「仲長統」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
新しいページ: ''''仲長統'''(ちゅうちょう とう、181年-220年)は、後漢末の人。は公理。山陽高平の人。 == 略歴 == 若い頃…'
(相違点なし)

2009年5月31日 (日) 04:11時点における版

仲長統(ちゅうちょう とう、181年-220年)は、後漢末の人。は公理。山陽高平の人。

略歴

若い頃から学問を好み、博覧強記で文章に優れていた。二十歳過ぎの頃から青州、徐州、并州、冀州を遊学し、上党に疎開していて彼と出会った常林や、東海の繆襲など、彼と交流のあった者の多くが彼を高く評価した。繆襲はつねづね仲長統は前漢賈誼董仲舒劉向揚雄の後を継ぐに足る才能だと称えていた。

袁紹の甥である并州刺史高幹は各地の士を招いており、彼に付き従う者が多かった。彼の元を訪れた仲長統も歓待を受け、高幹は仲長統に当世の事を質問した。仲長統は「貴方は雄大な志は持っていても雄大な才能は持っておらず、士を好んでいますが人を選ぶ事はできません。このことを深く戒めることです」と言った。高幹は自負心からその言葉を受け入れることが出来ず、仲長統は彼の元を去った。その後、高幹は反乱を起こして敗死した。これにより并州、冀州の人々は仲長統を知るようになった。

仲長統は物事にとらわれない性格で、直言を厭わず、不意に沈黙したり語り出したりするため彼を狂生と呼ぶ者もいた。州や郡から登用の招きがあっても病気と称して行かなかった。

尚書令荀彧が彼の事を知り、彼を高く評価して尚書郎に推挙した。その後、の参丞相軍事となり曹操に仕えた。

仲長統は古の事や当時の事を論じると、常に発憤し嘆息した。そこで『昌言』という三十四篇、十余万言の書を著した。

仲長統は延康元年(220年)、40歳で死亡した。

参考文献