元寇
元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。蒙古襲来とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。
文永の役 | |
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『蒙古襲来絵詞』より文永の役の鳥飼潟の戦い | |
戦争:元寇 | |
年月日:1274年11月4日-19日 (文永11年10月5日-20日/至元11年10月5日-20日) | |
場所: 日本、九州北部 | |
結果:日本の勝利 モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍の撤退 | |
交戦勢力 | |
鎌倉幕府 | |
指導者・指揮官 | |
博多 |
総司令官
都督使 金方慶
右軍使 金文庇 |
戦力 | |
総大将・少弐景資手勢 500余騎[7]
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蒙古・漢軍 15,000[13]〜25,000人[6][14][15]
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損害 | |
日本人195人戦死、下郎は数を知らず[19] |
戦闘による両軍戦死者多数[20]
(日本側が確認できた数)
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弘安の役 | |
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弘安の役の御厨海上合戦(『蒙古襲来絵詞』) | |
戦争:元寇 | |
年月日:1281年6月8日-8月22日 (弘安4年5月21日-閏7月7日/至元18年5月21日-8月7日) | |
場所: 日本、九州北部 | |
結果:日本の勝利 モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍の壊滅 | |
交戦勢力 | |
鎌倉幕府 | |
指導者・指揮官 | |
総司令官 |
総司令官 |
戦力 | |
江戸時代に編纂された『歴代鎮西要略』によると25万騎[29]。なお同書は、対する元軍の兵力を「幾百万とも知らず」と記載してある[30]。 |
『元史』阿剌罕伝では蒙古軍 400,000人 [32] 東路軍 40,000[33][34]〜56,989人[35]
江南軍 100,000人[37]
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損害 | |
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高麗兵・東路軍水夫不帰還者7,592人/生還者19,397人[36][46]
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呼称
編集日本での呼称
編集モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍による2度の日本侵攻について、鎌倉・室町時代の日本の文献中では、蒙古襲来、異賊襲来、蒙古合戦、異国合戦などと表記していた。「異賊」という呼称は日本以外の外来から侵入して来る勢力を指すのに使われていたもので、『八幡愚童訓』鎌倉時代前後の文献では、刀伊の入寇や神功皇后による三韓征伐についても用いられている。その他、「凶徒」という呼称も用いられた。また、1274年の第一次侵攻は文永合戦、1281年の第二次侵攻は弘安合戦などと表記されていた。
「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』が最初の用例である。以後、18世紀の長村鑒『蒙古寇紀』、小宮山昌秀『元寇始末』、19世紀の大橋訥庵『元寇紀略』など、「寇」を用いた史書が現れ、江戸時代後期には元寇という呼称が一般的になっていった。
元寇という呼称
編集- 「元」
- モンゴル帝国第5代皇帝・クビライが日本宛に作成させた蒙古国書の冒頭に「大蒙古国皇帝」とあり、モンゴル帝国の漢語自称であった「大蒙古国」(モンゴル語の Yeke Monγol Ulus を訳したもの)が初見される。これらの呼称は1268年(文永5年・至元5年)正月に、フビライの命によって高麗から派遣された使者が、大宰府において口頭と書面によって「蒙古」の存在を伝達したことで、日本側にも知られるようになった。『深心院関白記』『勘仲記』といった当時の公家の日記にも「蒙古」の呼称が用いられている。
- 1271年12月18日(文永8年・至元8年)、クビライは国号を漢語で「大元」(モンゴル語では「大元大モンゴル国」(Dai-Ön Yeke Monγol Ulus))と改めるが、鎌倉時代の日本では「蒙古」という呼称が一般化していたため、「元・大元」等の呼称は用いられなかった。
- 江戸時代に入ると『元史』などの漢籍が輸入され、明朝における元朝の略称である「元」という呼称、また、クビライを指して「胡主」・「胡元」といった遊牧勢力に対する
貶称 ()も用いられるようになる。 - 「寇」
- 「寇」とは、「外敵」という意味で、「
寇 ()す」つまり「侵略する」を名詞に表した文字である[49]。歴史学者の川添昭二は、この表現が江戸後期に出現した背景としては、アヘン戦争で清がイギリス帝国に敗れたことや日本近海に西洋列強の船舶の来航が頻発したため、当時の日本の知識人の間で、「外夷」に対する「対外意識」高揚があり、過去の蒙古襲来についてもその文脈で見るようになったと指摘している[50]。 - 幕末に流行した頼山陽の『日本外史』では、弘安の役について「元主(クビライ)、我が再び使者を誅するを聞き、則ち憤恚して、大に舟師を発し、漢・胡・韓の兵凡そ十余万人を合して、范文虎を以てこれに将とし、入寇せしむ」と表現している。
新たな呼称案
編集近年では「元寇」の他にも「蒙古襲来」「モンゴル襲来」なども使用される[51]。「文永の役」「弘安の役」についても、元・高麗側資料とも共通の名称を図るため、一部で1274年と1281年の干支に因んで「
元・高麗での呼称
編集元や高麗の文献では、日本侵攻を「征東(または東征)」「日本を征す」「日本之役」などと表記している。
第一次日本侵攻までの経緯
編集※暦はユリウス暦、月日は西暦部分を除き和暦、宣明暦の長暦による。
モンゴル帝国の高麗侵攻
編集当時モンゴル高原および中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国は、1231年(寛喜3年、太宗3年)から高麗侵攻を開始。1259年(正元元年・モンケ9年)、反モンゴル帝国急先鋒の武臣政権が倒れたのをもって、高麗はモンゴル帝国に降伏した。
翌1260年(文応元年・中統元年)、モンゴル帝国の第5代皇帝(大カアン)に即位したクビライ・カアンは、これまでの高麗への武力征圧策を懐柔策へと方針を変更する[53]。高麗への懐柔策の採用は、日本侵攻に高麗を協力させるためだったとされる[53]。
モンゴル帝国の樺太侵攻
編集1264年(文永元年・至元元年)、アムール川下流域から樺太にかけて居住し、前年にモンゴル帝国に服属していたギリヤーク(ニヴフ)族のギレミ(吉里迷)がアイヌ族のクイ(骨嵬)の侵入をモンゴル帝国に訴えたため、モンゴル帝国がクイ(骨嵬)を攻撃している[54]。この渡海作戦はモンゴル帝国にとって元寇に先んじて、初めて渡海を伴う出兵であった。以降20年を経て、二度の日本出兵を経た後の1284年(弘安7年・至元21年)、クイ(骨嵬)への攻撃を再開[55]、1285年(弘安8年・至元22年)と1286年(弘安9年・至元23年)には約10,000の軍勢をクイ(骨嵬)に派遣している[56][57]。
これらモンゴル帝国による樺太への渡海侵攻は、征服を目的としたものではなく、アイヌ側からのモンゴル帝国勢力圏への侵入を排除することが目的であったとする見解がある[58]。この数度にわたる元軍による樺太への渡海侵攻の結果、アイヌは元軍により樺太から駆逐され北海道へ移住したものとみられる[58]。元は樺太の最南端に拠点としてクオフオ(果夥)を設置し、北海道からのアイヌによる樺太侵入に備えた[58]。以後、アイヌは樺太に散発的にしか侵入することができなくなった[58]。なお、樺太最南端には、アイヌの施設であるチャシとは異なる方形土城として、土塁の遺構がある白主土城(しらぬしどじょう)があり、これがクオフオ(果夥)であったと思われる[58]。
日本招諭の発端
