為子内親王

平安時代前期の皇族。醍醐天皇の妃。内親王、妃、三品、贈一品。子に勧子内親王(899-910?938.11.29?、長女、四品)

為子内親王(いし/ためこないしんのう)は、光孝天皇の皇女で醍醐天皇。母は班子女王宇多天皇の同母妹。

為子内親王
時代 平安時代前期
生誕 不詳
薨去 昌泰2年3月14日899年4月27日
改名 為子女王 → 源為子 → 為子内親王
位階 三品、贈一品
父母 父:光孝天皇、母:班子女王
兄弟 源元長源兼善、源名実、源篤行、源最善、源近善、源音恒、源是恒源旧鑑忠子内親王源貞恒、源成蔭、滋水清実是忠親王是貞親王源国紀宇多天皇、源香泉、源友貞、簡子内親王、綏子内親王、為子内親王繁子内親王穆子内親王、源和子、
醍醐天皇
勧子内親王
特記
事項
后妃身分は
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生涯 編集

元慶8年4月13日884年5月11日)に同母兄定省王(後の宇多天皇)らとともに臣籍降下して朝臣を賜る。寛平3年(891年)に宇多天皇の同母妹であることから内親王宣下を受けて皇族に復帰した。

寛平9年(897年)に醍醐天皇の即位と同時に入内してとなった(この時、皇后は不設置であった)。宇多上皇は阿衡事件の教訓から藤原北家嫡流を外祖父とする皇子の出生を望まず、為子所生の男子を立太子する方針であったが、為子は2年後に勧子内親王を産んで間もなく死去した。

このため、次の后として藤原時平の妹穏子を入内させようとした醍醐天皇・藤原時平とこれに反対する宇多上皇との対立が発生(『九暦』)し、後の宇多上皇による斉世親王の皇位継承者指名問題及び菅原道真大宰権帥左遷事件(いわゆる昌泰の変)が発生したとも言われている。

参考文献 編集