ~」は「援護のために予備として控える軍勢が参戦すること」を意味しており(羅葡日辞書)、次弾の装塡に時間がかかる弱点を補いつつ、互いに助け合って交代で射撃したことを意味している。

以上の検討で鉄砲衆は移動することなく互いに助け合いながら交代で射撃していたことが分かる。

次に「甫庵信長記」が言及する「三段」について。「長篠合戦図屏風」(白帝文庫所蔵)において、三段撃ちの様子は描かれておらず、織田軍の鉄砲衆は別々の場所に配備された三隊として描かれている。

また「信長記」では

「武田四郎滝沢川を越来り、あるみ(有海)原三十町ばかり踏出し、前に谷を当て、甲斐・信濃・西上野の小幡・駿河衆・遠江衆・三州のつくで(作手)・だみね(田峰)・ぶせち(武節)衆を相加へ、一万五千ばかり十三所に西向に打向ひ備へ(後略)」

とあり、

これを踏襲したとみられる「甫庵信長記」は

「扨て(さて)勝頼は大河を後にあて十三段に備へて居たりける」

としており、共に長篠合戦の部隊の配置を十三段(十三所)と記述している。よって藤本正行・鈴木眞哉が批判した部隊を三列に並べる「三段撃ち」は誤解・誤読であり、当時の「段」とは武将が指揮する部隊を来るべき合戦に備えしかるべき場所に配置することを意味していたといえる。

では「三段撃ち」は虚構か。久芳崇は朝鮮出兵において日本軍が輪番射撃を使っていたことに言及している(「東アジアの兵器革命」吉川弘文館2010年)。輪番射撃とは「三列に配列された銃兵が移動を伴って交互に射撃をすること」(「軍器図説」)である。つまり通説の三段撃ちが朝鮮出兵において行われていたことがわかった。しかし「長篠合戦図屏風」(白帝文庫所蔵)を見てみると二段撃ちが描かれており、銃兵の先頭は折り敷き、後列は立射であることが分かる。ここから推測するに長篠合戦時においての輪番射撃は三列に配置された銃兵はその場を動かぬことが原則であり、まず最前列だけが折り敷き、戦闘中は決して立ち上がらぬように命じられていた。こうすれば藤本正行・鈴木眞哉・名和弓雄が指摘した「三段撃ち」の問題点である、後ろから撃たれる危険性や狙いを味方が阻害するなどの課題は解消されるはずであり、実際の長篠合戦でもこの輪番射撃が使用されていた可能性は高い。

以上全てを分析すると「三段撃ち」とは次の通りに推測できる。

織田軍の鉄砲衆三千余挺は、三部隊(備)に分割され、五人の奉行の下、三カ所(「三段」)に配備された。そしてその部隊内部で銃兵は、複数列に編成され、輸番射撃が実施されていたと推測される。さらに火縄銃の連続射撃にあたっては不可能であるミスファイア(不発)、次弾装塡の遅れ、銃身内部に溜まった残滓(ざんさい)の除去、火縄の火の再点火などの不備を補うために、信長直属(旗本)の御弓衆が彼らの脇を固め、射撃が出来なくなった鉄砲衆に代わり、武田軍の接近を防ごうとしていた[62]

武田勝頼の軍勢に騎馬軍団は本当に存在したのか編集

これを主張しているのが鈴木眞哉[63]や太向義明などが下記を理由として騎馬軍団を後世の創作としている[64]

①    戦国期の騎馬兵と徒歩兵の違いは兵種ではなく地位・身分の差であり騎乗できたのは指揮官ないし士官クラスだけ。そして騎乗できる者は指揮官だけであるが指揮官だけが集まって部隊を編成することは統制の観点であり得ない

②    戦国大名は家臣の知行に応じて軍役を課しており騎馬の割合は低い。騎馬兵の割合が低いことは騎馬兵の絶対数の少なさを示している

③    騎馬兵の絶対数が少ないことは従来語られる「騎馬兵の密集突撃」を不可能にしており近代騎兵ほどの質もない。

④    日本の戦国期には騎馬戦闘は存在せず全て下馬して戦うの常識だった。

⑤    騎馬は敵の追撃、もしくは退却を余儀なくされた場合など極めて限られた戦闘場面のみ投入された。 

上記の「騎馬軍団は存在していなかった」という主張に対して藤本正行・桐野作人・平山優は下記のように反論している。

①    甲陽軍艦では「戦功の程度によって知行を与え馬に騎乗させて3百騎を編成させた」という記述があり実際の騎馬軍団は被官・枠者・傭兵・軍役衆など多様な身分の人々によって構成されていたことがわかる[65]