編集クビライが日本に使節を派遣する契機となったのは、1265年(文永2年・至元2年)、高麗人であるモンゴル帝国の官吏・趙彝(ちょうい)等が日本との通交を進言したことが発端である[59]。
趙彝は「日本は高麗の隣国であり、典章(制度や法律)・政治に賛美するに足るものがあります。また、漢・唐の時代以来、あるいは使いを派遣して中国と通じてきました」[60] と述べたという。趙彝は日本に近い朝鮮半島南部の慶尚道咸安(かんあん)出身であったため、日本の情報を持っていたともいわれる[61]。クビライは趙彝の進言を受け入れ、早速日本へ使節を派遣することにした[59]。
なお、マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、日本は大洋(オケアノス)上の東の島国として紹介されており、クビライが日本へ関心を抱いたのは、以下のように日本の富のことを聞かされ興味を持ったからだとしている。
- 「ジパング(日本国)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から1500マイル(約2,250km)離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も2ドワ(約4cm)の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した。将軍の一人はアバタン(アラカン(阿剌罕))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」[62][63]
また、南宋遺臣の鄭思肖も「元賊は、その豊かさを聞き、(使節を派遣したものの)倭主が来臣しないのを怒り、土の民力をつくし、舟艦を用意して、これに往きて攻める」[64] と述べており、クビライが日本の豊かさを聞いたことを日本招諭の発端としている。
一方、クビライの重臣・劉宣は「至元初年に高麗の趙開(趙彝か)が日本と通交し南宋を牽制するように建言する」[65] と述べており、招諭の発端として南宋包囲網を敷くことも目的の一つであったことがわかる。ただし、クビライは日本へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」[66] と明言し、高麗の造船により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」[67] と述べるなど、南宋征服と同様に日本征服の意志を表明している。
第一回使節
編集クビライは使節の派遣を決定すると、1266年(文永3年・至元3年)付けで日本宛て国書である「大蒙古国皇帝奉書」を作成させ、正使・兵部侍郎のヒズル(黒的)と副使・礼部侍郎の殷弘ら使節団を日本へ派遣した[59]。使節団は高麗を経由して、そこから高麗人に日本へ案内させる予定であった[60]。
11月、ヒズル(黒的)ら使節団は高麗に到着し、高麗国王・元宗に日本との仲介を命じ、高麗人の枢密院副使・宋君斐と侍御史・金賛らが案内役に任ぜられた[60][68]。しかし、高麗側は、モンゴル帝国による日本侵攻の軍事費の負担を恐れていた[69]。そのため、翌年、宋君斐ら高麗人は、ヒズル(黒的)ら使節団を朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内すると、対馬を臨み、海の荒れ方を見せて航海が危険であること、貿易で知っている対馬の日本人はかたくなで荒々しく礼儀を知らないことなどを理由に、日本への進出は利とならず、通使は不要であると訴えた[70]。これを受けて使節は、高麗の官吏と共にクビライの下に帰朝した[71]。
しかし、報告を受けたクビライはあらかじめ「風浪の険阻を理由に引き返すことはないように」と日本側への国書の手交を高麗国王・元宗に厳命していたことや[72]、元宗が「(クビライの)聖恩は天大にして、誓って功を立てて恩にむくいたい」と絶対的忠誠を誓っていながら、クビライの命令に反して使節団を日本へ渡海させなかったことに憤慨した[71]。
怒ったクビライは、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、日本側から要領を得た返答を得てくることを元宗に約束させた[73]。
命令に逆らうことのできない元宗はこの命令に従い、元宗の側近であった起居舎人・潘阜らを日本へ派遣する[73][74]。
第二回使節
編集1268年(文永5年・至元 5年)正月、高麗の使節団が大宰府に到来[75]。 大宰府の鎮西奉行・少弐資能は大蒙古国皇帝奉書(日本側呼称:蒙古国牒状)と高麗国王書状[76]、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取り、鎌倉へ送達する[75]。鎌倉幕府では、この年の3月に北条時宗が八代執権に就任したばかりであった[77]。
当時の国政は、外交は朝廷の担当であったため、幕府は朝廷に国書を回送した[75]。朝廷と幕府の仲介職である関東申次の西園寺実氏は幕府から国書を受け取ると、院政を布く後嵯峨上皇に「異国のこと」として提出した[78]。蒙古国書への対応を巡る朝廷の
幕府では蒙古人が凶心を挟んで本朝(日本)を窺っており、近日牒使を派遣してきたとして、蒙古軍の襲来に備えて用心するよう御家人らに通達した[79]。鎌倉には南宋より禅僧が渡来しており、これらの南宋僧侶による進言や、大陸におけるモンゴル帝国の暴虐などの報告もあったとされる[80]。
日本側からの反応が無かったため、太宰府到来から7か月後に使節団は高麗へ帰還しており、高麗は遣使の失敗の旨をクビライに報告している[81]。
同1268年(文永5年・至元5年)5月、クビライは使節団の帰還を待たずして「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」と日本征服の意思を表明し、高麗に戦艦1,000
同年、第2代皇帝・オゴデイ(窩闊台)以来の懸案であった南宋の侵攻を開始。1273年(文永10年・至元10年)に南宋の襄陽・樊城が陥落するまで激戦が展開された(襄陽・樊城の戦い)。
大蒙古国皇帝奉書
編集大蒙古国皇帝奉書の内容は、次の通りであった。
蒙古国牒状 |
上天眷命 |
宗性筆『調伏異朝怨敵抄』蒙古国牒状 南都東大寺尊勝院所蔵 |
書き下し
編集上天眷命
大蒙古国皇帝
書を日本国王に奉る。朕惟ふに古自り小国の君、境土相接するは、尚は講信修睦に務む。
況んや我が祖宗、天の明命を受け、区夏を奄有す。
遐方異域、威を畏れ徳に懐く者、悉くは数う可からず。
朕即位の初め、高麗の辜無き民の久しく鋒鏑に瘁るるを以て、即ち兵を罷め、其の疆域を還し、其の旄倪を反ら令む。
高麗の君臣、感戴して来朝せり。
義は君臣と雖も、而も歓ぶこと父子の若し。
計りみれば、王の君臣も亦た已に之を知らん。
高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密迩し、開国以来、亦た時に中国に通ず。
朕の躬に至って、一乗の使も以て和好を通ずること無し。
尚は恐る、王の国之を知ること未だ審ならざらん。
故に特に使を遣はし、書を持して朕の志を布告せしむ。
冀は今自り以往、通問結好し、以て相親睦せん。
且は聖人は四海を以て家と為す。相通好せざるは、豈に一家の理ならん哉。
兵を用ふるに至るは、夫れ孰か好む所ならん。
王其れ之を図れ。不宣
至元三年八月 日
現代語訳
編集天の慈しみを受ける
大蒙古国皇帝は書を
— 宗性筆『調伏異朝怨敵抄』蒙古国牒状、東大寺尊勝院文書[82]
日本国王に奉ず。朕(クビライ・カアン)が思うに、いにしえより小国の君主は
国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである。まして我が
祖宗(チンギス・カン)は明らかな天命を受け、区夏(天下)を悉く領有し、遠方の異国にして
我が威を畏れ、徳に懐く者はその数を知らぬ程である。朕が即位した
当初、高麗の罪無き民が鋒鏑(戦争)に疲れたので
命を発し出兵を止めさせ、高麗の領土を還し老人や子供をその地に帰らせた。
高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。義は君臣なりというが
その歓びは父子のようである。
この事は王(日本国王)の君臣も知っていることだろう。高麗は朕の
東藩である。日本は高麗にごく近い。また開国以来
時には中国と通交している。だが朕の代に至って
いまだ一度も誼みを通じようという使者がない。思うに、
王国(日本)はこの事をいまだよく知らないのではないか。ゆえに特使を遣わして国書を持参させ
朕の志を布告させる。願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び
もって互いに親睦を深めたい。聖人(皇帝)は四海(天下)をもって
