「ヘレン・トーマス」の版間の差分

アメリカの著述家、新聞記者
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en:Helen Thomas 20:25, 17 August 2007 (UTC) から
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2007年8月28日 (火) 06:30時点における版

ヘレン・トーマスHelen Thomas1920年8月4日-)はアメリカ合衆国ジャーナリスト。57年間に渡ってユナイテッド・プレス・インターナショナル(UPI)に勤務し、ホワイトハウスケネディ以降の歴代アメリカ全大統領の取材にあたってきた。

ヘレン・トーマス(写真中央)とジョージ・W・ブッシュ(左)

経歴

トーマスは1920年、ケンタッキー州ウィンチェスターで生まれた。ミシガン州デトロイトで育ち、ウェイン大学に進学。1942年学士号をとって卒業した。ジャーナリズムに関連する彼女の最初の仕事は、今は無きワシントン・デイリー・ニューズでの原稿運びであった。しかし、新米記者に昇進した直後、新聞社の大規模な雇用削減のため解雇されてしまう。

1943年、トーマスはUPIに就職し、ラジオ放送の女性向けの話題を執筆した。10年後、UPIのコラム「Names in the News」を執筆し、1955年以降は司法省連邦捜査局保健教育福祉省といった連邦機関を担当するようになった。1959年から60年にかけて、Women's National Press Club (WNPC)の理事長を務めた。

1960年11月、トーマスは次期大統領ジョン・F・ケネディの取材を始め、1961年1月より、彼の後を追い、UPI通信員としてホワイトハウスに入った。ケネディの任期中、彼女は「ありがとう、大統領閣下」の結び文句とともに「大仏座像」(the Sitting Buddha)として知られるようになった。

トーマスは1972年ニクソン大統領の歴史的中国訪問に随行したただ一人の女性出版ジャーナリストである。彼女はニクソン、フォードカーターレーガンジョージ・H・W・ブッシュクリントンジョージ・W・ブッシュとともに世界を旅し、全ての経済サミットを取材している。

トーマスは後にUPIのホワイトハウス担当チーフとなり、2000年5月17日に辞職するまで勤務した。彼女の辞職直前、UPIはワシントン・タイムズを抱えるニューズ・ワールド・コミュニケーションズ(NWC)に買収された。ワシントン・タイムズの保守的な論調ゆえに辞めたのかという声に対し、彼女は「NWCは文鮮明率いる統一教会と関わりがあるからだ」と応じた[1]。以後、彼女はフリーランスの特派員兼King Features Syndicateのコラムニストとなった。

ブッシュ政権下の言動

伝統的に、トーマスはホワイトハウス・プレス会議において最前列に座り、最初に質問を行っていた。しかし、2006年に行われた彼女へのインタビューによれば、この伝統は彼女が最早通信社の代表者ではないという理由で終わりを告げた。以来彼女はプレス会議中は後列に座っている。なお、会見中彼女が前列に位置どるのは以前と変わらない。彼女は毎日のように指名されるが、従来のように「ありがとう、大統領閣下」と述べて会見を締めくくることはなくなった。どうして今は後列に座るのかと問われると、彼女はこう答えた。「彼らは私が好きじゃないのよ。…私は多すぎるほど質問をするから」

2006年3月21日、トーマスは3年間ぶりにブッシュ大統領から直接指名され、彼女はイラクについて質問した。

「質問したいと思います、大統領閣下。あなたが決断したイラク侵攻は数千人に及ぶアメリカ人とイラク人に死を招き、アメリカ人とイラク人に一生涯にわたる傷を負わせました。(侵攻にあたり)提示された全ての理由、少なくとも公にされたものについては、その全てが真実ではなかったと判明しています。私の質問は、あなたは一体なぜ戦争をしたかったのか、ということです。 (中略) 本当の理由は何なのですか。あなたは以前原油ではないと述べました。原油を探し求めることでも、イスラエルのためでも、他の何者でもないと。…では一体何なのです?」

ブッシュは対テロ戦争全体についてコメントし、侵攻の理由についてこう答えた。「サダム・フセインが査察を通じて全てを明らかにすることを拒んだからだ」と。トーマスは保守的なコメンテーターから彼女がブッシュに投げかけた質問に対し批判を受けた。

トーマスはブッシュ大統領への意見を公然と述べている。職業ジャーナリスト協会での講演の後、サインを求めてきた者が訊いた「あなたはなぜ悲しそうにしているのか」との問いに対し彼女は言った。「私はアメリカ史上最悪の大統領を取材しているのよ」。彼女が答えた相手はDaily Breeze誌のスポーツライターで、彼女のコメントは出版された。その後40年以上にわたって初めてプレス会議で指名されなくなると、彼女は大統領に謝罪の手紙を送った。[2]

2006年7月18日のホワイトハウスプレス会議において、トーマスは述べた。「合衆国は全くの無力ではありません。合衆国はレバノン爆撃を止めさせることができたはずです。イスラエルに対し十分な影響力を持っているのだから。レバノンとパレスチナへの集団懲罰(collective punishment)を支持する…、それがこの国の考えだということです」。報道担当官トニー・スノーは応じた。「ヒズボラ側の見方をどうもありがとう。」

賞など

  • 1976年11月 - World Almanacにより「アメリカで最も影響力を持つ女性25人」(25 Most Influential Women in America)の称号を得る。
  • 1986年 - ミシガン女性殿堂に入る。
  • 1989年 - ミズーリ州ジャーナリズムスクールより" Missouri Honor Medal for Distinguished Service in Journalism "を授与される。
  • 1989年 - " International Women's Media Foundation Lifetime Achievement Award "を受賞する。
  • 1998年 - ホワイトハウス特派員協会により、彼女の名前を冠して設立された" Helen Thomas Lifetime Achievement Award "を受賞する。
  • 2003年 - 全米婦人機構より" Intrepid Award "を受賞する。
  • 2006年5月25日 - ミシガン名声の歩道に加わる。
  • 2007年5月20日 - ジャーナリストにおけるジェンダー差別を克服した功績によりシエナ大学より名誉学位を授与される。

参考文献

  • Watchdogs of Democracy? : The Waning Washington Press Corps and How It Has Failed the Public (Scribner, 2006) ISBN 0-7432-6781-8
  • Thanks for the Memories, Mr. President : Wit and Wisdom from the Front Row at the White House (Scribner, 2003) ISBN 0-7432-0226-0
  • Front Row at the White House : My Life and Times (Scribner, 2000) ISBN 0-684-86809-1
  • Dateline: White House (MacMillan, 1975) ISBN 0-02-617620-3
  1. ^ Helen Thomas quits UPI over sale
  2. ^ Ann McFeatters, "Thank You, Ms. Thomas", Ms., summer 2006.

外部リンク