②    北条家の岩付一門衆の軍役は1580余人でありその内騎馬衆は5百余人である。その規模は全体の約32%を占めており「騎馬隊」の実在を明確に証明している。そして武田家も騎馬武者の存在が確認されており、戦国大名の軍隊に弓衆・鉄砲衆・長柄衆と並んで乗馬衆(騎馬衆)が実在したことは間違いない[66]

③    「騎馬の密集突撃」は確かに存在していた。騎馬は戦闘の展開が有利になった状況下で、それをよりいっそう確実なものにするために集団で戦場に投入される場合があり、それは馬上打持戦や下馬打持戦の混合という形態だった[67]

④    鈴木と太向は史料誤読をしており、騎馬部隊ならではの問題を無視している。騎馬武者は鎧兜で完全武装しているため乗り続けていると馬が動けなくなったしまうリスクが存在していた。そのため休ませるために下馬をしていたことがわかる。この点に関して藤本正行は「戦術的観点から見ても平地での攻撃で馬を下りる必要は全くない」と断じており桐野作人も賛同している[68]

⑤    「信長記」には

「三番に西上野小幡一党、朱武者にて入替り懸かり来る、関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行(てだて)にて、推太鼓を打つて懸り来る」

との記載がある。「行」とは作戦や企図などを意味しており、馬で突入する作戦で攻め寄せたことがはっきり分かる。このため武田軍が、長篠合戦で騎馬衆を投入する作戦を実際に展開していたことは間違いない[69]

平安・鎌倉・戦国期の馬編集

武田氏の本国である甲斐国を含む中部高地では西日本に先行して古墳時代の4世紀後半代に(現在の木曽馬等の祖先)が伝来し、馬骨馬歯、古墳の副葬品としての馬具の出土事例が見られる。古代には記紀に甲斐の黒駒と称される名馬の伝承が記され、聖徳太子が付加される。平安時代には御牧が経営され朝廷に貢馬を行っている。また、戦国期に武田領国となった信濃においても伊那谷で古墳時代からの馬の出土事例があり、平安時代には御牧が存在した。

甲斐国における馬遺体の出土は戦国期のものが少なく、平安・鎌倉時代のものが多数を占めている。南アルプス市百々(どうどう)の百々遺跡や南アルプス市の大師東丹保遺跡、甲府市朝気の朝気遺跡からは馬遺体が多数出土しているが、三者とも乗馬ではなく、百々遺跡は馬遺体は皮革利用、後二者は駄馬農耕馬であると考えられている。

戦国期の馬遺体では甲府市武田の武田氏館跡から出土した馬の全身骨格が知られる[70]。これは西曲輪南側の枡形虎口に伴い馬出空間から出土した個体で、年代は戦国期から近世初期、推定年齢12歳の雄であると推定されている[70]

武田勝頼の作戦は無謀で、自殺行為ともいえる突撃が繰り返されたのはなぜか[71]編集

ルイス・フロイスの「日本史」によると勝頼と同じく多くの鉄砲を擁する敵陣への突撃を行いながらも勝利した島津家による沖田畷合戦と戸次川合戦の事例がある。島津軍が敵陣に接近する際の援護射撃は鉄砲が少なく主に弓であったのに対して、龍造寺軍と豊臣軍は多数の鉄砲を擁していた。しかし島津軍は命を惜しまずに敵陣に攻撃を仕掛けた。そしてあまりにも早く島津軍に接近されたため、弾込めの余裕がなくなり鉄砲は完全に無力化された。さらに槍も有効に機能せず刀で次々に切り払われ陣中への突入を許し大混乱に陥り龍造寺軍と豊臣軍は大敗した。