家となすものである。互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。
兵を用いることは誰が好もうか。
王は、其の点を考慮されよ。不宣。
至元三年八月 日
このクビライが最初に送った大蒙古国皇帝奉書は、「上天」・「大蒙古国皇帝(クビライ・カアン)」・「祖宗(チンギス・カン)」といった特定の語を一文字高く記述する台頭形式で、対して「日本国王」はそれら特定の語より一文字下げて記述してあり、間接的に日本国王を臣下とする関係を望んでいることを示唆するもので[83]、それが入れられなければ、武力を用いることを仄めかすなど恫喝を含んだものであった。
この大蒙古国皇帝奉書の内容については諸説あるが、末尾の「不宣」という語は、友人に対して用いられるものであり[84]、モンゴル帝国皇帝が他国の君主に与える文書としては前例のないほど鄭重なものとする見解がある一方[85]、高圧的であるという見解もあり、歴史小説家・陳舜臣は、冒頭の「朕が思うに、いにしえより小国の君主は国境が相接していれば…」の「小国」は日本を指し、最後に「兵を用いることは誰も好まない」と武力で脅すなど、歴代中国王朝国書と比較しても格段に無礼としている。
第三回使節
編集1269年(文永6年・至元6年)2月、クビライは再び正使・ヒズル(黒的)、副使・殷弘ら使節団を日本へ派遣、高麗人の起居舎人・潘阜らの案内で総勢75名の使節団が対馬に上陸した[86][87]。使節らは日本側から拒まれたため対馬から先には進めず、日本側と喧嘩になった際に対馬島人の塔二郎と弥二郎という2名を捕らえて、これらと共に帰還した[88][89]。
クビライは、使節団が日本人を連れて帰ってきたことに大いに喜び、塔二郎と弥二郎に「汝の国は、中国に朝貢し来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅し迫るつもりはない。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ」と述べた[90]。クビライは塔二郎と弥二郎に、多くの宝物を下賜し、クビライの宮殿を観覧させた[90]。宮殿を目の当たりにした二人は「臣ら、かつて天堂・仏刹ありと聞いていましたが、まさにこれのことをいうのでしょう」と感嘆した[90]。これを聞いたクビライは喜び、二人を首都・燕京(後の大都)の万寿山の玉殿や諸々の城も観覧させたという[90]。
第四回使節
編集1269年(文永6年・至元6年)9月、捕えた対馬島人の塔二郎と弥二郎らを首都・燕京(後の大都)から護送する名目で使者として高麗人の金有成・高柔らの使節が大宰府守護所に到来[87][91]。今度の使節はクビライ本人の国書でなく、モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した[92]。
- モンゴル帝国による中書省牒
- 2度目の国書がモンゴル帝国の中央機関・中書省からの中書省牒だったことについて、クビライが「皇帝」の国書では日本側からの返書は得にくいと判断し、皇帝本人からの国書よりも下部機関である「中書省」からの国書にすれば日本側が返書し易いと考えたのではないかとされる。この中書省牒は日本に明確に服属を要求する内容だった[93]。
- 朝廷による返書『太政官牒案』草案
- この中書省牒に対して、朝廷の評定では、モンゴル帝国の服属の要求を拒否することに決し、さらに拒否の返書を出すこととした[92]。早速、文書博士・菅原長成が返書文を起草し、中書省牒に対して返書「太政官牒案」草案を作成した[92]。
- 草案の内容は以下のように、モンゴル帝国に対して日本の独立性を主張した内容だった。
- 「事情を案ずるに、蒙古の号は今まで聞いたことがない。(中略)そもそも貴国はかつて我が国と人物の往来は無かった。
- 本朝(日本)は貴国に対して、何ら好悪の情は無い。ところが由緒を顧みずに、我が国に凶器を用いようとしている。
- (中略)聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と(国書で)称していながら、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。
- およそ天照皇太神(天照大神)の天統を耀かしてより、今日の日本皇帝(亀山天皇)の日嗣を受けるに至るまで(中略)ゆえに皇帝の国土を昔から神国と号すのである。
- 知をもって競えるものでなく、力をもって争うことも出来ぬ唯一無二の存在である。よく考えよ」[92]また、高麗国王・元宗にも返書案を作成しており、捕えられていた塔二郎と弥二郎の送還に便宜を図ってくれた高麗側に慰労と感謝を述べた内容であった[94]。しかし、幕府は評定により「返牒遣わさるべからずの旨」を決し、朝廷に返書しないことを上奏した[87]。朝廷が幕府の提案を受け入れたため、モンゴル帝国からの使節は返書を得ることに失敗し帰還した[95]。
三別抄の援助要請
編集1271年(文永8年・至元8年)9月、高麗に反乱を起していた三別抄[96] から、軍事的援助を乞う使者が到来[97]。 この時、三別抄は自らを高麗王朝と称していた[98]。
受け手側の朝廷はすでに高麗からもたらされた国書に対して、今回もたらされた高麗王朝を名乗る書状がモンゴル帝国を非難し珍島への遷都を告げ、さらにはモンゴル帝国と対抗するため数万の軍勢の援助を日本側に乞う内容であったため、非常に不可解に感じられ[98]、この書状に対しての評定では様々な意見が述べられた[97]。なお、三別抄の使者に対して、日本側がどのように対応したかは史料がなく、その後の詳細は詳らかではない。
一方で三別抄は、同年にモンゴル帝国に対して「駐屯する(蒙古)諸軍を退けて欲しい。そうすれば、然るのち帰順する。しかし、蒙古の将軍・ヒンドゥ(忻都)が要請に従おうとしない。今(クビライに)お願いする。(我らが)全羅道を得てそこで居住できるのであれば、直ちに朝廷に隷属する」[99] と懇願している。
1273年(文永10年・至元10年)4月、元は高麗軍を主力とする軍船160艘、12,000人(高麗軍6千、屯田軍2千、漢軍2千、武衛軍2千)の軍をもって、結局三別抄を平定した(三別抄の乱)[100][101][102]。
第五回使節
編集1271年(文永8年・至元8年)9月、三別抄からの使者が到来した直後に、元使である女真人の趙良弼らがモンゴル帝国への服属を命じる国書を携えて5度目の使節として100人余りを引き連れて到来[103][104]。クビライは、趙良弼らが帰還するまでとして、日本に近い高麗の金州にクルムチ(忽林赤)、王国昌、洪茶丘の軍勢を集結させるなど、今回の使節派遣は軍事力を伴うものであった[105]。
博多湾の今津に上陸した趙良弼は、日本に滞在していた南宋人と三別抄から妨害を受けながらも大宰府西守護所に到着した[104][106]。日本側が大宰府以東への訪問を拒否したため、趙良弼はやむなく国書の写しを手渡し、11月末の回答期限を過ぎた場合は武力行使も辞さないとした[107]。これに対して朝廷は評定を行い、前回に文書博士・菅原長成が作成した返書『太政官牒案』草案を少々手直しの上で返書を渡すということで一旦は決定をみたが[107]、その後も使節団に関する評定が続いた[108]。一方、大宰府では、ひとまず先に返書の代わりとして、日本の使節がクビライのもとへと派遣されることになった[104]。趙良弼もまた日本使とともに帰還の途に就いた[109]。
同年11月、クビライは国号を新たに「大元」と定める[110]。
日本使の大都訪問
編集1272年(文永9年・至元9年)、12人の日本使(『元史』日本伝では26人)が1月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問する[104][109]。元側は日本使の意図を元の軍備の偵察だと判断し、クビライへの謁見は許さなかった[104]。趙良弼から高麗の金州に駐屯する元軍が日本側を警戒させていると報告があったため、元の丞相・アントン(安童)は日本使に対し、その軍は三別抄に備えたものだと説明するようクビライに進言し、クビライはこれを採用している[111]。大都を後にした日本使は、4月に再び高麗を経由して帰国した[112]。
第六回使節
編集1272年(文永9年・至元9年)4月又は12月、元使である女真人の趙良弼らは、日本が元の陣営に加わることを恐れる三別抄の妨害を受けながらも[113]、6度目の使節として再び日本に到来[114][115]。
