海老江 里勝(えびえ さとかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将今川氏、後に井伊氏の家臣。

 
海老江里勝
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文20年(1551年
死没 寛永10年(1633年
別名 通称:弥三郎→勝右衛門
主君 今川氏真大須賀忠政徳川家康井伊氏
氏族 海老江氏
父母 父・海老江元行
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生涯 編集

天文20年(1551年)、海老江元行の子として誕生。

海老江氏駿河国出身。海老江弥三郎として今川氏(今川氏真)に仕え、氏真衆の側近として朝比奈泰勝と共に従っていた。しかし親の跡目相続が充分に認められなかったため今川氏を離れ、天正12年(1584年)に遠江国横須賀城主・大須賀忠政に奉公した。なお、天正5年(1577年)3月1日付けで氏真から海老江に暇を与えられたことを示す書状が残されているが、この書状に関しては今川氏真が牧野城主を解任されて浜松城に召還されたために海老江にも暇が出されたとする解釈と海老江が家康の直臣に取り立てられて浜松城に召還されることになったために暇が出されたとする解釈がある[1]

のちに徳川家康の直臣となり、小牧・長久手の戦いから九戸政実の乱まで出兵し、井伊直政の高崎在城時に彦根藩井伊家へ仕えた。

その後、井伊直政より十文字鎚を拝領し、関ヶ原の戦い大坂冬・夏の陣に出陣、足軽大将を務めた。領地高は、合戦での活躍ごとに加増され最終的には1500石を拝領している。直政に仕えて以来、海老江家は代々井伊家に奉公し彦根藩士となる。

寛永9年(1632年)には、軍制上の役職として旗奉行となり、家臣の格としては中老格となった。

寛永10年(1633年)、死去。享年82。

脚注 編集

  1. ^ 長谷川正一 「天正元年以降における今川氏真の政治的地位」、戦国史研究会編 『論集 戦国大名今川氏』 岩田書院、2020年、273-277頁。

出典 編集

  • 『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳10』 彦根城博物館