 そして信長自身も勝頼と同じ作戦を採用し勝利した事例がある。「信長記」巻9では天正4年5月7日、信長と石山本願寺が激突した。鉄砲数千挺で攻撃をする石山本願寺に対して信長は必死の突撃を敢行して切り崩し、打物戦に持ち込んで勝利を収めたのだ。一方で信長が長篠合戦時の織田軍の作戦を敵に取られ、敗退した事例もある。「信長記」巻10には雑賀攻めに踏み切った織田軍は鉄砲で待ち構える雑賀衆に対し馬で渡河攻撃を仕掛けた。だが岸が高く馬が上がれずにもたもたしているところを鉄砲で狙い撃ちされ大半が戦死し敗退した。雑賀衆の戦法は、川を前にして柵を構築し鉄砲で待ち構えるという戦法で長篠合戦と同じであった。にもかかわらず織田軍は柵とその背後の鉄砲衆に対して工夫をすることなくいきなり騎乗攻撃を仕掛けているのである。

 また野口備後守の軍功覚書(「牛久市史料」中世1)には天正11年9月谷田部城攻撃により退却する牛久衆が鉄砲で狙撃を行ったが馬で乗りかけられ攻め崩された事例がある。ここでも、鉄砲をものともせず有利と見るや躊躇せず敵陣に突撃を仕掛けていることが分かる。

 以上の事例を見ると鉄砲や弓矢などを装備して待ち構える敵陣に対し、突撃を仕掛ける戦法は当時としては正攻法であった。武田軍が敗れたのは織田・徳川連合軍と兵力差が大きかったことにある。そのため織田・徳川連合軍の鉄砲装備がかつて無いほどの数量であり敵陣に接近するまでに多くの将兵が戦闘不能に陥り、肉薄して織田・徳川連合軍の鉄砲を沈黙させることができなかった。

武田氏は信玄以来鉄砲導入には消極的と言うよりも、むしろその有効性を軽視しており、これが長篠合戦敗戦に繋がったのは本当なのか編集

浦野宮内左衛門尉への軍役条目の第3条で鉄砲の弾薬は大将から陣ごとに配当すると述べており勝頼自身が弾薬の用意をしていたことがわかる。よって武田家は鉄砲を軽視していなかった[72]

武田勝頼は味方の不利を説き諫める家臣たちを振り切って決戦を決断したのは事実か編集

甲陽軍鑑[注釈 15]では跡部勝資長坂光堅ら武田勝頼の側近が主戦論を主張し、宿老家臣の「撤退すべき」という意見を無視し決戦に臨んだというが『甲陽軍鑑』は勝頼期に跡部勝資ら新興の出頭人と古参宿老との対立が武田家の滅亡を招いたとする構図を記しており、文書上において跡部勝資は信玄後期・勝頼期の側近として重用されていることは確認され、武田家中における新興側近層と古参宿老層の関係が長篠合戦について記される逸話の背景になっている可能性が考えられている[73]

武家事紀』には、かねてから佐久間信盛が偽って勝頼に内通し、裏切りを約束していたために、勝頼が進軍して大敗したとある[74]。『常山紀談』では、信長の謀略で、信盛が長坂光堅に内通して裏切りを約束して、光堅から一戦を勧められた勝頼が、馬場信春らの意見を用いず進軍を決断したという話が載せられている[75]

今回と状況が似ている前年の第一次高天神城の戦いでの圧勝で自信過剰となって勝てると判断したという説や、鳶ヶ巣山に酒井忠次の別働隊3,000の迂回を武田軍は察知しており、第四次川中島の戦いの逆説的な再来を狙ったという説などもある。

当時の情勢を見た場合、信玄後期時代の時点で織田家は尾張・美濃・南近江・北伊勢・山城他近畿圏にまで勢力を伸ばし、単独で対抗しえる勢力は皆無であった。そこで信玄は近畿圏において浅井長政・朝倉義景及び石山本願寺(一向衆)等の各勢力により織田家の兵力を拘束し、東方へ向ける兵力を限定させた上で三河・尾張若しくは美濃で織田と決戦するという戦略を立てていた(第二次信長包囲網)。後を継いだ勝頼もその基本戦略を踏襲していたが、有力な勢力だった浅井・朝倉や長島一向衆が勝頼の代には既に滅ぼされており、武田家と本願寺を残すばかりとなっていた。また、織田家の勢力の伸張は急速であり、日に日に国力差が開いていく現状を鑑みれば、どのみち早い段階で織田家と主力決戦を行い決定打を与える必要があった。

