法定(ほうてい/ほうじょう、生没年不詳)は、飛鳥時代の610年3月に高句麗嬰陽王日本の朝廷に貢上し(貢上=「貢物を差し上げる」)、来朝した僧侶[1]

経歴 編集

推古天皇18年(610年)、曇徴とともに高句麗より来朝した。『聖徳太子伝暦』(917年、または992年成立)には、聖徳太子斑鳩宮に招いて、その後に法隆寺に止住させたとある[2]。しかし、当該書は後世に盛んに書かれた神話的太子伝の集大成であり、史実性が疑問視されており、加えて、この逸話は先行するどの聖徳太子伝にも見当たらない[3]。なお、この際に法定は、前世では南岳恵思禅師(ここでは聖徳太子の前世)の弟子であったと答えている[4][2]。「法隆寺院主并寺主譜略伝」によれば、曇徴は法隆寺3世別当であり、法定は4世別当になったとされる。

脚注 編集

  1. ^ 境野黄洋『日本仏教史講話』森江書店〈第一巻 平安朝以前〉、1937年、329頁。 
  2. ^ a b 曇徴』 - コトバンク
  3. ^ 坂本太郎『聖徳太子』吉川弘文館国史大辞典〉、1997年。 
  4. ^ 大屋徳城『寧楽仏教史論』東方文献刊行会、1937年、53頁。