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創作、豊田有恒、退魔戦記
m →‎騎馬兵: 日朝 編『朝師御書見聞 安国論私抄』の論文情報等を追加。
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文永の役で元側が馬を戦場で使用したことは『[[蒙古襲来絵詞]]』や『[[八幡愚童訓]]』からも窺え、『[[高麗史]]』にも[[高麗]]南部に日本侵攻に用いる軍馬のための糧抹を配給する[[奥魯|アウルク]](奥魯)が設置されていることからも、軍馬が文永の役で使用されたことは間違いないが、正確な軍馬の数は不明。
 
『蒙古襲来絵詞』絵八の麁原に陣を布く元軍の騎乗率は約17%で『八幡愚童訓』でも元軍の左副都元帥・[[劉復亨]]と思われる人物の共廻りの記述に「十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して…」<ref name="9オ"/>とあり、騎乗率を約15〜17%ほどとしている。なお、室町時代に[[日朝]]が著した[[日蓮]]の『[[立正安国論]]』の注釈書『安国論私抄』(文明11年、[[1478年]]擱筆)第一巻「蒙古詞事」(の「文永十一年蒙古責日本之地事」)には「或記云」として、文永の役での日本軍の捕虜となった元兵の証言によれば、元軍の構成は軍船の総数が240艘で、1艘につき兵300人、水夫70人、軍馬5匹であったとしている<ref name="文永十一年蒙古責日本之地事"/><ref>伊藤英人「身延文庫蔵『朝師御書見聞 安国論私抄』の「蒙古詞事」中の朝鮮語について」『東京外国語大学論集』63号、 2002年、6-7頁</ref>。[[日朝]]は「蒙古詞事」の文永の役に関する説明において、同時期の日蓮の書簡や『[[八幡愚童訓]]』等から引用しているが、「或記」とのみ書いており、具体的な典拠名を述べていない。また、現在確認出来る「日朝上人典籍目録」等の記録に見られる日朝の所持本には『[[八幡愚童訓]]』は含まれていない。しかし、日朝が引用する『[[八幡愚童訓]]』は、現在『安国論私抄』も蔵されている身延文庫所蔵の[[日意]]が[[明応]]3年([[1494年]])に書写した『[[八幡愚童訓]]』と文体等が多く一致しており、現在は逸書となっている日意写本の原本から参照した可能性が考えられる。また、日蓮自身は文永・弘安の役についての情報を日蓮に帰依していた信者やその類縁となっていた幕府関係者等から入手していたと推測されている。この「蒙古詞事」にある「或記」も、日朝が『安国論私抄』を著した文明11年([[1478年]])頃には身延山で参照し得た、現存の諸資料中の情報では確認出来ない資料のひとつと考えられる<ref>伊藤英人「身延文庫蔵『朝師御書見聞 安国論私抄』の「蒙古詞事」中の朝鮮語について」『東京外国語大学論集』63号、 2002年、1-21頁</ref>。
 
また、対する日本軍は、陸戦においては騎兵を密集させた集団で戦っていた。そのことは、[[クビライ]]に仕えた[[王惲]]が日本軍の様子を「騎兵は結束す」<ref name="『汎海小録』"/>と記していることや『[[蒙古襲来絵詞]]』絵五に騎兵を密集させて突撃する日本軍の様子が描かれていることからも窺える。