『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑によれば、趙良弼ら使節団が到来すると、日本の「国主」はクビライ宛に返書し和を議そうとしたが、日本が元の陣営に加わることを警戒した南宋より派遣された渡宋禅僧・瓊林(けいりん)が帰国して趙良弼らを妨害したため、趙らは返書を得ることができなかったという[116]。また、『賛皇復県記』にも、南宋は自国と近い日本が元の陣営に加わることを恐れて、瓊林を遣わして妨害したとある[113]。さらに趙良弼らは大宰府より日本の国都(京都)に入ることができなかったことから、遂に元に帰還した[117]。6月に帰還した趙良弼は、日本の君臣の爵号、州郡の名称とその数、風俗と産物をクビライに報告した[118]。
クビライは、途中で引き返すなど日本に未到着のものも含む合計6回、日本へ使節を派遣したが、服属させる目的が達成できなかったため、武力侵攻を決断する[119]。これに対して趙良弼は、日本侵攻の無益をクビライに説き「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の
第一次日本侵攻計画
編集しかし、クビライは翌1273年(文永10年・至元10年)には前言を翻し、日本侵攻を計画し侵攻準備を開始した。この時点で、元は南宋との5年に及ぶ襄陽・樊城の戦いで勝利し、南宋は元に対抗する国力を失っていた。また朝鮮半島の三別抄も元に滅ぼされており、軍事作戦を対日本に専念させることが可能となったのである。
1274年(文永11年・至元11年)1月、クビライは昭勇大将軍・洪茶丘を高麗に派遣し、高麗に戦艦300艘の建造を開始させた[120]。
洪茶丘は監督造船軍民総管に任命され、造船の総指揮に当たり、工匠・
同月、クビライは娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)を高麗国王・元宗の子の王世子・諶(しん、後の忠烈王)に嫁がせ、日本侵攻を前にして元と高麗の関係をより強固にする[122]。その直後の7月には元宗が死去し、8月に諶が新たに第25代高麗国王・忠烈王として即位した[123]。
6月、高麗は元に使者を派遣し、戦艦300艘の造船を完了させ、軍船大小900艘を揃えて高麗の金州に泊めたことを報告する[124]。8月、日本侵攻軍の総司令官にしてモンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)が高麗に着任した[125]。
異国警固体制
編集執権・北条時宗は、このようなモンゴル帝国の襲来の動きに対して以下のような防衛体制を敷いた。
- 1271年(文永8年・至元8年)、北条時宗は鎮西に所領を持つ東国御家人に鎮西に赴くように命じ、守護の指揮のもと蒙古襲来に備えさせ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた[126][127]。当時の御家人は本拠地の所領を中心に遠隔地にも所領を持っている場合があり、そのため、モンゴル帝国が襲来すれば戦場となる鎮西に所領を持つ東国御家人に異国警固をさせることを目的として鎮西への下向を命じたのであった[128]。これがきっかけとなり、鎮西に赴いた東国御家人は漸次九州に土着していくこととなる[128]。九州に土着した東国御家人には肥前の小城に所領を持つ千葉氏などがおり、下向した千葉頼胤は肥前千葉氏の祖となっている。
- 1272年(文永9年・至元9年)、北条時宗は異国警固番役を設置。鎮西奉行・少弐資能、大友頼泰の二名を中心として、元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害の警護および博多津の沿岸を警固する番役の総指揮に当たらせた[129][130][131][132][133]。
- 同年2月、北条時宗は後嵯峨上皇没直後の二月騒動で庶兄・北条時輔等を粛清し幕府の統制を強化した[134]。
なお、『高麗史』によると、日本側が高麗に船を派遣して、諜報活動を行っていたと思われる記述があり、以下のような事件があった。
- 同年7月、高麗の金州において、慶尚道安撫使・曹子一と諜報活動を行っていたと思われる日本船とが通じていた[135]。曹子一は元に発覚することを恐れて、密かに日本船を退去させたが、高麗軍民総管・洪茶丘はこれを聞き、直ちに曹子一を捕らえると、クビライに「高麗が日本と通じています」と奏上した[135]。高麗国王・元宗は張暐を派遣してクビライに対して曹子一の無実を訴え解放を求めたものの、結局、曹子一は洪茶丘の厳しい取調べの末に処刑された[135]。
- 1273年(文永10年・至元10年)11月、幕命を受けた少弐資能は、戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発した[136]。
文永の役
編集元・高麗連合軍の出航
編集1274年(文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[138] 15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した[12]。
なお、726~900艘の軍船の構成は、大型戦艦の千料舟126[17]~300艘、上陸用快速船艇のバートル(抜都魯:モンゴル語で「勇猛なる」の意)軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘から成っていた[18]。
対馬侵攻
編集『八幡愚童訓』によると、対馬守護代・宗資国[140] は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた[139]。そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの、宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという[139]。
同日、元軍の襲来を伝達するため、対馬勢の小太郎・兵衛次郎(ひょうえじろう)らは対馬を脱出し、博多へ出航している[139]。
- 対馬の惨状
- 『高麗史』金方慶伝によると、元軍は対馬に入ると島人を多く殺害した[141]。また、高麗軍司令官・金方慶の墓碑『金方慶墓誌銘』にも「日本に討ち入りし、俘馘(捕虜)が甚だ多く越す」[142] とあり、多くの被害を島人に与えた。
- この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。
- 去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
— 『日蓮書状』、高祖遺文録[143]
- この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立て、あるいは捕虜としたとしている。
- この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた[144]。
- 同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)に献上している[145]。
壱岐侵攻
編集10月14日、対馬に続き、元軍は壱岐島の西側に上陸[146]。壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、景隆は樋詰城で自害する[146]。
『高麗史』金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の将である朴之亮および金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、後になって元軍に攻撃を仕掛けてきた。これに対して蒙古・漢軍の右副都元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は応戦し、日本兵を1,000余り討ち取ったという[147]。
日蓮は、この時の壱岐の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」[148] と記している。
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。
肥前沿岸襲来
編集松浦党の肥前の御家人・佐志房(さし ふさし)と佐志直(さし なおし:嫡男)・佐志留(さし とまる:二男)・佐志勇(さし いさむ:三男)父子や同国御家人・石志兼・石志二郎父子[150] らが応戦したものの松浦党の基地は壊滅した[149]。この戦闘で佐志房および息子の直(なおし)・留(とまる)・勇(いさむ)はみな戦死した[151]。
室町時代の日澄によれば、松浦党は数百人が伐たれ、あるいは捕虜となり、肥前沿岸の惨状は壱岐や対馬のようであったという[152]。
日本側の迎撃態勢
