池杉昭次郎

日本のプロ野球チームの私設応援団長

池杉 昭次郎(いけすぎ しょうじろう、1931年 - 1995年8月12日)は、大洋ホエールズ→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ私設応援団長。東京都千住地域出身。

来歴・人物 編集

本職は横浜市交通局勤務で市電の運転士。元々は読売ジャイアンツ(巨人)ファンであった。応援団を組織するきっかけは1955年のある日、たまたま観戦していた川崎球場での大洋・巨人戦。当時は最下位続きだった大洋が巨人に惨敗する中、社命で必死に応援している大洋漁業社員を気の毒に思い、大漁旗を振るのを代わったことに始まる。試合が終わって帰ろうとしたとき、応援していた社員からよく通る声と堂々たる旗さばきを見込まれ、「応援道具一式をあげるから、是非応援団を作ってくれ」と頼まれる。江戸っ子で頼まれたら嫌とは言えない性格の池杉は快諾。ここに応援団長・池杉昭次郎が誕生する。

始めた当初は仕事のスケジュール調整に苦労し、内部で軋轢もあった。しかし熱心さと直向さで周囲を納得させ、同僚たちも「池杉なら仕方ない」と次第に認めてくれるようになった。後年「同僚には申し訳なかった」と語っている。始めた当時の苦労から、若い団員には「自分の仕事はキチンとやれ。誠実にやれば必ず解ってもらえる。」と説いていた。「金はなくとも友達が財産」をモットーとした。

その熱心さから観客のみならず選手や球団関係者にも親しまれ、選手からは「池杉は10人目の選手」と認められた。1960年の初優勝時には中部謙吉オーナーからは応援団を代表して、金一封として10万円(現在の200万円以上)の大金を渡された。池杉は全てを応援団費として使い、収支表も保管されている。

1960年の大洋初優勝時の応援風景が写真に残っており、「まるは」印の法被に笛をくわえて必死に応援しながら、頬に涙が流れているのがはっきり写っているという。大洋・横浜時代を通じて唯一発行されている公式球団史『大洋ホエールズ十五年史』にも池杉の姿がキャプション入りで掲載されている。川崎市内の優勝パレードで、中部から「お前も乗れ」と声を掛けられてオープンカーに同乗しパレードに参加。大漁旗を振りまくり選手よりも目立っていたといわれる。後に「まるで夢のようだった」と語っている。

上述の大漁旗、そして1978年の横浜移転後は氷川丸銅鑼[1]がトレードマークだった。その頃の池杉はダグアウトの上に駆け上り、お客に深々と一礼の後、口にくわえた笛を吹き、手にした銅鑼を打ち鳴らすというスタイルだった。チームの遠征にも付いて行き、若い団員の面倒もよく見たため給料は全く家に入れず、家計は専ら夫人が支えていた。後に夫人は「とんでもない亭主だった」と笑いながら取材に答えている。

池杉の長男は桐蔭学園(横浜)エースであったが、突然の交通事故で逝去。将来は大洋ホエールズに入団させるという夢を抱いていた池杉の落胆は想像に難くない[要出典]

1995年の夏頃から体調が悪化。「もう一度優勝を見るまでは死ねるか」と、酸素ボンベ持参で応援に執念を燃やすも、黄疸が悪化し入院。亡くなる直前には、意識混濁の中で銅鑼を叩く動作を繰り返した。肝不全胆石の悪化で急逝。享年64。通夜の夜、横浜は広島東洋カープに勝利。試合終了の直後、団員の中から「団長、勝ったよ!」との声が上がり、大洋時代の応援歌「行くぞ大洋」を合唱。その日から49日間は喪章を付けての応援となった。球団OBの青田昇は「こんな男は二度と現れないだろう」と池杉の死を悼んだ。

1998年の38年ぶり2度目のリーグ優勝時には阪神甲子園球場のスタンドで、夫人が遺影とともに優勝の瞬間を見守った。日本シリーズ後の日本一パレードにも、球団の計らいで遺影として参加している。遺影はオープンバスの後続を走る球団バスに乗せられた。1960年と1998年の両方のパレードに「参加」したのは池杉だけである。

脚注  編集

  1. ^ 氷川丸マリンタワーから応援団に寄贈されたもの。池杉の死後に返還され、1998年には横浜ベイスターズが日本一になった記念として氷川丸で公開された。「横浜必勝」のステッカーが貼られ、長年叩き続けて凹んだままの姿で展示されており、当時の応援を偲ぶことができた。

関連項目 編集