殷 叡(いん えい、生年不詳 - 493年)は、南朝宋からにかけての官僚は文子。本貫陳郡長平県

経歴 編集

東晋太常殷融の七世の孫とされる。父の殷寧は早逝し、殷叡は遺腹の子として生まれた。元嘉30年(453年)、祖父の殷元素(殷仲堪の孫)が劉劭の乱に連座して処断されると、殷叡も殺されるところであったが、祖母の父の王僧朗孝武帝に助命を願い出て、一命を免れた。殷叡は文意を理解し、弁舌の才があった。司徒褚淵は殷叡をたいへん重んじて、「殷氏のうちで荊州(荊州刺史の殷仲堪)より以来、卿の右に出る者なし」と評した。殷叡は南朝斉に仕えて司徒従事中郎となった。王奐王份の兄)の娘と謝混の娘を妻に迎えた。永明9年(491年)、王奐が雍州刺史となると、殷叡はその下で府長史となった。永明11年(493年)、王奐が処刑されると、殷叡も連座して殺害された。

子に殷鈞があった。

伝記資料 編集