「古賀正明」の版間の差分

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{{NPBドラフト|1975}}11月、ドラフト1位で[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ]]に指名され、プロ入り。長身から投げ降ろす速球と[[フォークボール]]を武器に、1年目から[[先発ローテーション]]を担い11勝13敗1Sの好成績を挙げ、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の[[藤田学 (野球)|藤田学]]に次ぐ[[最優秀新人 (野球)|新人王]]次点となる。しかしその後、肘を故障。これが持病となり、成績は次第に下降線を辿っていった。その後[[1979年]]に[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]へ移籍すると、[[1980年]]には[[読売ジャイアンツ]]へ、更に[[1981年]]には[[横浜ベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]へ移った。3年連続で所属球団が変わった古賀であったが、これは全て交換トレードによるものであった。そして、[[1984年]]オフに現役を[[引退]]した。
 
[[法政大学野球部]]の偉大な先輩[[江本孟紀]]が[[参院議員]]在職中にスタッフとして仕え、現在は神奈川県[[川崎市]]内でスポーツ用品店を経営する傍ら、[[プロ野球マスターズリーグ|マスターズリーグ]]の札幌アンビシャスで、選手としても活躍中である。
 
なおホエールズ在籍時の1983年には、10月4日のジャイアンツ戦で勝ち星を挙げた事により、野村収に次いでプロ野球史上2人目の「[[全球団勝利]]」という快挙を達成している。受ける捕手は、ライオンズ時代の僚友、若菜嘉晴だった。結果的に、これが最後の勝ち星となった。通算わずかに38勝、1年しか在籍しない球団も2つ、1勝だけという球団が5つ、しかも消化試合での勝利というのもあったが、交流戦もFAもない時代には、両リーグ2球団ずつに在籍せねば達成できなかった記録であることを思えば、貴重である。古賀は自ら「流れ者の勲章」と称した。