永井 武雄(ながい たけお、1904年 - 1938年4月19日)は、日本野球選手監督兵庫県出身。

永井 武雄
東京倶楽部時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県
生年月日 1904年
没年月日 1938年4月19日
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手,一塁手,右翼手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

来歴・人物 編集

神戸市立第一神港商業学校(現・神戸市立神港高等学校)から慶應義塾大学に進み、大学時代は投手兼三番打者として活躍した。1925年の早慶戦復活第一戦で四番右翼手、第二戦は三番投手として出場している。1926年早大二回戦で完封勝利をあげて、慶大にとって早慶戦復活以来となる初勝利を挙げた。

慶大卒業後はキリンビールに勤務しながら、全大阪や東京倶楽部でプレー。都市対抗野球大会には、合計8回出場(全大阪(1927年),東京倶楽部(1929~35年))し、全大阪所属時代の1927年には初戦から決勝まで登板し、準優勝に貢献。東京倶楽部所属時代の1931年には優勝投手になっている。同年には、全日本軍に選出し、日米野球にも登板した。東京倶楽部所属時代のチームメイトに横沢三郎宮武三郎らがいる。

1936年大東京軍結成に当たって監督に就任。しかし、4月5日大東京軍にとって球団結成4試合目に当たる東京ガス(ノンプロ)との練習試合に7-15で大敗(8回まで7-6とリードしていたが、9回に伴吉夫遊撃手が6失策[1]漆原進左翼手が2失策と乱れ一挙に9点取られて逆転負けした)し、激怒した球団代表の鈴木龍二によって監督を解任された。後任の監督には伊藤勝三が就いた。

1938年応召され、4月19日中国北部郭里集[2]台児荘の戦いがあった)にて戦死。数え35歳没。慶應義塾大学野球部OB最初の戦死者でもあった。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。

後年、鈴木龍二は永井の戦死を知り、「オープン戦で負けたからと言ってその場でクビにしてしまったのは、若気の至りとはいえ、実に無茶なことをしたものだと思う。」と後悔したという[3]

詳細情報 編集

通算監督成績 編集

  • 公式戦出場なし(公式戦開始前に解任されたため)

背番号 編集

  • なし(公式戦開始前に解任されたため)

脚注 編集

  1. ^ プロ野球公式記録では、1試合で個人が記録した失策が6個(木塚忠助〈南海),1イニングの最多失策が4個(本堂保次大阪〉)なので、非常に多い。ちなみに両者とも1949年9月29日西宮球場で記録している。木塚が太陽戦、本堂が阪急戦で、変則ダブルヘッダーだった。
  2. ^ 沢村栄治記念館-戦没野球選手慰霊
  3. ^ 出典:鈴木龍二著 「鈴木龍二回顧録」(1980年

関連項目 編集