逆に信長の立場から見た場合、武田と直接戦わずとも時間が経つほど戦略的に優位に立つことになり、この時点で戦う必要は必ずしもなかった。信長自身が出陣したことで徳川に対する義理(後詰)も果たしている。そもそも長篠の戦いの主目的は、長篠から武田を撤退させることである。そのため、合戦をしても負けさえしなければ良く、武田方が攻めてくる前提で陣城を築き、鉄砲を大量に配置したことは目的にかなっていた。

徳川家としては、今後の遠江攻略を視野に入れると、今回是非とも合戦を発生させて、強力な織田の援軍のいる時に武田を叩いておきたいという考えがあった(特に鳶ヶ巣山砦攻撃の発案は徳川方である)。事実、この戦いによって徳川家の目論見は成功し、長年、武田家と小競り合いを続けてきた三河を完全に掌握し、以後、歴史的惨敗で急速に弱体化した武田家を相手に攻勢に打って出ることに成功している。

長篠古戦場には両軍の陣城跡が歴然としており、これが鉄砲と並んで合戦の帰趨に影響を与えたのではないのか編集

信長が行った野戦築城に対し、従来通りの野戦と騎馬隊突撃の戦術を用いたのが大敗の一番の理由とする説もある。名和弓雄は脆弱に見える馬防柵の突破が容易と誤認させることで武田軍を誘引したうえで、空堀と銃眼付き土塁に守られた鉄砲隊が射撃を浴びせたことが勝因だったと指摘している。また、武田側は、事前偵察が鉄砲でことごとく撃退されたうえ、開戦後は轟音と硝煙で戦場の様子が把握できず、織田・徳川連合軍の防備や戦力を把握できないまま突入を繰り返して被害を拡大させたと推測している[76]

馬防柵は、織田信長が綿密な計画を立案し建設したとされるが事実か編集

高澤等は、織田・徳川方はすでに2月の段階で佐久間信盛を派遣して合戦地周辺の情報を収集させ情報を共有していたことから、長篠の戦いは姉川の戦いのように、あらかじめ武田方に対して合戦日時と合戦地を申し合わせしていた可能性があるという考えを示しており、当合戦は最初から信長によって計画されて発生したものとしている[77]

絵画における長篠合戦編集

 
『長篠合戦図屏風』の一部(徳川美術館蔵)[注釈 16]

近世期には屏風絵において軍記類の記述に基づき著名な戦国合戦の様子を描いた戦国合戦図屏風が製作され、長篠合戦図屏風は10の作例が知られる[注釈 17]

現存する作例のうち原本を考えられているものが尾張徳川家の附家老で犬山藩主の成瀬氏に伝来した「長篠合戦図屏風」(犬山城白帝文庫所蔵、公式サイトに解説あり)で、成瀬本は六曲一双の本間屏風で「長久手合戦図屏風」と対になる。長篠合戦図は右隻となる。紙本着色、寸法は縦165.2cm、横350.8cm。

画面構成は右端の一扇目には大野川・寒狭川に画された長篠城と城将である奥平貞昌の姿が描かれ、右下には鳶ノ巣山砦が描かれている。ニ扇目には武田勝頼の本陣が描かれ、上部には馬場信春の最期が描かれている。第三、四扇目には設楽原における決戦の様子が描かれ、馬防柵に守られた徳川勢の鉄砲隊と突撃する山県昌景の騎馬隊が描かれている。第五、六扇目には織田・徳川勢の本陣が描かれ、信長や家康のほか羽柴秀吉や滝川一益ら諸将の姿が描かれているが、特に徳川勢の布陣が大きく描かれ成瀬氏の始祖である成瀬正一のほか徳川家の譜代家臣の諸将が描かれている。

描かれている諸将の配置や場面の構成から成瀬本には元和8年(1623年)には刊本が刊行されている小瀬甫庵『信長記』や同じく元和年間に成立している『甲陽軍鑑』の影響下に描かれている点が指摘されている。成瀬家の言い伝えでは江戸初期の作というが、樹木や人物表情の描写から17世紀の後半延宝頃と考えられる。

大阪城天守閣徳川美術館公式サイトに解説)も「長篠合戦図屏風」を所蔵しているが、これらは成瀬家本を写したもので、自然描写から大阪城天守閣本は成瀬家本からさほど下らない時期、徳川美術館本は江戸時代後期に描かれたと推測される。なお、名古屋市美術館本(文化庁オンラインに解説)は、合戦の情報量が少なく、絵画様式から見て成瀬本より古い17世紀前半元和から寛永前期頃の制作と見られる。作者は大和絵系の絵師。元は六曲一双で長篠合戦図を構成していたと考えられ、これを六曲一隻にまとめつつ内容を充実させ、更に左隻に小牧長久手合戦図を加えたのが成瀬本だと推測される[79][80]

