源親義
源 親義(みなもと の ちかよし)は、平安時代後期の武将。岡田親義とも呼ばれる。岡田冠者[2]。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寿永2年(1183年) |
別名 | 岡田冠者 |
官位 | 左衛門尉 |
氏族 | 清和源氏 |
父母 | 父:源義光、母:不明 |
兄弟 | 義業、義清、盛義、実光、親義、祐義、覚義 |
妻 | 不明 |
子 | 岡田重義[1] |
生涯
編集源義光の五男。
仕官を求めて上洛後、左衛門尉となった。保元元年(1156年)に平野神社領(のちに岩清水八幡宮領)であった信濃国筑摩郡岡田郷の浅間神社領の荘官として下向し、岡田冠者と称した。
治承4年(1180年)に以仁王の令旨での指名を受け、同族の源義仲の重臣として、子の太郎重義・小次郎久義を率いて挙兵した。会田・麻績の戦いや横田河原の戦いで信濃の平氏軍を破るが、寿永2年(1183年)に越中国倶利伽羅峠の戦いで、平知度と相打ちとなり戦死した。
その一方、『寛政重脩諸家譜』774頁に記されているおなじ義光流で甥の佐竹昌義(義業の子)の三男で同姓同名の岡田親義も木曾義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いで戦死したと述べており、義光の子の岡田冠者親義と混同されている見方もある。