帰徳府(きとくふ)は、中国にかつて存在した金代から民国初年にかけて、現在の河南省商丘市一帯に設置された。

河南省の帰徳府の位置(1820年)

概要

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1130年天会8年)、金により応天府は帰徳府と改称された。帰徳府は南京路に属し、睢陽寧陵下邑虞城穀熟楚丘の6県を管轄した[1]

のとき、帰徳府は河南江北等処行中書省に属し、直属の睢陽・寧陵・下邑・永城の4県と徐州に属する蕭県宿州に属する霊璧県邳州に属する下邳宿遷睢寧の3県と亳州に属する城父鹿邑の3県、合わせて4州12県を管轄した[2]

1368年洪武元年)、により帰徳府は帰徳州に降格され、開封府に属した。1545年嘉靖24年)、帰徳州は帰徳府に昇格した。帰徳府は河南省に属し、直属の商丘・寧陵・夏邑・鹿邑・永城・虞城の6県と睢州に属する考城柘城の2県、合わせて1州8県を管轄した[3]

のとき、帰徳府は河南省に属し、直属の商丘・寧陵・夏邑・鹿邑・永城・虞城の6県と睢州に属する考城・柘城の2県、合わせて1州8県を管轄した[4]

1913年中華民国により帰徳府は廃止された。

脚注

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  1. ^ 金史』地理志中
  2. ^ 元史』地理志二
  3. ^ 明史』地理志三
  4. ^ 清史稿』地理志九