東京倶楽部(とうきょうくらぶ)は、かつて存在した日本野球クラブチーム1927年結成、1938年解散。

概要

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東京倶楽部が使用していたユニフォーム。第85回都市対抗野球大会開催中の野球殿堂博物館の企画展で撮影。

1927年から始まる都市対抗野球大会創設に合わせ、東京市に本拠地を置くクラブチームとして結成。

当時はプロ野球があまり盛んではなかった(当時は、宝塚運動協会とセミプロの大阪毎日野球団しかなかった)こともあり、大学を出た選手は就職した会社で野球を楽しんでいた。クラブチームも参加できる全国大会の開始を受け、のちに圧縮バットの製造で知られる石井順一新田恭一らが中心となり、あちこちの会社をまわって東京六大学出身の花形選手を集めた(六大学出身が加入の条件であったという)。

苅田久徳はJOAK(NHK東京放送局〔現:放送センター〕)、伊丹安広日清生命矢島粂安清水建設真野春美菊谷正一田部武雄中島治康らは藤倉電線の社員だった他、選手達は様々な会社に勤務[1]

夏の都市対抗になると休みを取って集まり練習、大会に臨んだ。練習場は深川の藤倉電線球場に置いた。

歴史

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都市対抗野球大会草創期は基本的に予選制度はなく、主催した東京日日新聞社からの推薦であったので、第1回大会から東京市の代表として毎年出場。同じく全盛期の六大学出身のスター選手を集めた全大阪と共に人気を二分した。毎年優勝候補にも挙げられ、第2回大会で準優勝。第3回大会まで大連市のクラブチームが三連覇したが、第4回大会では地元・東京のチームとして初優勝。宮武三郎らを加えた第5回大会も優勝し史上初めて大会連覇を果たした。その後も続々六大学で活躍した選手が加入、第7回大会第9回大会と計4度優勝した。

第11回大会まで連続出場し、"東京のアイドル"と呼ばれ"人気・実力とも日本一"とも称された[1]。しかし1937年日中戦争が始まり、出征が日常茶飯事となった当時の社会情勢では、会社に休みを取ることができなくなり1938年第12回大会開催前に自主解散した[1]。苅田、矢島、中島は、1934年大日本東京野球倶楽部設立に参加、1936年7チームによる職業野球(プロ野球)リーグの結成では、宮武、横沢三郎森茂雄らがプロ野球入りした。しかしプロ野球はすぐに人気を得た訳でないので、東京倶楽部解散の直接の理由ではない。

それまでクラブチームの多かった都市対抗も、東京倶楽部の解散したこの第12回大会を境に会社チームが抬頭した[1]。その第一号が藤倉電線であるが、前述のように東京倶楽部の主体はほとんど藤倉が占めていたため、実力は東京倶楽部とほとんど変わらず、1938年第12回1939年第13回大会を連覇した。真野春美菊谷正一らが第12回大会の優勝メンバーとして名を連ねている[1]

所属した主な選手

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脚注

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  1. ^ a b c d e 小川正太郎、鈴木美嶺、松尾俊治 『都市対抗野球優勝物語』 ベースボールマガジン社、1956年、94-109頁

参考文献

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