関連行事編集

  • 信昌の長篠籠城を偲んで、大分県中津市の奥平神社では毎年5月に例大祭「たにし祭」が開催されている[81]
  • 愛知県新城市では戦いで倒れた両軍将士の慰霊のため、毎年5月に「長篠合戦のぼりまつり」が開催され、法要、合戦行列、火縄銃等の演武などが行われている[82]

関連作品編集

小説
映画
楽曲
ゲーム

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 織田3万+徳川2千以上[1]、合計で、7万2千[2]、10万余[3]など。
  2. ^ 1万1千[1]、2万余[4]など。
  3. ^ 討死約1万+川で溺死した者と逃げて山中で餓死した者限り無し[1]、数千騎[5]、千余[6]、1万3千[2]など。
  4. ^ なお従来の西上作戦とは、元亀2年における三河・遠江への大規模な侵攻とされていたが、近年では文書の再検討により三河・遠江侵攻に関する文書の年代比定は“元亀2年(1571年)から天正3年(1575年)”に修正され、一連の経緯は長篠の戦いに関するものである可能性が考えられている[7][8][9][10]
  5. ^ ただし、貞能の父である奥平貞勝はこれに反対して離反、長篠の戦いにも武田方で参戦後、武田氏滅亡後まで武田軍の一員として息子や孫と戦っている[11]
  6. ^ 信長公記にはこの逸話は記されていない。また、甫庵信長記のうち時代が古いものにはこの話はなく、江戸時代になってから徳川家臣の要求で加筆されたという[16]
  7. ^ 「志多羅の郷は、一段地形くぼき所に候。敵がたへ見えざる様に、段貼に御人数三万ばかり立て置かる。」[17]
  8. ^ 海外における野戦築城の中で同様に鉄砲を用いた例として、これ以前としては1503年の第一次イタリア戦役や、1522年の第二次イタリア戦役が挙げられる。
  9. ^ ちなみに、「勝頼が川を越えずに鳶の巣山に布陣していたら、織田方はどうしようもなかった」という記術も存在する[1]
  10. ^ 画像最右の集落の字名は「信玄」、その左の水田を流れる小規模河川が連吾川、更に左手尾根を超えた画像中央の水田を流れるのが大宮川である。このように設楽原とは言っても丘陵の連なる起伏に富んだ地形である。
  11. ^ 文書上では同年6月2日には甲府への帰陣が確認される[36]。高坂昌信はこの時勝頼に敗軍の将を感じさせないために立派な武具に着換えさせたという。
  12. ^ 信玄後期の家臣団編成を記した「武田法性院信玄公御代惣人数之事」の記事から[37]
  13. ^ 高野山過去帳類においては市川昌房、三枝昌貞、真田信綱・昌輝、津金美濃守、祢津月直、馬場玄蕃、山県源左衛門尉、山県昌景、山県昌次などの戦死者が確認される。
  14. ^ 近年において、元亀年間の段階で「信昌」の名乗りが用いられている可能性が指摘され、奥平信昌は織田信長ではなく武田晴信(信玄)の偏諱を与えられたとする説がある[42]
  15. ^ 甲陽軍鑑は江戸時代の元和年間に原本が成立した軍学書で、信玄・勝頼期の事績が記されている。内容は年紀の誤りや文書上から否定される、あるいは確認されない事実を数多く含むため慎重視されているが、信玄・勝頼期の歴史的背景を反映している可能性も指摘されている。
  16. ^ 左端に描かれている鹿角の兜の武者は本多忠勝。その側に幡旗の一部を持つのが原田弥之助(忠勝家臣)。馬防柵の前に並ぶのは徳川勢で、上から騎乗の武将は内藤信成大久保忠世大久保忠佐。原田と忠佐の間に描かれた鉢巻姿の武者が成瀬正一である。右端の首のない武田武者は、銃弾に倒れた山県昌景で、家臣志村又右衛門が首級を奪われまいと走り去る光景である。画面中央の溝は連吾川で、汚れのようなモヤは鉄砲の硝煙を表現したもの。
  17. ^ 小牧長久手の合戦のみを写した「小牧長久手合戦図屏風」(六曲一隻、三河武士のやかた家康館蔵、江戸後期)と「小牧長久手合戦図屏風」(六帖、東京国立博物館、製作時期不明)の2点を含めた12点の所在一覧表がある[78]。列挙すると、「長篠合戦図」(六曲一隻、名古屋市博物館蔵、江戸初期)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、犬山城白帝文庫蔵、江戸前期)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、犬山城白帝文庫蔵、江戸後期。前作の副本)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、松浦史料博物館蔵、文政12年(1829年)。成瀬本の写本)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六幅+八幅、東京国立博物館蔵、江戸後期)、「長篠合戦図」(六幅、奥平神社蔵(中津城保管)、江戸後期)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、個人蔵、江戸後期。成瀬本の写本)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、大阪城天守閣蔵、江戸後期)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、徳川美術館蔵、江戸後期)、「長篠合戦図屏風」(六曲一双、徳川美術館蔵、江戸後期)。
  18. ^ この作品のラストシーンに長篠の戦いの場面が登場する。

