比企掃部允

平安時代末期の武士。武蔵国比企郡の代官。

比企 掃部允(ひき かもんのじょう)は、平安時代後期の武士源頼朝乳母比企尼の夫。

 
比企 掃部允
時代 平安時代後期
生誕 不明
死没 治承4年(1180年)以前[1]
別名 遠宗[2][3][4]、遠長、能丈[4]
太郎[3]、武蔵大介[4]
官位 従五位[4]掃部允比企郡少領[5]
主君 源為義義朝頼朝[3][4]
氏族 比企氏
父母 #家系参照
兄弟 #家系参照
比企尼[2]
朝宗[2]?、丹後内侍河越尼三女[4]
養子:能員[6]
テンプレートを表示

家系 編集

比企氏の出自には諸説あるが、掃部允を載せる系図はその実名を遠宗としている[2][3][4][注 1]。『埼玉叢書』所載「比企氏系図」によれば父を波多野遠義の孫の藤太遠泰とし[3]、比企氏の母系子孫にあたる薩摩藩による「武蔵国王孫比企氏系図」によれば父は武蔵介宗職で、早世した兄・宗員の跡を襲ったとする[4][注 2]

子には源頼朝初期の御家人である比企朝宗がおり[2][注 3]、三人の娘はそれぞれ安達盛長河越重頼伊東祐清(のち平賀義信)に嫁いだ[4]鎌倉時代初期に将軍家外戚として権勢を振るった比企能員は系譜上は掃部允の子だが実子ではなく、掃部允の妻で能員の叔母である比企尼の養子となって比企氏を相続した[6][7]

略歴 編集

武蔵国比企郡の住人で、源為義義朝に仕えたとする説がある[3]。諸系図は比企氏を源氏類代の家人とし、源義家以来の鎌倉館の留守を祖父の代より務め[4]、また保元の乱で為義が敗死すると郡内の岩殿丘陵に隠居して仏事に務めたとしている[3]

妻の比企尼が乳母を務めた源頼朝が平治の乱で敗れて伊豆国に流罪になると、妻とともに比企領に下向して頼朝の衣食の便宜を図った[8]

吾妻鏡治承4年8月9日1180年8月31日)条に、尾張国の武士・長田忠致平家侍大将である藤原忠清に「北条時政や比企掃部允が頼朝を大将に立てて謀叛を企てている」と報告したというが、この頃にはすでに掃部允は死去していた[1]

系譜 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ のちに鳥羽天皇(宗仁)の偏諱を避けて能丈に改めたともいう[4]
  2. ^ 同系図によれば、比企能員と丹後内侍は比企宗員の子で、遠宗(掃部允)の甥とする[4]
  3. ^ 朝宗を掃部允の弟とする説もある。

出典 編集

  1. ^ a b 『吾妻鏡』, p. 7.
  2. ^ a b c d e 『国史大辞典』, § 比企朝宗.
  3. ^ a b c d e f g 『埼玉叢書』, p. 155.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 『鹿児島外史』, p. 11.
  5. ^ 『大日本史料』, p. 188.
  6. ^ a b 『国史大辞典』, § 比企能員.
  7. ^ 近藤 1989, pp. 455–466.
  8. ^ 小野, § 比企郡.

参考文献 編集

  • 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 11巻、吉川弘文館、1990年。ISBN 9784642005111 
  • 小野文雄 編『埼玉県の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、1993年。ISBN 9784582490114 
  • 近藤安太郎『系図研究の基礎知識』 1巻、近藤出版社、1989年。ISBN 4772502653 
  • 吾妻鏡〈吉川本〉』 1巻、吉川弘文館、2008年。ISBN 9784642041966 
  • 大日本史料 第五編』 26巻、東京大学出版会、1997年。ISBN 9784130902267 
  • 稲村坦元 編『埼玉叢書』 4巻、国書刊行会、1983年。ISBN 9784336011039 
  • 伊賀倉俊貞 編『校正鹿児島外史』 1巻、清弘堂、1885年。