浄岡 広島(きよおか の ひろしま、生没年不詳)は、奈良時代の貴族・医師。氏は清岡とも記される[1]。姓は連。官位は従五位下・典薬頭。
淳仁朝の天平宝字7年(763年)、村国子老・贄土師沙弥麻呂らとともに正六位上から外従五位下に昇叙される[2]。藤原仲麻呂の乱の際の動勢は不明だが、称徳朝では記録に現れていないため、その間、不遇であったものと思われる。その後、時期は不明だが光仁朝では老齢の天皇の侍医になり、侍医のまま、丹後介・典薬頭を歴任し、その間の宝亀6年(776年)正月には従五位下に叙爵している[3]。
『続日本紀』による。