出典編集

  1. ^ a b c d 信長公記
  2. ^ a b c 徳川実紀
  3. ^ 三河物語
  4. ^ 『徳川実紀』および『三河物語』
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  6. ^ 多聞院日記
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  8. ^ 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」(『武田氏研究』第37号、2007年)
  9. ^ 柴裕之「長篠合戦の政治背景」(武田氏研究会編『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』高志書院、2010年)
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  11. ^ 柴裕之「三河国衆奥平氏の動向と態様」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
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  24. ^ 5月20日深夜、信長は家康の重臣であった酒井忠次を呼び、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2,000ほどを選び出して酒井忠次に率いさせ、これに自身の鉄砲隊500と金森長近ら検使を加えて約4,000名の別働隊を組織し、奇襲を命じた(『信長公記』)。
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  28. ^ 「甲陽軍鑑」 馬場信春・内藤正豊・山県昌景・小山田信茂・原昌胤は反対。 長坂光堅・跡部勝資は賛成。 勝頼は明日の合戦を止めることはしないと、御旗楯無に誓ったのでその後は誰も意見ができなくなった。その結果5月21日に長篠において合戦になった。 武田軍は1万5千、織田・徳川は10万の大軍で柵を三重に結い、難所を三つ構えて待ち受けた。勝頼はそこに1万2千で攻めかかった。」 左の山形昌景1千5百は家康6千をそれぞれ破り柵の中へ追い込んだ。しかし柵がないところを攻めようとした昌景は柵から突出した家康勢に鉄砲で撃ち抜かれ即死した。 中の内藤正豊は1千の兵で滝川一益3千を破った。そして甘利・原昌胤・跡部勝資・小山田信茂・小幡信貞・武田信̚廉・武田信豊・望月信雅・安中も敵勢を柵際へ敵を追い詰めて勝った。 右の馬場信春は7百の兵で佐久間信盛6千を破った。そして真田信綱・真田昌輝・土屋昌続は信春と入れ替わったが信長勢は家康勢と柵を出なかった。そのため真田は柵に突撃し多くが討ち死に、あるいは負傷して退きこの時に真田兄弟は深手を負って亡くなった。続いて土屋昌続が戦死した。 穴山信君は戦わずに退き、一条信龍は馬場信春を退却させた後に退いた。しかし馬場信春は長篠の橋場で足止めに徹し討ち死にした。 長篠城の抑えのために鳶ノ巣山へ武田信実を大将とする2千、名和無理之介・飯尾弥右衛門・五味与惣兵衛の3人を頭とする浪人衆・雑兵の1千を配置したが大半が討ち死にした。 日本にかくれなき弓取 武田勝頼 笹本正治 ミネルヴァ書房 80頁~87頁
  29. ^ 「信長公記」 5月18日に設楽郷の極楽寺山に陣を据えた。ここは地形がくぼんでいたので、武田軍に見えないように3万人ばかりを配置した。家康は高松山に陣を置き、滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀は有海原に上り、勝頼に打ち向かい東向きに備え、家康と滝川が陣取った前に、武田軍の馬防柵を付けた。勝頼は長篠の上の鳶ノ巣山に陣を設け、長篠へ7人の大将を差し向け、自身も有海原に30町ばかり踏み出し、前に谷をあてて1万5千人ばかりの勢で進んだ。 5月20日の戌の刻(午後8時頃)信長は家康の弓矢・鉄砲に優れた者2千と信長自身の馬廻り鉄砲5百挺など合計4千人で乗本川を越え、翌21日辰の刻(午前8時頃)に鳶ノ巣山に攻め入って武田勢を追い払い長篠城に入城。