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南北朝時代の天台宗僧侶
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殿の法印 良忠
(相違点なし)

2010年1月15日 (金) 09:54時点における版

良忠(りょうちゅう、生年未詳 - 建武元年(1334年)12月?)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての天台宗。一般的には「殿法印」(とののほういん、表記は「殿ノ法印」「殿の法印」とも)の呼び名の方が有名である。

家系

二条良実の孫とされるが、良実の息子の誰を父とするかは不明。伯父(叔父)の二条師忠猶子となっている。先述した「殿法印」の呼び名は、摂関家出身の法印ということによる敬称である。

略歴

時期不明ながら、天台宗座主となった尊雲法親王(後の護良親王)に伺候するようになる。尊雲法親王が還俗し、兵を挙げるようになってからもそれに従うが、元弘2年(1332年6月21日笠置山の戦い後醍醐天皇が敗北すると捕縛され、一時六波羅探題の獄につながれる(『太平記』巻四)。その後も護良親王の令旨を受けた赤松則村(円心)配下となって元弘3年(1333年)5月の鎌倉幕府の六波羅探題攻撃に加わり、6月23日の入洛の時には則村(一番隊)の次、二番隊の700騎余りを指揮していたという(『太平記』巻十二)。

しかし、良忠配下の兵は統制が取れておらず、六波羅攻撃の際に便乗して洛中にて狼藉を働き、強盗を行った。その兵20名は足利高氏(後の尊氏)の配下に捕らえられ、斬首の上六条河原にさらし首になったが、この事件は護良親王が以前から足利尊氏をよく思っていなかったことに決定的なダメージを加える物であった。その後は建武の新政の中で護良親王派と足利尊氏派の対立が激化、新政府が不安定になる一因となった。

建武元年(1334年)、遂に護良親王は父・後醍醐天皇の命により捕らえられ、鎌倉足利直義(足利尊氏の弟)のもとに護送される。この時良忠も他の護良親王側近と共に捕らえられ、一緒に鎌倉に護送されたと思われる(『太平記』巻十二)。その後の詳細な消息は不明だが、同年12月に殺害されたと推測される[1]

補注

  1. ^ 側近の一人・浄俊(日野資朝の弟)は「律師、祗候大塔宮、建武元十二月被誅了」(『尊卑分脈』)とある。また、『太平記』でも宮(=護良親王)の候人(側近)30名あまりが誅殺された、と書いている。