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2010年10月11日 (月) 03:50時点における版

天保義民事件(てんぽうぎみんじけん)とは、天保11年(1840年)に出羽国庄内藩主酒井忠器らに出された三方領知替えに対して、庄内藩の領民が反対運動を展開した事件。

概要

天保11年(1840年)11月、庄内藩主酒井忠器は江戸幕府より、越後長岡藩への転封命令を受けた。庄内藩は表高14万石であるが、実高は21万石と言われ、藩主忠器らによる殖産興業や農政改革によって比較的安定した藩財政を維持していた。ところが、この転封が武蔵川越藩主松平斉典が実子を排除して大御所徳川家斉の子斉省を養子に迎えたことと引換に豊かな庄内藩を与えるために行われるものと判明したために庄内藩内は紛糾した。

庄内藩の領民は酒井家が何の落ち度もないのに、表高7万4千石に過ぎない長岡藩に転封させられるのは道理に反するとして西郷組の本間辰之助玉龍寺の僧侶文隣らを中心に「百姓と雖も二君に仕えず」と宣言して反対運動を展開し、江戸でも公事師をしていた同藩出身の佐藤藤佐らが、反対運動を行った。

ところが、翌天保12年(1841年)1月に家斉が、続いて5月には斉典が病死したこと、更に川越藩が斉典の生母を通じて大奥から老中水野忠邦ら幕閣に対して転封工作を行ったことが明らかになると、諸大名からも批判の声が上がるようになり、7月に将軍徳川家慶の名において、三方領知替えの中止と川越藩への2万石の加増が決定された。また、当時は民衆が徒党を組んで公儀に対して反抗することはもっとも重い罪とされ、主だった者は死刑とされていたが、処罰の権限を持つのは主君である庄内藩酒井家である(幕藩制の下では、江戸幕府や徳川将軍家は藩主である酒井家とは主従関係にあったが、酒井家と主従関係にある庄内藩の家臣や領民に対しては直接処分する権限は無かった)ため、何ら処分が行われることも無かった。

この事件の背景には藩主を支持する領民の動きを幕府が抑えきれなかったこともあるが、後に「天保の改革」と呼ばれる老中水野忠邦の幕政改革に対する諸大名や民衆の不満の高まりとともに、水野への支持と幕府に対する反抗の広がりへの危惧の板挟みとなった将軍家慶の政治的判断があったと考えられている(実際、三方領知替え決定の責任者であった水野忠邦は、幕府の命令が事実上破棄されるという前代未聞の事態にも関わらず、老中の地位を慰留されている)。

参考文献

  • 『山形県大百科事典』(山形放送、1983年)P670「天保義民」(執筆者:佐藤三郎)

関連項目