江馬章太郎

明治時代の医師

江馬 章太郎(えま しょうたろう、1858年4月19日安政5年3月8日) - 1914年大正3年)3月18日)は、明治時代の医師

生涯

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書家・漢詩人で医師の江馬天江を父に、蘭医・江馬榴園の長女を母として京都に生まれる。妻は淡海槐堂の次女。

オランダ海軍軍医の医学教師コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト(Constant George van Mansvelt, 1832年 - 1912年)、明治政府雇入れドイツ人医師ハインリヒ・ボート・ショイベde:Heinrich Botho Scheube, 1853年 - 1923年)から医学を、物理化学エルヴィン・フォン・ベルツから直接学んだ。1877年明治10年)には済生学舎に入学、順天堂病院にて学ぶ。1881年(明治14年)には祖父・江馬榴園(1804年 - 1890年)の跡を継ぎ、医師として開業した。

京都府立療病院、監獄医長、京都駆梅院八阪病院の前身)院長を歴任し、1897年(明治30年)には京都府立医学専門学校教授・皮梅科部長兼耳鼻科長を兼任。京都における耳鼻科、皮膚科の開山として重きをなした。

長男の江馬務は風俗史学者、次女の熊谷恒子はかな書家として大きな業績を残した。