編集対馬・壱岐の状況が大宰府に伝わり、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発するとともに九州の御家人が大宰府に集結しつつあった。
ところが、薩摩や日向、大隅など南九州の御家人たちは博多に向かうに際して、九州一の難所と言われる筑後川の神代浮橋(くましろうきばし)を渡らなければならず、元軍の上陸までに博多に到着することは難しかった[153]。これに対して、筑後の神代良忠(くましろ よしただ)は一計を案じて神代浮橋の通行の便を図り、南九州の諸軍を速やかに博多に動員した[153]。後に神代良忠は、元軍を撃退するのに貢献したとして執権・北条時宗から感状を与えられ称された[153]。
こうして集結した九州の御家人ら日本側の様子を『八幡愚童訓』では、鎮西奉行の少弐氏や大友氏を始め、紀伊一類、臼杵氏、戸澤氏、松浦党、菊池氏、原田氏、大矢野氏、兒玉氏、竹崎氏已下、神社仏寺の司まで馳せ集まったとしている[154][155]。
博多湾上陸
編集- 10月20日、元軍は博多湾のうちの早良郡(さわらぐん)に襲来[156]。なお、元軍の上陸地点については諸説ある[157]。
- 捕虜とした元兵の証言によれば、10月20日に早良郡の百道原へ上陸したのは、この年の3月13日に元本国を出発した元軍の主力部隊である蒙古・漢軍であった[158]。
『金鋼集』によると、両軍の戦闘は、朝8時頃の開戦で、戦闘が終結したのが夕暮れの18時頃であった[20]。
赤坂の戦い
編集
早良郡から上陸した元軍は、早良郡の百道原より約3km東の赤坂を占領し陣を布いた[159]。
博多の西部に位置する赤坂は丘陵となっており、古代には大津城が築かれ、近世に至っては福岡城が築かれるなど博多攻防の戦略上の重要拠点であった[160]。
一方、日本軍は総大将・少弐景資の下、博多の息の浜に集結して、そこで元軍を迎撃しようと待ち受けていた[161]。日本側が博多で元軍を迎え撃つ作戦を立てた理由は、元軍が陣を布く赤坂は馬の足場が悪く、騎射を基本戦法とする日本の戦法で戦うには不向きであるため、元軍が博多に攻めてくるのを待って、一斉に騎射を加えようという判断からであった[162]。
ところが、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍を襲撃し、上陸地点の早良郡のうちにある麁原(そはら)へと元軍を敗走させた[159]。
なお肥後の御家人・竹崎季長一党は元軍との会敵を求めて西へ移動中に、赤坂での戦闘で勝利した菊池武房勢100余騎と遭遇している[163]。
鳥飼潟の戦い
編集
- 赤坂の戦い追撃戦
- 赤坂の戦いで敗走した元軍の大勢は、小高い丘である麁原山(そはらやま)がある麁原へと向かい、小勢は別府(べふ)の塚原に逃れた[159]。塚原に逃れた一部の元軍は、麁原の元軍本隊に合流しようと早良郡にある鳥飼潟(とりかいがた)[166] を通って逃れようとしたが、肥後の御家人・竹崎季長ら日本軍がそれを追撃した[167]。しかし、竹崎季長は馬が干潟に足を取られて転倒したため、元軍小勢を取り逃がしてしまったという[167]。
- 鳥飼潟の戦い
- 麁原一帯に陣を布いていた元軍は、銅鑼や太鼓を早鐘のように打ち鳴らしてひしめき合っていた[167]。これを見て先駆けを行おうとする竹崎季長に対して、郎党・藤源太資光は「味方は続いて参りましょう。お待ちになって、戦功の証人を立ててから御合戦をなされよ」と諫言したものの、竹崎季長はそれを振り切り「弓箭の道は先駆けを以って賞とす。ただ駆けよ」と叫んで、元軍に先駆けを行った[167]。元軍も麁原から鳥飼潟に向けて前進し、鳥飼潟の塩屋の松の下で竹崎季長主従と衝突した[168]。
- 竹崎季長主従は、元軍の矢を受けて竹崎季長、三井資長、若党以下三騎が負傷するなど危機的状況に陥ったが[169]、後続の肥前の御家人・白石通泰率いる100余騎が到着し、元軍に突撃を敢行したため、元軍は麁原山の陣地へと引き退いた[168]。
- 同じく鳥飼潟に駆け付けた肥前の御家人・福田兼重の文書によると、早良郡から元軍が上陸したことを受けて、早良郡に馳せ向かうよう武士らに下知が下り、早良郡へと馳せ向かった福田兼重ら日本軍は、鳥飼潟で元軍と遭遇して衝突した[156]。豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)は鳥飼潟の戦いにおいて奮戦[170]。後にその功績により豊後守護・大友頼泰から書下を与えられた[170]。これら武士団の奮戦により、元軍は鳥飼潟において日本軍に敗れ、同じく早良郡のうちにある百道原[166] へと敗走した[156]。
- 百道原・姪浜の戦い
- 鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を追って、日本軍は百道原まで追撃をかけた[156]。追撃に参加した福田兼重は百道原において大勢の元軍の中に馳せ入り、元軍と矢戦となり、鎧の胸板・草摺などに三本の矢を受けて負傷したという[156]。
- 『財津氏系譜』によると、この百道原の戦いにおいて、豊後の御家人・日田永基らが奮戦し百道原の戦いで元軍を破り、さらに百道原の西の姪浜[166] の戦いの両所で1日に2度、元軍を大いに破ったという[171]。なお、『日田記』によると百道原と姪浜における戦闘は「筑前国早良郡二軍ヲ出シ、姪ノ浜、百路原両処二於テ、一日二度ノ合戦二討勝テ、異賊ヲ斬ル事夥シ」[172] といった戦況であった。
- また、『武藤系図』少弐景資伝では、百道原における矢戦の際に元軍の左副都元帥・劉復亨と思われる蒙古軍大将が矢で射止められたとしており[173]、中華民国期に編纂された『新元史』劉復亨伝にも百道原で少弐景資により劉復亨が射倒されたため、元軍は撤退したと編者・柯劭忞(かしょうびん)は述べている[174]。これらの史料から、元側の史料『高麗史』の「劉復亨、流矢に中(あた)り先に舟に登る」[175] とは、百道原の戦いにおいての負傷であったとも考えられる。
- 鳥飼潟の戦いについて
- この鳥飼潟の戦いには、日本軍の総大将少弐景資や大友頼泰が参加していたものとみられ[176]、この戦闘に参加した武士も豊後、肥前、肥後、筑後等九州各地からの武士の参戦が確認されることから、鳥飼潟の戦いは日本軍が総力を挙げた文永の役における一大決戦であったという見解がある[177]。なお、文永の役の戦闘で、現存している当時の古文書で記録があるのは、この鳥飼潟の戦いのみであり[178]、合戦に参加した竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』詞四に記載されている赤坂の戦いとこの鳥飼潟の戦いが、文永の役の主戦闘だったとみられる[177]。
『八幡愚童訓』による戦況
編集八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起であり、文永の役を詳述した数少ない日本側の文書である『八幡愚童訓』によると、武士が幕府に提出した文書などにより再構成された上述の戦況とは異なる、「日本の武士は蒙古軍に対し手ひどく敗北し、内陸深くまで押し込められたものの、夜間に現れた神の軍勢が一夜にして蒙古の船団を追い払った」という物語が語られている。
上陸し馬に乗り旗を揚げて攻めかかって来た元軍に対して、鎮西奉行・少弐資能の孫・少弐資時がしきたりに則って音の出る鏑矢を放ったが、元軍はこれを馬鹿にして笑い、太鼓を叩き銅鑼を打って鬨の声を発したため、日本の馬は驚き跳ね狂ったとしている[179]。また、元軍の弓は短いが、鏃に毒を塗って雨の如く矢を射たため、元軍に立ち向かう術(すべ)がなかったとしている[179]。元軍に突撃を試みた者は、元軍の中に包み込まれ左右より取り囲まれて皆殺された[179]。元兵はよく奮戦した武士の遺体の腹を裂き、肝をとって食べ、また、射殺した軍馬も食べたという[179]。
『八幡愚童訓』は、この時の元軍の様子を「鎧が軽く、馬によく乗り、力強く、豪盛勇猛」で、「大将は高い所に上がって、退く時は逃鼓を打ち、攻める時は攻鼓を打ち、それに従って振舞った」としている[180]。また、退く時は「てつはう」を用いて、爆発した火焔によって追撃を妨害した[180]。「てつはう」は爆発時、轟音を発したため、肝を潰し討たれる者が多かったとしている[180]。また、武士が名乗りを上げての一騎討ちや少人数での先駆けを試みたため、集団で戦う元軍相手に駆け入った武士で一人として討ち取られない者はなかったとしている[180]。その中でも勇んで戦いに臨んだ松浦党の手勢は多くが討ち取られ、原田一類も沢田に追い込まれて全滅し、青屋勢二三百騎もほとんど討ち死にしたという[180]。肥後の御家人・竹崎季長や天草城主・大矢野種保兄弟は元軍船に攻めかかり、よく奮戦したものの、この所に至って形勢は不利となっていた[180]。また、肥前の御家人・白石通泰の手勢も同様に形勢は不利となっていった[180]。元軍は勝ちに乗じて今津、佐原、百道、赤坂まで乱入して、赤坂の松原の中に陣を布いた[180]。これほど形勢が不利になると思っていなかった武士たちは妻子眷属を隠しておかなかったために、妻子眷属らが数千人も元軍に捕らえられたという[180]。
