楊 傑只哥(よう ゲイジゲ、1200年 - 1239年)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。

概要 編集

楊傑只哥は代々大興府宝坻県に居住し農業を営む家の出であったが、チンギス・カンによる金朝侵攻が始まると家族を伴ってこれに服属した。モンゴル軍に取り立てられた楊傑只哥は遼西方面への進出や、アジュル配下としての西夏遠征に功績を挙げた。1229年己丑)に第2代皇帝オゴデイによる第二次金朝侵攻が始まると、皇弟トルイの軍勢に属して金幣を与えられ、アジュルとともに信安攻めを命じられた。アジュルは楊傑只哥の才幹が配下の武将の中でも傑出していることを知悉していたため、軍務の指揮を委ねた[1]

信安城は四方を水に囲まれた要衝であり、金朝の将の張進もこれをよく守り数カ月にわたって抵抗を続けた。楊傑只哥は力攻めではなく交渉による開城を目指し信安城を訪れたところ、「我は既に2人の使者を斬り殺しているのに、汝は死を恐れないのか?」と問いかけられた。そこで楊傑只哥は顔色も変えず「今、斉・魯・燕・趙といった地は全てモンゴルに降り、君のみがこの城を恃み抵抗を続けているが、内は軍糧が尽き、外に援兵もなく、城を存続させる術はない。君のために降伏して死を免れるよう請うているのだ」と述べ、更に3度に渡って説得することによってようやく信安を投降させることに成功した[2]

1231年辛卯)に大名の蘇椿が叛乱を起こした時はこれを討伐し、他の将が城民の皆殺しを主張したのを説得してやめさせた。これにより楊傑只哥の寛容な姿勢を知った滑州濬州が相次いで降ったという。1732年壬辰)、モンゴル軍は徐州に進出したが、河によって進軍を阻まれた。楊傑只哥は賊兵が沢中で舟を用いているのを探知し、数人の精鋭を率いて船を奪うことで渡河を成功させ、河南諸郡から3万余りの戸を投降させる功績を挙げた。徐州で金軍と激突した際には、楊傑只哥は百騎余りを率いて敵陣に突入し、敵兵を大いに破り敵将を一人捕虜とする功績を挙げた。皇太弟国王テムゲ・オッチギンは楊傑只哥の勇敢な戦いぶりを見て「バガトル(勇士)」の称号を賜り、金符を授けたという[3]

1235年乙未)、オゴデイ・カアンは楊傑只哥に種田民戸租賦を賜り、1237年丁酉)には再びアジュルに従って帰徳を攻めた。楊傑只哥は麾下の諸将に筏を作らせて濠を渡り、城壁を上って城の陥落に大きく貢献した。これにより5州10県4堡2塞が降ったという。1239年己亥)には南宋兵が帰徳を攻めてきたが、楊傑只哥はこれを撃退し舟に乗って追撃した。ところが、追撃戦の最中に楊傑只哥は流れ矢に当たって船から落ち、40歳にして溺死してしまった[4]。息子には楊孝先・楊孝友らがいた[5]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻152列伝39楊傑只哥伝,「楊傑只哥、燕京宝坻人、家世業農。傑只哥少有勇略、太祖略地燕・趙、率族属降附。従攻遼左、及従元帥阿朮魯定西夏諸部、有功。己丑、睿宗賜以金幣、命従阿朮魯攻信安、阿朮魯知其材略出諸将右、命裁決軍務」
  2. ^ 『元史』巻152列伝39楊傑只哥伝,「信安城四面阻水、其帥張進数月不降、傑只哥曰『彼恃巨浸、我師進不得利、退不得帰、不若往説之』。進見其来、怒曰『吾已斬二使、汝不懼死耶』。傑只哥無懼色、従容言曰『今斉・魯・燕・趙、地方数千里、郡邑聞風納降、独君恃此一城、内無軍儲、外無兵援、亡可立待。為君計者、不如請降、可以保富貴而免死亡』。進黙然曰『姑待之』。凡三往、乃降」
  3. ^ 『元史』巻152列伝39楊傑只哥伝,「辛卯、大名守蘇椿叛、討獲之、衆議屠城、傑只哥曰『怒一人而族万家、非招来之道也』。衆是其言。由是滑・濬等州、聞風納款。壬辰、師次徐州、阻河不得済。傑只哥探知有賊兵操舟楫伏草沢中、率勁卒数人、憑河撃之、悉奪舟楫、衆遂得渡、獲河南諸郡降人三万餘戸。進攻徐州、金将国用安拒戦、傑只哥率百餘騎突入陣中、迎撃於後、大敗之、擒一将而還。皇太弟国王駐兵河上、見之、賜名抜都、授金符、命総管新附軍民」
  4. ^ 『元史』巻152列伝39楊傑只哥伝,「乙未、太宗特賜傑只哥種田民戸租賦。丁酉、従阿朮魯攻帰徳、傑只哥麾諸将縛草作筏渡濠抵城下、梯城先登、抜之。由是進攻、得五州十県四堡二寨。己亥、宋兵至、已登帰徳城、傑只哥率衆拒戦、敗之。率舟師追撃、転戦中流、溺死、年四十」
  5. ^ 『元史』巻152列伝39楊傑只哥伝,「子孝先・孝友。孝先、僉江北淮東道粛政廉訪司事。孝友、鎮江路総管」

参考文献 編集

  • 元史』巻152列伝39楊傑只哥伝