牧野 康那(まきの やすとも、寛延2年(1749年) - 寛政11年(1799年))は、信濃国小諸藩牧野氏目代。小諸藩家老上席。父は小諸藩主牧野康周。母は側室の佐世。初名・新次郎、通称は内匠。

来歴 編集

小諸藩主牧野康周の庶子として生まれ、明和2年(1765年)元服。明和年間、信濃国伊那郡山吹に所領を持つ旗本交代寄合の座光寺善兵衛為忠(1115石)の養子となり、座光寺雅楽為高と称す。

しかし、明和8年(1771年)に離縁。一説によると養父と不仲となったため、表向きは病と称し、養子の役目ができないとして離縁した。

養子離縁後は、康那と名を改めて、江戸に定府せずに、在所の小諸で食録100俵を与えられて、しばらく無役でいたが、実兄の小諸藩主、牧野康満によって、安永7年(1778年)に牧野家の目代に指名される。

甥となる小諸藩主・牧野康陛が(やすより)が死亡して、その嫡子・牧野康儔(やすとも)が21歳で藩主に就任すると、若輩のため不安があったので、引き続き目代を勤めたが、寛政6年(1794年)、家臣取り扱いとなり臣籍に降下して、家老上席となる。

牧野康那の業績について、特に文献や伝説として残るものはないが、浅間山の天明大噴火と凶作による混乱期に、在所の小諸にあって、藩主を補佐したものと考えられる。牧野康那は、藩主の代理人として、城代家老の牧野八郎左衛門を初めとする在所・小諸の伝統的な勢力を抑える役割を果たしたものと推察される。やがて牧野康那が家臣として降下して、家老職になったことで、家老の家柄の牧野氏1家が藩内に新たに誕生したとみられたが、牧野求馬に100石で家督が認められたに過ぎなかった。

信濃小諸藩主牧野家では、庶子を牧野姓のままで、家臣取り扱いとしたことは、4~5例があるが、いずれも冷や飯組であった。牧野康那以外の藩主の庶子たちで家臣取り扱いになり家祖となった者は、50石・給人の家柄として扱われ、大政奉還まで重臣に名を連ねたことはなかったので、門閥勢力から驚異に思われることはなかった。

信濃小諸藩の本藩となる越後長岡藩主牧野家では、藩主の庶子を家臣とすることは、家老に養子に出す場合を除き、1例もなかったので、これと対照的である。越後長岡藩士に牧野姓の家臣はあるが、山本氏・松井氏に牧野姓を賜姓したものである。

子孫・家系など 編集

牧野康那の惣領家である牧野求馬家は、小諸惣士草高割成立時、持高107石に、およそ30石~40石の給人地などが支給されており、役職上は、藩主の側衆や、小姓などとして勤務していた。しかし、現代の常識・刑法では重罪にあたる弱者を被害者とする、ある戦慄な非行事件をおこした。

持高減石・格式降格となり藩主から叱責を受け、謹慎とはなったが、封建時代であったためか、入牢とはならなかった。

牧野求馬家の庶子(牧野康那、内孫の一人)が、3代藩主康満が身分の低い女性(お召し女)と儲けた男子の養子となり、その家督相続をしているため、牧野康那の男系子孫は、明治維新のときに2家があった。

入牢した牧野求馬成賢は、牧野求馬家の幕末及び、小諸騒動のころの当主である。