ボストン茶会事件

1773年に現アメリカのマサチューセッツ植民地で発生した抗議事件

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ボストン茶会事件(ボストンちゃかいじけん、: The Boston Tea Party)は、1773年12月16日に、マサチューセッツ植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンで、イギリス本国議会の植民地政策に憤慨した植民地人の急進派が、港湾に停泊中の貨物輸送船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷である茶箱を海に投棄した事件である。

ボストン茶会事件
アメリカ独立戦争内で発生
ボストン茶会事件を描いたリトグラフ
日時1773年12月16日
場所イギリスの旗 イギリス
マサチューセッツ湾直轄植民地ボストン
原因茶法
手段茶箱を海に投棄
結果耐え難き諸法
参加集団
指導者

アメリカ独立革命の象徴的事件の一つである。

事件の背景

18世紀イギリスフランスは各地で植民地争奪戦争を繰り返しており、北アメリカもその例外ではなかった。1754年にはフレンチ・インディアン戦争七年戦争)が勃発した。

この戦争の結果、イギリスは1763年パリ条約でカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得した。しかし一連の戦争で負債が生じたイギリスは、1765年には印紙法を、1767年にはタウンゼンド諸法を制定し、植民地に費用の一部を負担させようとした。

印紙法の制定により、新聞、各種証書、パンフレット、トランプなどに印紙を貼ることが義務付けられたが、植民地側は印紙法に反対、翌年には廃止させた。また、茶、ガラス、紙、鉛、塗料などに関税をかけるタウンゼンド諸法も、本国製品の不買運動など広範囲の抵抗を招いた。その中で起きたボストン虐殺事件が急進派によって反英プロパガンダに利用されたこともあいまって世論の反発はいっそう強まった。結局、イギリスは茶税以外のタウンゼンド諸法を撤廃した。

アメリカ独立の前哨戦

1773年、イギリスは新たに茶法を制定、イギリス東インド会社に植民地での茶の販売独占権を与えた。東インド会社は当時の市価の半額の安値で茶を売り出そうとした。これに対し、

  1. 植民地の貿易全体の独占を狙う第一歩ではないか
  2. 本国の課税権そのものが焦点であるにも拘らず、密輸品に比して茶税の課税後でも安価な東インド会社の茶が販売された場合、課税権を容認することになるのではないか

との懸念が生まれ、反対運動が展開された。なお、この時点での彼らの主な要求はあくまで「代表なくして課税なし」であり、イギリス本国からの独立ではなかった事に留意すべきである。

 
「The History of North America(1789年刊)」より船を襲撃して積荷を投げ捨てる様子。

1773年12月、茶を積んだ東インド会社の貿易船がアメリカの4つの港に到着するが、陸揚げされなかったり、倉庫に実質的に封印されるなど、実際には販売されなかった。この港のうちボストンでは東インド会社の貿易船に、荷揚げせずにボストンからイギリスに退去するよう求めた。現地のイギリス総督はこれを拒否し、貿易船は荷揚げの機会を待つため、船長はボストン港での停泊を継続する。

こうした事態の中、1773年12月16日の夜に事件は起こった。毛布やフェイスペイント等でモホーク族風の簡易な扮装をした3グループ、50人ほどの住人がボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃した。「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てた。これが「ボストン茶会事件」と呼ばれる事件で、行動を起こしたのはボストンの急進派市民(自由の息子達)であり、首魁となったのはサミュエル・アダムズである。また、茶会事件を起こしたのはボストンフリーメイソンのメンバーであるという都市伝説もある。メンバーがロッジで酒を酌み交わしていた時、一人が「海水で酒を飲んだらどんな味になるか」と酔った勢いでボストン港に向かったが、陰謀説をカモフラージュする為、酔った勢いだと釈明させたという説もある。

この時投棄された茶の損害額は1,000,000ドルに上るといわれ、この事件には植民地人の間においても賛否がわかれ、東インド会社の賠償請求に対してベンジャミン・フランクリンは私財をもって「茶の代金(茶税分を除く)」の賠償を試みようとしている(結局賠償されなかった)。

イギリス政府は翌年ボストンを軍政下に置き、植民地側も同年9月にイギリスとの経済的断交を決議した。このような情勢の中で、翌年4月、ボストン郊外のレキシントンコンコードでイギリス軍と植民地民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)し、1775年のアメリカ独立戦争に発展した。

訳について

「Boston Tea Party」は一般に「ボストン茶会事件」と和訳される。ここでいうTea Partyとは歴史上の「出来事・事件」であって、当時のイギリス上流階級への風刺の含みはあっても、特定の「徒党」や「集団」をさす呼称ではないため「ボストンティーパーティー事件」又は「ボストン茶会事件」と意味される。

大量の茶葉で覆われた海を見た市民が「『ボストン茶会』を開いた」と冗談を言ったのがその始まりだという[1][2]。今日の日本の歴史教科書では「ボストン茶会事件」で統一されている[3]

その他

2020年のアメリカの独立記念日において、イギリス陸軍によるTwitter上のお祝いの中で「ティーバッグマグカップに入れます、港にではありません」と述べた。[1][2]

脚注

  1. ^ 11月5日付 第1面コラム「産経抄」”. 産経新聞(MSN産経ニュース) (2010年11月5日). 2010年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月5日閲覧。
  2. ^ 村田 薫; James M. Vardaman Jr. (2005年1月), 『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』, ジャパンブック, ISBN 4902928000 
  3. ^ 17社で掲載とある。全国歴史教育研究協議会 (1989年), 『世界史用語集』, 山川出版社, ISBN 4634030101 

関連項目