攻撃を受けた長篠の7人の大将は敗北し鳳来寺に退却した。 信長は家康の陣所の高松山に登り鉄砲1千挺で攻撃した。前後から攻撃を受けた武田勢は山県昌景・武田信̚廉・小幡信貞・武田信豊・馬場信春が順番に攻撃するが大人数で柵に身を隠して待ち、鉄砲を撃ちかけた織田軍に過半数が討たれで退いた。武田軍は21日の日の出から未刻(午後2時頃)まで、入れ替わりながら戦ったが損害が激しくなったころに勝頼の元に集まり鳳来寺まで退却した。 織田軍3万人 武田軍1万5千人  武田軍の損害は侍・雑兵が約1万人、山へ逃げて飢え死に、 あるいは橋から落とされ溺れた者数知れず。 日本にかくれなき弓取 武田勝頼 笹本正治 ミネルヴァ書房 87頁~89頁
  30. ^ 長篠合戦と武田勝頼 平山優 吉川弘文館 235頁~246頁
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  34. ^ 「甲陽軍鑑」 馬場信春・内藤正豊・山県昌景・小山田信茂・原昌胤は反対。 長坂光堅・跡部勝資は賛成。 勝頼は明日の合戦を止めることはしないと、御旗楯無に誓ったのでその後は誰も意見ができなくなった。その結果5月21日に長篠において合戦になった。 武田軍は1万5千、織田・徳川は10万の大軍で柵を三重に結い、難所を三つ構えて待ち受けた。勝頼はそこに1万2千で攻めかかった。」 左の山形昌景1千5百は家康6千をそれぞれ破り柵の中へ追い込んだ。しかし柵がないところを攻めようとした昌景は柵から突出した家康勢に鉄砲で撃ち抜かれ即死した。 中の内藤正豊は1千の兵で滝川一益3千を破った。そして甘利・原昌胤・跡部勝資・小山田信茂・小幡信貞・武田信̚廉・武田信豊・望月信雅・安中も敵勢を柵際へ敵を追い詰めて勝った。 右の馬場信春は7百の兵で佐久間信盛6千を破った。そして真田信綱・真田昌輝・土屋昌続は信春と入れ替わったが信長勢は家康勢と柵を出なかった。そのため真田は柵に突撃し多くが討ち死に、あるいは負傷して退きこの時に真田兄弟は深手を負って亡くなった。続いて土屋昌続が戦死した。 穴山信君は戦わずに退き、一条信龍は馬場信春を退却させた後に退いた。しかし馬場信春は長篠の橋場で足止めに徹し討ち死にした。 長篠城の抑えのために鳶ノ巣山へ武田信実を大将とする2千、名和無理之介・飯尾弥右衛門・五味与惣兵衛の3人を頭とする浪人衆・雑兵の1千を配置したが大半が討ち死にした。 日本にかくれなき弓取 武田勝頼 笹本正治 ミネルヴァ書房 80頁~87頁
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  36. ^ 『戦国遺文』武田氏編 - 2495号・3704号
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  38. ^ a b c d 長篠合戦と武田勝頼 平山優 吉川弘文館 254頁~267頁、277頁
  39. ^ 長篠における勝利、そして越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭した。
  40. ^ 徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江の重要拠点である諏訪原城二俣城を攻略していき、高天神城への締め付けを強化した。
  41. ^ 長篠合戦と武田勝頼 平山優 吉川弘文館 254頁~267頁、277頁
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  57. ^ 鉄砲隊の背後の看板の「鳥居強右衛門の逆さ磔」絵柄は上下逆。
  58. ^ 通説である鉄砲3,000丁というのは甫庵本『信長記』や池田本『信長公記』が出典である。甫庵本は資料としての信用度はさほど高くはないとされ、資料的な信用度が高いとされる池田本の方では1,000丁と書かれた後に「三」の字が脇に書き足されたようになっている点に信憑性の問題がある。これは甫庵本の3,000丁が一人歩きした後世の加筆なのか、筆を誤ったのに気付いてその場で加筆修正したのかは明らかではない。しかしその「三」の字は返り点とほぼ同じ大きさで書かれており、筆を誤ったのでその場で加筆したというのも少々考えにくい。
