汪 大燮(おう だいしょう)は、清末民初の政治家・外交官。清代末期には主に外交官をつとめ、民国初期には北京政府で外務総長など要職を歴任した。さらに、一時的ながらも臨時国務院総理をつとめている。旧名は尭兪伯唐伯棠

汪大燮
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1859年咸豊9年)
死去: 1929年民国18年)1月5日
中華民国の旗 中華民国北京
出身地: 清の旗 浙江省杭州府銭塘県
職業: 政治家・外交官
各種表記
繁体字 汪大燮
簡体字 汪大燮
拼音 Wāng Dàxiè
ラテン字 Wang Ta-hsieh
和名表記: おう だいしょう
発音転記: ワン ダーシエ
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事跡

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挙人となり、清朝で各職をつとめた後、1902年光緒28年)11月、日本留学生の監督となる。1905年(光緒31年)7月、出使英国大臣(イギリス公使)となった。翌年、外務部右侍郎に昇進し、さらに考察憲政大臣としてイギリス、ドイツなどを視察した。1910年宣統2年)、駐日公使となる。[1]

中華民国成立後の1912年民国2年)9月、汪大燮は、熊希齢内閣の教育総長に就任した。あわせて進歩党に加入している。翌年3月、平政院院長となり、5月、参政院副院長に転じる。1916年(民国5年)6月、段祺瑞内閣の交通総長をつとめたが、翌月辞任する。1917年(民国6年)2月、特使として日本に赴き、翌月に大正天皇に政府を代表して勲章を授与した。[1]

張勲復辟失敗後の同年7月、段祺瑞が再度内閣を組織し、汪大燮は外務総長に就任した。11月22日に段が国務総理を辞職すると、30日まで、汪が代理総理として臨時内閣を組織している。1918年(民国7年)12月、総統徐世昌の下で外交委員会委員長をつとめ、翌年には国民外交協会の暫定代理理事長に就任した。さらに、ヴェルサイユ条約に関する案件を審議するための外交委員会が徐により設置されると、汪が委員長となった。1920年(民国9年)1月、欧州参戦に功があったとして、北京政府から勲三位を授与されている。同年10月には、中国紅十字会(赤十字)会長に就任した。[1]

ワシントン会議対応に関与した後、1922年(民国11年)11月、汪大燮は臨時国務総理兼財務総長となった。しかし、1か月と持たず辞任した。その後も、外交や赤十字事業等に従事している。1929年(民国18年)、病没。享年71。[1]

著作

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  • 『汪氏振綺堂宗譜 4巻』1930年
  1. ^ a b c d 徐主編(2007)、716頁。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
董鴻禕
教育総長
1913年9月 - 1914年2月
次代
厳修
先代
曹汝霖
交通総長
1916年6月 - 7月
次代
許世英
先代
伍廷芳
外交総長
1917年7月 - 11月
次代
陸徴祥
先代
段祺瑞
臨時国務総理
1917年11月
次代
王士珍
先代
王寵恵
臨時国務総理
1922年11月 - 12月
次代
王正廷
先代
羅文幹
財政総長
1922年11月 - 12月
次代
凌文淵