元軍に戦を挑もうという武士が一人もいなくなった頃、肥後の御家人・菊池武房は手勢100騎を二手に分けて、元軍が陣を布く赤坂の松原の陣に襲撃をかけ散々に駆け散らしたが、菊池武房の手勢は多くが討ち取られて、菊池武房のみが討ちとられた死体の中から這い出して、討ち取った元兵の首を多数つけて帰陣した[181]。
大将の少弐景資を始め、大矢野種保兄弟、竹崎季長、白石通泰らが散々に防戦に努めたが、元軍は日本軍を破りに破り、佐原、筥崎、宇佐まで乱入したため、妻子や老人らが幾万人も元軍の捕虜となったという[182]。日本軍は太宰府手前の水城に篭って防戦しようと逃げ支度を始め、逃亡するものが続出する中、敗走する日本軍を追う左副都元帥・劉復亨と思われる人物を見止めた少弐景資が弓の名手である馬廻に命を下して劉復亨を射倒すなどして奮戦したものの[183][184]、結局、日本軍は博多・筥崎を放棄して内陸奥深くの水城へと敗走したとしている[182]。ところが10月21日の朝になると、元軍は博多湾から撤退し姿を消していたという[185]。
元軍の撤退理由については、日本軍が逃げ去った夕日過ぎ頃、八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが出火した筥崎宮より飛び出して、矢先を揃えて元軍に矢を射掛けた[186]。恐れ慄いた元軍は松原の陣を放棄し、海に逃げ出したところ、海から不可思議な火が燃え巡り、その中から八幡神を顕現したと思われる兵船2艘が突如現れて元軍に襲い掛かり元軍を皆討ち取り、たまたま沖に逃れた軍船は大風に吹きつけられて敗走した、としている[186]。
そして「もし、この時に日本の軍兵が一騎なりとも控えていたならば、八幡大菩薩の御戦とは言われずに、武士達が我が高名にて追い返したと申したはずだろう」としながら「元軍がひどく恐れ、あるいは潰れ、あるいは逃亡したのは、偏に神軍の威徳が厳重であったからで、思いがけないことがいよいよ顕然と顕われ給ったものだと、伏し拝み貴はない人はなかった」と結んでいる[187]。
『元史』による戦況
編集『元史』では、文永の役に関する記述は僅かにしか記載がない。
『元史』日本伝によると「冬十月、元軍は日本に入り、これを破った。しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境を虜掠して帰還した」[188] としている。
また、『元史』左副都元帥・劉復亨伝では「(劉復亨は)征東左副都元帥に遷り、軍4万、戦船900艘を統率し日本を征す。倭兵10万と遇い、これを戦い敗った」[10] とのみ記載し、劉復亨が戦闘で負傷し戦線を離脱していたことには触れていない。
『元史』右副都元帥・洪茶丘伝では「都元帥・クドゥン(忽敦)等と舟師2万を領し、日本を征す。対馬・壱岐・宜蛮(平戸島か)などの島を抜く」[189] とあり、文永の役における元軍の戦果を対馬、壱岐などの諸島を制圧し抜いたことのみを記しており、博多湾上陸以後の状況については触れられていない。
その他、『元史』世祖本紀では文永の役の元軍の軍容について「鳳州経略使・ヒンドゥ(忻都)、高麗軍民総管・洪茶丘等の将が屯田軍及び女直軍(女真族の軍)、并びに水軍、合せて15,000人、戦船大小合せて900艘をもって日本を征す」[13] と記している。
『高麗史』による戦況
編集『高麗史』金方慶伝によると、元軍は三郎浦に船を捨てて、道を分かれて多くの日本人を殺害しながら進軍した[190]。高麗軍三翼軍のうち都督使・金方慶直属の中軍が日本兵に衝かれるに至り、剣を左右に交えた白兵戦となったが、金方慶は少しも退かず、一本の矢を引き抜き厲声大喝すると、日本兵は辟易して逃げ出した[190]。高麗軍中軍諸将の朴之亮・金忻・趙卞・李唐公・金天禄・辛奕等が力戦し日本兵を大いに敗った。戦場には死体が麻の如く散っていた[190]。元軍の総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は「蒙古人は戦いに慣れているといえども、高麗軍中軍の働きに比べて何をもって加えることができるだろう」と高麗軍中軍の奮戦に感心した[190]。
その後、高麗軍は元軍諸軍と共に協力して日本軍と終日、激戦を展開した[175][191]。ところが、元軍は激戦により損害が激しく軍が疲弊し、左副都元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられた[175]。やがて、日が暮れたのを機に、戦闘を解した[175]。
元・高麗連合軍軍議と撤退
編集- 元・高麗連合軍軍議
- 『高麗史』金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍司令官である都督使・金方慶と元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)や右副都元帥・洪茶丘との間で、以下のようなやり取りがあった。
- 金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』[192] とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、我が軍は自ずから戦うことになる。これは秦の孟明視の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」
- クドゥン「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』[193] とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」[175][191]
- 元・高麗連合軍撤退
- このような議論があり、また左副都元帥・劉復亨が戦闘で負傷したこともあって、軍は撤退することになったという[175]。当時の艦船では、博多-高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1か月掛かることもあった(朝鮮通信使の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)。このような条件の下、元軍は夜間の撤退を強行し海上で暴風雨に遭遇したため、多くの軍船が崖に接触して沈没し、高麗軍左軍使・金侁が溺死するなど多くの被害を出した[175]。
- 『金剛集』によると、10月21日の午前6時頃に元軍は悉く博多湾から撤退した[20]。同書では元軍の撤退理由として、夜間に日本側に300余騎の軍勢が現れたことを撤退理由としている[20]。
- 元軍が慌てて撤退していった様子を、日本側の史料『金剛仏子叡尊感身学正記』は「十月五日、蒙古人が対馬に着く。二十日、博多に着き、即退散に畢わる」[194] と記している。
- 『安国論私抄』に記載されている両軍の戦闘による損害は、元軍の捕虜27人、首級39個、その他の元軍の損害を数知れずとする一方、すべての日本人の損害については戦死者195人、下郎は数を知れずとある[19]。また、『金剛集』によれば、両軍ともに戦闘による戦死者が多数あったという[20]。その他、元軍側では都元帥に次ぐ高級将校の管軍万戸・某が日本軍に投降している[4]。
- 元・高麗連合軍帰還と元側の評価
『呉文正集』によれば、後年、文永の役についてクビライとその重臣・劉宣の会話の中で「(文永の役にて)兵を率いて征伐しても、功を収められなかった。有用の兵を駆り立てて無用な土地を取ろうというのは、貴重な珠を用いて雀を射落とそうとするようなもので、すでに策を失っている」[196] と評しており、文永の役に対する元側の作戦失敗の認識が窺える。
- 『元史』には日本侵攻の困難性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」[197] とあり、軍議における戦況認識にあるように、日本側が大軍を擁しており、集団で四方より元軍に攻撃を仕掛けてくること、戦況が不利になった場合、渡海が困難なため元軍の下に援軍が直ちに到着できないことを日本侵攻の困難理由に挙げている。
- 『高麗史』表では「十月、金方慶、元の元帥のクドゥン(忽敦)・洪茶丘等と与(とも)に日本を攻める。壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は一萬三千五百餘人」[198] と文永の役を総評している。