  59. ^ 太田牛一の『信長公記』では、決戦に使用された鉄砲数に関しては「千挺」(1,000丁)、鳶ヶ巣山攻撃の別働隊が「五百挺」と書いてあり(計約1,500丁)、3,000丁とは書かれていない。しかし、この「千挺計」は、佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政の5人の奉行に配備したと書かれているのであって、この5人の武将以外の部隊の鉄砲の数には言及されていない。また、信長はこの合戦の直前、参陣しない細川藤孝筒井順慶などへ鉄砲隊を供出するよう命じており、細川は100人、筒井は50人を供出している。恐らく他の武将からも鉄砲隊供出は行われたものと思われ、さらに鉄砲の傭兵団として有名な根来衆も参戦している。つまり、太田は全体の正確な鉄砲数を把握していなかったといえ、1,500丁は考えうる最低の数といえる。 当時の織田家が鉄砲をどのくらい集めることができたかを考えた場合、これより6年後の天正9年(1581年)に定められた明智光秀家中の軍法によれば、一千石取りで軍役60人、そのうち鉄砲5挺を用意すべき旨定めている。長篠合戦に参戦した織田軍の兵力を通説に従って30,000、また先述のように参戦しない武将にも鉄砲隊を供出させた史実を考えれば、数千挺ほどは充分用意できた可能性がある。 以上の内容を考慮して織田家が使用した鉄砲数が通説よりも少ない1,000丁だったとみても、当時としては充分に特筆すべき数ではある。また、武田軍全軍が通説通り1万数千人と仮定した場合、勝頼本隊を別にして、戦死した馬場隊・内藤隊・山県隊・真田兄弟隊・土屋隊や、撤退した穴山隊、武田信廉隊、武田信豊隊と分けて行くと、部隊ごとに差はあるにしても一部隊の人数は2,000人に達しない。この部隊単位で考えれば、織田軍の鉄砲が1,000丁であったとしても、相対的に相当な数である(また、これとは別に徳川家の鉄砲も考慮に入れる必要がある)。
  60. ^ 『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣、2008年)
  61. ^ ただ、先述のように信長がこの合戦に大量の鉄砲を持ち込んだことは疑いようがない。『信長公記』には、「武田騎馬隊が押し寄せた時、鉄砲の一斉射撃で大半が打ち倒されて、あっという間に軍兵がいなくなった」という鉄砲の打撃力を示す描写がある。より具体的には、「長篠の戦いの緒戦で、武田軍は家老山県昌景を一番手として織田陣営を攻め立てたが、織田軍の足軽は身を隠したままひたすら鉄砲を撃ち、誰一人前に出ることはなかった。山県隊は鉄砲に撃たれて退却し、次に二番手、三番手と次々と新手を繰り出すが、それもまた過半数が鉄砲の犠牲になった(要約)」とされる。ただし、#両軍の兵力数と損害数に記述されるように、本当にそれだけの損害を与えられたのかは別に疑問が残る。とはいえ、死なずとも負傷兵となれば、これを退かせる必要があり、負傷した人間を後送させるにも最低1名、つまり計2人以上を前線から遠ざけることになる(この考え方は現代でも行われている)。具体的な運用法は不明だが、鉄砲隊をある程度集中した部隊として機能させていれば、1度の射撃で部隊単位の戦力を大きく消耗させることは不可能ではなく、結果的に三段撃ちがなくても、武田軍を消耗させることは難しくないといえる。
  62. ^ 長篠合戦と武田勝頼 平山優 吉川弘文館 164頁~179頁
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参考文献編集

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  • 藤本正行「図解ドキュメント長篠合戦」(『別冊歴史読本』27号、1980年)
  • 柴裕之「長篠合戦の政治背景」(武田氏研究会編『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』高志書院、2010年)
  • 柴裕之「長篠合戦再考-その政治的背景と展開-」( 『織豊期研究』12号、2010年)
  • 平山優『検証・長篠合戦』(吉川弘文館、2014年)

関連項目編集

外部リンク編集