武田 観柳斎(たけだ かんりゅうさい、? - 慶応3年6月22日1867年7月23日))は、新選組隊士(五番組組長、文学師範)。本名福田廣(ふくだ ひろし)、は徳裕(のりひろ)[1]。文武両面で新撰組を支えた英才だが甲州流軍学に固執したため時代の流れから取り残された。

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来歴編集

出雲国母里藩士の子として生まれる。医学生であったと伝わるが、一説には藤本鉄石と交流し、投獄されたが脱獄したとも言う。後に脱藩。江戸へ行き、福島伝之助に学び、甲州流軍学長沼流)を修める。甲斐武田氏に因んで「武田観柳斎」を称した。

文久3年(1863年)冬頃に新選組に参加。一説には滋賀右馬允の斡旋があったと言う。軍学者として近藤勇に重用され、元治元年(1864年)には副長助勤に抜擢される。後に五番組組長や文学師範、軍事方といった地位に就き、甲州流軍学による調練を担当した。

池田屋事件では古高俊太郎を捕縛するなどの功により褒賞金20両を賜り、禁門の変明保野亭事件、また永倉新八斎藤一らが近藤の専横を非難した際には仲裁を務めるなど、軍才を背景に存在感を示す。しかし新選組で洋式の調練が採用されるようになると、甲州流軍学の武田は隊内での影響力を失い、その頃から伊東甲子太郎薩摩藩との接触を企てるなど、不穏な行動を示し始める。

慶応3年(1867年)6月22日、京都郊外の鴨川銭取橋にて暗殺された。武田の暗殺には斎藤や篠原泰之進が関与したと伝わるが、当時2人は御陵衛士に参加していたため、別人の可能性もある。翌日、加藤羆が武田に同心した咎により切腹させられ、27日には武田の「応意の者」として善応という僧が松原通で斬られた。

人物編集

  • 没年は32、3歳とされ、丈は高く坊主頭だったという。巧みな弁舌で近藤などに媚びへつらう態度など、武田に対して嫌悪を示す隊士も少なくなかったとされる。前述したように近藤の専横を咎める永倉や斎藤に対してその調停役を務めたが、そもそも近藤が専横に走ったのは武田が近藤に隊士は家臣として局長を慕っていると吹聴したためとする説もある。
  • 単なる文官と見られがちだが、剣術の腕も高く、「新選組剣豪秘話」では神道無念流を上手に遣ったとされ、前述の古高捕縛の他、矢野玄道の捕縛、慶応元年(1864年)8月8日には、京都蹴上の茶屋で金策をした薩摩藩士2名を、6名を率いてこれを殺害、捕縛した。「新選組金談一件」でも西村兼文が伊東と並ぶ「武芸の達者」と発言している。また、一橋家家臣・川村恵十郎とも親交があった。
  • 隊士の馬越三郎男色を迫る話が伝わっているが、これについては子母澤寛の「新選組物語」でのエピソードであり、現在では創作とする見方が強い。

脚注編集

  1. ^ 『全国版幕末維新人物事典』(学習研究社、2010年)260頁

関連項目編集