- また、南宋遺臣の鄭思肖は文永の役・弘安の役を評し「まずクビライはシリバイ(失里伯)[199] を遣わし、高麗を経て倭を攻める。人船ともに海に墜ちる(文永の役)。辛巳(1281年)六月、韃兵(モンゴル兵)は明州を経て海を渉(わた)る。倭口に至るが、大風雨に遭い、人と船が海に墜ちる。再び大敗し、すなわち帰る(弘安の役)」[200] としている。
元・高麗連合軍撤退後の状況
編集『金剛集』によれば、元軍が撤退した後の志賀島に元軍船1艘が座礁し、乗船していた約130人の元兵が斬首又は捕虜となった[20]。『八幡愚童訓』の記述では、志賀島に座礁した兵船の大将は入水自殺し、他の元兵たちは武器を捨てて船から投降し生け捕られ、水木岸にて220人程が斬殺されたという[185]。また、『金剛集』によると、元軍船100艘余りが至るところに打ち寄せられており、元軍の杜肺子・白徳義・羡六郎・劉保兒の4名が捕虜となったという[201]。元軍船100余艘の漂倒は、『皇年代略記』によると10月30日に大宰府より京都へ報告された[202]。さらに『安国論私抄』によると、11月24日に聞いた情報として「蒙古の船破れて浦々に打ち挙がる」とし、座礁した船数は、確認できたものだけで、対馬1艘、壱岐130艘、小呂島2艘、志賀島2艘、宗像2艘、カラチシマ3艘、アクノ郡7艘であった[19]。
公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』によれば、乗船していた元軍が大風に遭う様子を伝聞として「賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、俄かに逆風(南風)が吹き来たり、本国に吹き帰った」[203] と記している。元軍の遭遇した大風については『薩摩旧記』にも、「神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、乗船が或いは海底に沈み、或いは浦に寄せられる」という記述がある[204]。また『歴代皇紀』では、10月20日に日本側の兵船300余艘が追撃したところ、沖合で漂流する元軍船200余艘を発見したことが記されており[11]、『安国論私抄』では、11月9日にユキノセという津に暴風雨により死んだと思しき元兵150人が漂着したという[19]。
元軍の捕虜については、『勘仲記』(11月6日条)に陸上に乗り上げた軍船に乗船していた元兵50余人が鎮西東方奉行・大友頼泰の手勢に捕えられ、京都に連行されてくるという伝聞を載せている[203]。
関東の鎌倉政権の下に元軍が対馬に襲来した知らせが届いたのは、日本側が防衛に成功し元軍が撤退した後であった。元軍撤退後に元軍の対馬襲来の知らせが関東に届いた理由は、大宰府と鎌倉間が飛脚でも早くて12日半ほどは掛かったためである[205]。『勘仲記』(10月29日条)によると、幕府では対馬での元軍が「興盛」である知らせを受けて、鎌倉から北条時定や北条時輔などを総司令官として元軍討伐に派遣するか議論があり、議論が未だ決していないという幕府の対応の伝聞を載せている[206]。
また、11月に入ってもなお未だ執権・北条時宗の下に元軍の博多湾上陸および撤退の報が伝わっていなかったため、時宗は元軍の本州上陸に備えて中国・九州の守護に対して国中の地頭・御家人ならびに本所・領家一円(公家や寺社の支配する荘園等)の住人で幕府と直接の御恩奉公関係にない武士階層(非御家人)を率いて、防御体制の構築を命じる動員令を発している[207][208][209]。このように幕府が元軍の襲来によって動員令を発したことで、それまでの本所・領家一円地への介入を極力回避してきた幕府の方針は転換され、本所・領家一円地への幕府の影響力は増大した[210]。
『帝王編年記』には鎮西からの戦勝の報が載っており、それによれば「去月(十月)二十日、蒙古と武士が合戦し、賊船一艘を取り、この賊船を留める。志賀島において、この賊船を押し留めて、その他の蒙古軍を追い返した」[211] と報じたという。また、『五檀法日記』にも同日の飛脚からの知らせが載っており「去月(十月)十九日と二十日に合戦があり、二十日に蒙古軍兵船は退散した」[212] と飛脚は報じたという。
幕府は戦勝の報に接すると論功行賞を行い、文永の役で功績のあった御家人120人余りに褒賞を与えた[213]。
元・高麗の損害・状況
編集文永の役で元軍が被った人的損害は13,500余人にも上った[198]。さらに人的被害だけでなく多くの衣甲・弓箭などの武具も棄てて失った[214]。僅かに収拾できた衣甲・弓箭は府庫に保管されたが、使用に堪られるものではなかった[214]。
また、文永の役において船舶・兵士・兵糧などを拠出した高麗は、国力を極度に悪化させ疲弊した。
高麗からクビライの下へ派遣された金方慶、印公秀は、その上表の中で、三別抄の乱を鎮圧するための大軍に多くの兵糧を費やしたこと、加えて民は日本征討(文永の役)によって損傷した船舶を修造するために、働きざかりの男たちはことごとく工役に赴き、日本征討に加わった兵士たちは、戦闘による負傷と帰還中の暴風雨により多くの負傷者・溺死者を出すなどしたために、今では耕作する者は僅かに老人と子供のみであること、さらに日照りと長雨が続いて稲は実らず民は木の実や草葉を採って飢えを凌ぐ者があるなど、「民の疲弊はこの時より甚だしい時はなかった」といった高麗の疲弊した様子を伝えている[215]。そして、再び日本征討の軍を挙げるならば、小邦(高麗)は船舶・兵糧などの拠出には耐えられないとクビライに訴えている[215]。
文永の役における神風
編集神風と元軍撤退理由
編集元軍は戦況を優位に進めた後、陸を捨てて船に引き揚げて一夜を明かそうとしたその夜に暴風雨を受けて日本側が勝利したという言説が教科書等に記載されている[216]が、通常、上陸作戦を決行した場合、まず橋頭堡を確保しなければならず、戦況を優位に進めながら陸地を放棄して、再び上陸作戦を決行するなどは戦術的に有り得ないとされる[217]。また、元側の史料『高麗史』の記載によると、元軍は日本軍との戦闘で苦戦を強いられたため軍議により撤退を決定し、日本からの撤退途上で暴風雨に遭遇したとなっている[175]。ただ、この撤退途上に元軍が遭遇した暴風雨については、気象学的には11月下旬には台風の渡来はなく、あったとしても単なる強風であった可能性が高いとされる[218]。
元軍が苦戦し撤退した様子は『高麗史』の記載の他、日本側の史料でも同様の記載が確認できる。文永の役当時の鎮西からもたらされた飛脚の報告が載っている日本側の史料『帝王編年記』によれば「去月(十月)二十日、蒙古と武士が合戦し、賊船一艘を取り、この賊船を留める。志賀島において、この賊船を押し留めて、その他の蒙古軍を追い返した」[211] と報じたとあり、同じく飛脚の報が載っている『五檀法日記』においても「去月(十月)十九日と二十日に合戦があり、二十日に蒙古軍兵船は退散した」[212] とあり、交戦した武士らが中央政権に対して軍事的に元軍を撃退したことを報告している。また、他の史料と日にちに差異はあるが『関東評定衆伝』でも「(文永十一年)十月五日、蒙古異賊が対馬に攻め寄せ来着。少弐資能代官・藤馬允(宗資国)を討つ。同24日、大宰府に攻め寄せ来たり官軍(日本軍)と合戦し、異賊(元軍)は敗北した」[219] と明確に日本軍の勝利と元軍の敗北が確認できる。
鎌倉期の神風観
編集文永の役において元軍は神風で壊滅し日本側が勝利したという言説が流布した背景として、当時の日本国内では元寇を日本の神と異賊の争いと見る観念が共有されており、神社や寺による折伏・祈祷や歌詠みは日本の神の力を強める(天人相関思想)と信心されていた。そのため、元軍を撃退できた要因は折伏・祈祷による神力・神風であると神社等は宣伝し、幕府に対して恩賞を求めた。
例えば、公家の広橋兼仲は、その日記『勘仲記』の中で「逆風の事は、神明のご加護」[203] と神に感謝している。また、1276年(建治2年・至元13年)の官宣旨の文言の中にも「蒙古の凶賊等が鎮西に来着し合戦をしたのだが、神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、船を棄て或いは海底に沈み、或いは入江や浦に寄せられた。これは即ち霊神の征伐、観音の加護に違いない」[204] とあり、当時から元軍を襲った暴風雨を神風とする認識が存在していたことが窺える。
また、敵国調伏や加持祈祷によって日本の神や仏も戦闘に動員され元軍を撃退できたとする観念は、各社による「神々による軍忠状」という形で現れ、戦後も幕府に対して各社による恩賞の要求も激しかった[220]。元寇における神々の活躍例を挙げると以下のようなものが見受けられる。
