求厭

日本の江戸時代初期の僧。戦国大名豊臣秀頼次男と伝わる

求厭(ぐえん、生年不詳[1] - 元禄元年(1688年))は、江戸初期の浄土宗の僧。生母などは不明。

臨終の際の告白から出自は、豊臣秀頼の第二子であると云う。『続日本高僧伝』によると、求厭の姓は豊臣氏で、大阪摂津の出身であるとし、国松は兄であると言ったと云う。慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の際は、衛士が江戸に隠したために難を逃れたとする。初め三縁山増上寺に登り、業を受けた。秀才で善く法門に弘通して、周りの人々を徳で感化させた。後に各地を周遊し、山城国伏見に至り、同地で没した。享年80と伝わる[2]

脚注 編集

  1. ^ 享年80から計算すれば、慶長14年(1609年)であり、『日本仏家人名辞書』には皇紀2269年とあるが、『続日本高僧伝』には3歳の時に江戸に匿われたことで生存したとも書いてあり、これから計算すれば慶長16年(1611年)か17年(1612年)となり、別の『本朝高僧傳』によれば慶長18年(1613年)の生まれだとされる。何れにしろ、国松の弟ならば少なくとも慶長13年よりも後で20年よりも前の何れかとなるが、その場合は享年80という死亡時年齢とは齟齬がでる。
  2. ^ 鷲尾順敬 1911, p.223。鰲巓道契 1884

参考文献 編集