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浅井 政貞(あざい まささだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。尾張国中島郡苅安賀城[3]

 
浅井政貞
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正9年5月24日1581年6月25日)?
別名 政澄、賢政、信広、通称:新八郎
戒名 証源院浄心居士[1]
官位 信濃
主君 織田信長信忠
氏族 尾張浅井氏
父母 父:浅井高政
毛利秀頼[2]
長時政重市橋長勝正室

出自編集

尾張浅井氏当主・浅井高政(信濃守)の子と伝わる。尾張浅井氏は近江国浅井氏の庶流ともいわれるが、近江浅井氏がまもなく有名になったために系譜を仮冒されたものであるとも考えられる[4]。このほか、元々黒田城[5]の子で、浪人中の若き山内一豊永禄初年に一時身を寄せていたとの記録も残ることから、山内氏と縁続きであったとも考えられる[6]

は子孫から江戸幕府に提出された『寛政重修諸家譜』によれば政貞とされ、政澄[7]賢政[8]信広[1]などもあるが、文書から確認できるのは信広である。

経歴編集

織田信長にはその尾張統一以前の早い時点から仕えたと考えられ、赤母衣衆の一員となった。永禄11年(1568年)の上洛の際には、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)らと共に近江神崎郡観音寺城の戦いを行ったことが『信長公記』に記載されている。

天正2年(1574年)以降は尾張・美濃の支配を行うこととなった信長の長男・信忠の軍に組み入れられた。その後天正4年(1576年)に信忠に従って播磨国に出兵したとの記録を最後にして、以降は没したためか史書には登場しない。『尾張群書系図部集』によれば天正9年(1581年)5月24日死去とされる。

脚注編集

  1. ^ a b 『尾張群書系図部集』
  2. ^ 『兼見卿記』。
  3. ^ 一宮市苅安賀。
  4. ^ 一説に杉原氏木下氏親族ともされる。
  5. ^ 一宮市木曽川町黒田。
  6. ^ 山内家が所蔵する『御武功記』には一豊と新八郎がいとこであったとの記載がある。
  7. ^ 信長公記』。
  8. ^ 『一豊公御武功附御伝記』。