殺生奉行(せっしょうぶぎょう)は、江戸幕府の職名の1つ。将軍狩り全般を担う役職で[1]殺生方とも呼ばれる[1]

記録上では、寛永18年(1641年8月25日から殺生奉行を務める安藤忠五郎定武が、同僚の筒井久平正成とともに慶安3年(1650年)に斑毛のを獲ったことで褒美の時服を賜わったことが見える(「大猷院殿御実紀」『徳川実紀』三[1][2])。

万治2年(1659年)に、江戸城内での席が躑躅間北より二の間と定められる(『徳川実紀』四[1])。

延宝8年(1680年)には200石と300石の者2人が殺生奉行の名で記録されている他、元禄4年(1691年)の『武鑑』には筒井久兵衛・安藤忠次郎・志村与兵衛の名が、宝永3年(1706年)の『武鑑』には3人の殺生奉行の名が載っている[2]

脚注 編集

  1. ^ a b c d 「殺生奉行」大石学著 『江戸幕府大事典』、279頁。
  2. ^ a b 「殺生奉行」『江戸時代奉行職事典』 川口謙二、池田孝、池田政弘 東京美術選書、97-98頁。

参考文献 編集