澤山勇三郞

数学者、陸軍教授

澤山 勇三郎(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日万延元年5月29日[1])- 1936年昭和11年)10月23日[1][2])は日本の数学者陸軍教授澤山-テボーの定理フォイエルバッハの定理について20通り以上の証明を与えたことで知られる[3]

来歴

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1860年(万延元年)、酒造業の武安治平の五男として長州藩厚狭郡二俣瀬村(現・宇部市)に生まれる[1]。家業を継ぐ予定であったが、本人の強い希望で16歳のとき山口県鴻城学舎に入り、英語数学を学ぶ[1]。当時県内には優れた英語教育者が少なかったので、ハワイ帰りで地元の刑務所に服役していた者から英語を学んだというエピソードがある[1]。24歳で萩中学校の準助教諭となり、29歳の時に数学の中等教員の免状を得た[1]

谷田部梅吉に数学の才を認められて30歳で上京し、東京物理学校講師、群馬県尋常中学校教諭を経て、36歳のとき澤山家に入り、澤山ツナ子に配す[1]東京府城北中学校教諭を経て、1907年(明治34年)8月23日、陸軍教授(陸軍中央幼年学校附)に任官し[1][4]、後に陸軍士官学校予科附となり、1923年(大正12年)12月28日依願免官となる[1][5]

退官後は中央気象台付属測候技術官養成所講師を嘱託され、また76歳まで東京物理学校に勤続し、1936年(昭和11年)、77歳で没す[1]正五位勲四等

澤山の性格は無欲恬淡で、研究以外には興味を持たなかったので、生涯に渡って清貧に甘んじたが、学究心の満足からその風貌に終始陰を宿すことはなかったという[1]

栄典

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著作

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  • 澤山勇三郞、森本清吾『初等幾何学』積善館、1931年4月15日。 
  • 森本清吾編『沢山勇三郎全集』、岩波書店、1938年5月25日

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『沢山勇三郎全集』岩波書店、1938年5月、pp.311-314
  2. ^ 『高等数学研究』第5巻第9号、東京数学研究社、1936年11月、p.64。
  3. ^ 笹部貞市郎『問題解法 幾何学辞典』聖文新社、1976年12月10日、1029頁。ISBN 978-4792200107 
  4. ^ 『官報』第5444号、明治34年8月24日。
  5. ^ 『官報』第3408号、大正13年1月4日。
  6. ^ 『官報』第5533号、明治34年12月11日。
  7. ^ 『官報』第7098号附録、明治40年3月1日。
  8. ^ 『官報』第6979号、明治39年10月2日。
  9. ^ 『官報』第7701号、明治42年3月2日。
  10. ^ 『官報』第273号、大正2年6月27日。
  11. ^ 『官報』第525号、大正3年5月1日。
  12. ^ 『官報』第2080号、大正8年7月11日。
  13. ^ 『官報』第2426号、大正9年9月2日。
  14. ^ 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
  15. ^ 『官報』第3431号、大正13年2月2日。

参考文献

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関連項目

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