河野 顕三(こうの けんぞう)は、幕末の志士。坂下門外の変実行犯の一人。国学者として知られる河野守弘の外孫。

 
河野 顕三
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 天保9年(1838年
死没 文久2年1月15日1862年2月13日
別名 通桓(諱)、士威(字)、越智顕三、三島三郎、帛水学人、春雲生
墓所 回向院東京都墨田区
栃木県下野市本吉田
官位従五位
父母 甲田顕雄、千世(河野守弘の娘)
兄弟 顕二顕三
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略歴 編集

下野国河内郡吉田村に医者の子として生まれる。父は早くに没したため、江戸磯野貞績から医術を、また外祖父河野守弘に国学を学んだ。万延元年(1860年)兄の顕二が死去したため家督を継ぐが、江戸では堀利煕に寄寓し、各地で小山春山らの尊王攘夷志士と交流した。堀が老中安藤信正と対立して自殺すると、大橋訥庵らの公武合体を批判する勢力に合流して安藤襲撃計画に参加。文久2年(1862年1月15日に三島三郎と変名して黒沢五郎ら同志らとともに江戸城坂下門外で安藤を襲い傷を負わせたが、護衛に返り討ちにされた。遺体は小塚原刑場に晒され、明治2年(1869年)に恩赦があって改葬された。

登場作品 編集

参考文献 編集

  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編「河野顕三」『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 9784062108003 
  • 上野啓三郎; 石川宰三郎『河野守弘翁伝』下野国誌刊行会、1916年、57-60頁。 
  • 栃木県教育会 編『下野勤皇列伝』 1巻《前編》、皇国青年教育協会、1940年、231-249頁。