寺社縁起『八幡愚童訓』によると、日本軍が水城へ敗走した後、松原に陣を布く元軍に八幡神の化身30人ほどが矢を射掛け、恐れ慄いた元軍は海に逃げ、さらに海から炎が燃え巡り、その中から現れた八幡神を顕現したと思われる兵船2艘が突如現れて元軍を皆討ちとり、辛うじて沖に逃れた者には大風が吹き付けられて元軍は敗走したという[186]。同様の話は『一代要記』にもあり、大宰府軍(日本軍)が敗北した後、神威を顕現したと思われる兵船2艘が現れて元軍と戦い、これを退散させたとしている[221]。
また、肥前国武雄社では、戦後の論功行賞から漏れたため、幕府に以下のように文永・弘安の役における勲功を訴えている。『武雄神社文書』によれば、文永の役の際の10月20日の夜、武雄社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、結果、元軍は逃げていったとしており、また、弘安の役に際しても、上宮から紫の幡(のぼり)が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたという[222]。
幕府は、こういった各社による軍忠状に対して神領興行令と呼ばれる徳政令を各社に対して3度も発布し、恩賞に当てた[223]。
戦前・戦後の神風観
編集1910年(明治43年)の『尋常小学日本歴史』に初めて文永の役の記述が登場して以来、戦前の教科書における文永の役の記述は、武士の奮戦により元軍を撃退したことが記載されており、大風の記述はなかった[224]。しかしその後、第二次世界大戦が勃発し日本の戦局が悪化する中での1943年(昭和18年)の国定教科書において、国民の国防意識を高めるために大風の記述が初めて登場した。それ以来、戦後初の教科書である『くにのあゆみ』以降も大風の記述は継承され、代わって武士の奮戦の記述が削除されることとなる[224]。
戦後の教科書において、文永の役における武士の奮戦の記述が削除された背景としては、執筆者の間で武士道を軍国主義と結び付ける風潮があり、何らかの政治的指示があったためか執筆者が過剰に自粛したのではないかとの見解がある[224]。また、戦時中や現代の教科書においても文永の役において元軍は神風で壊滅したという言説が依然として改められなかった背景としては、戦時中は「神国思想の原点」ゆえに批判が憚られたことによるという見解がある[225]。この観念は戦時中の神風特別攻撃隊などにまで到ったとされる。戦後は敗戦により日本の軍事的勝利をためらう風潮が生まれたことにより、文永の役における日本の勝因を自然現象ゆえによるものであるという傾向で収まってしまったのではないかとの見解がある[225]。
また、文永の役は大風で勝利したという戦後の常識は、寺社縁起『八幡愚童訓』における記述がベースになっているといわれている[226]。
第二次日本侵攻までの経緯
編集第一次高麗征伐計画
編集元・高麗連合軍の侵攻を撃退した鎌倉幕府は、高麗へ侵攻して逆襲することを計画した[227][228][229]。高麗出兵計画は再度の元の襲来に備えるための石築地(元寇防塁)の築造と同時に進められ、高麗出兵に動員される者を除いた鎮西の者が石築地の築造に当たることになっていた[230]。
幕府は1276年(建治2年・至元13年)3月に高麗出兵を行うことを明言し、少弐経資が中心となって鎮西諸国などに動員令を掛けて博多に軍勢や船舶を集結させた[231]。
船の漕ぎ手である梶取(かんどり)や水手(かこ)は鎮西諸国を中心に召集され、不足の場合は山陰・山陽・南海各道からも召集するよう御家人に命じた[231]。幕府は動員催促した武士に水手、梶取りなどの年齢や動員数、兵具、船数などを注進させ、逃亡者には厳罰を科すなどして着々と出兵準備を進めたが[232][233][234][235][236][237]、突然出兵計画は中止となった。詳細は不明ながら、同時に進められていた石築地の築造に多大な費用と人員を要したことと、兵船の不備不足などの理由により計画は実行されなかったとされる[238]。
幕府は異国警固番役を強化し、引き続き九州の御家人に元軍の再襲来に備えて九州沿岸の警固に当たらせた[239]。異国警固番役は3か月交代で春夏秋冬で分け、春は筑前・肥後国、夏は肥前・豊前国、秋は豊後・筑後国、冬は日向・大隅・薩摩国といった九州の御家人が異国警固番役を担当した[239]。
第七回使節
編集- 1275年(建治元年・至元12年)2月、クビライは日本再侵攻の準備を進めるとともに日本を服属させるため、モンゴル人の礼部侍郎・杜世忠を正使、唐人の兵部侍郎・何文著を副使とする使節団を派遣した[240][241]。通訳には高麗人の徐賛、その他にウイグル人の刑議官・チェドゥ・ウッディーン(徹都魯丁)、果の3名が同行した[240][241]。
使節団は長門国室津に来着するが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に連行すると、龍ノ口刑場(江ノ島付近)において、杜世忠以下5名を斬首に処した[241]。
これは使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる。斬首に処される際、杜世忠は以下のような辞世の句を残している。
- 「出門妻子贈寒衣 問我西行幾日歸 來時儻佩黃金印 莫見蘇秦不下機」[241]
- 「門を出ずるに妻子は寒衣を贈りたり、我に問う西に行き幾日にして帰ると、来たる時もし黄金の印を佩びたれば、蘇秦(中国戦国時代の弁論家)を見て機を下らざるなかりしを」[241]
- (家の門を出る際に私の妻子は、寒さを凌ぐ衣服を贈ってくれた。そして私に西に出かけて何日ほどで帰ってくるのかと問う。私が帰宅した時に、使節の目的を達して、もし(恩賞として)黄金の印綬を帯びていたならば、蘇秦の妻でさえ機織りの手を休めて出迎えたであろう)[242]
第二次日本侵攻計画(1275年〜)
編集一方でクビライは使節派遣と並行して、再び日本侵攻の準備に取り掛かった。
- 1275年(建治元年・至元12年)9月、クビライは、高麗から直ちに日本へ渡ることができる航路があることを知ると、元使を高麗へ派遣して調査させた[243]。
- 同年10月、再度の日本侵攻計画のために、高麗において戦艦の修造を開始[244]。
- 同年11月、文永の役で多くの矢を喪失していたため、高麗の慶尚道・全羅道の民に矢の羽や鏃の増産に取り掛からせた[245]。
クビライは南宋攻略を断行している真っ只中、再度の日本侵攻を計画し、その是非を重臣・王磐に尋ねた。王磐は以下のように返答したという。
- 王磐「今まさに南宋を討ち、我らは全力を用い、一挙にこれ(南宋)をとるべきです。もし、また東夷(日本)に兵力を分ければ、無駄に月日を費やす恐れがあり、結局、功は成り難くなります。南宋が滅ぶのを待って、やがてこれ(日本侵攻)を考えるも未だ遅くはないでしょう」[246]
同月、南宋の第7代皇帝・恭帝は元に降伏し、南宋の首都・臨安を無血開城する。これにより事実上、南宋は滅亡した。なお、張世傑・陸秀夫ら一部の者は第8代皇帝・端宗や第9代皇帝・祥興帝を擁して、1279年(弘安2年・至元16年)まで元に抵抗を続けた。
同年、南宋を滅ぼしたクビライは早速、日本侵攻の是非を南宋の旧臣らに尋ねた。これに対して、南宋の旧臣・范文虎、夏貴、呂文煥、陳奕らは皆「伐つべし」と答えたという[248]。しかし、クビライの重臣・耶律希亮は以下のように反対した。
クビライは南宋の旧臣らの進言を退けて、耶律希亮の意見を採用した。こうして、日本侵攻計画は当分の間、延期された[248]。
第八回使節
編集耶律希亮の進言により、日本侵攻計画が延期されてから3年が経過した1279年(弘安2年・至元16年)、再びクビライは日本侵攻を計画する。
南宋の旧臣・范文虎は、ひとまず日本へ再び使節を派遣して、もう一度、日本が従うか否かを見極めてから出兵することを提案したため、クビライはその提案を受け入れた[249]。こうして、杜世忠ら使節団が斬首に処されたことを知らないまま、周福、欒忠を元使として、渡宋していた日本僧・暁房霊杲、通訳・陳光ら使節団を再度日本へ派遣した[250]。
今回の使節団は南宋の旧臣という范文虎の立場を利用して、日本と友好関係にあった南宋の旧臣から日本に元への服属を勧めるという形をとった[251]。
大宋國牒状として日本側に手渡された牒状の内容は「宋朝(南宋)はすでに蒙古に討ち取られ、(次は)日本も危うい。よって宋朝(南宋)自ら日本に(元に服属するよう)告知」する内容であった[252]。
第二次日本侵攻計画(1279年〜)
編集クビライは杜世忠ら使節団の帰還を待つ一方、出兵準備を開始する。
- 1279年(弘安2年・至元16年)2月、クビライは揚州、湖南、贛州、泉州四省において日本侵攻用の戦艦600艘の造船を命じる[253]。そのうち、200艘の建造をアラブ系イスラム教徒である色目人・蒲寿庚に命じた[254]。
- 同年5月、さらにクビライは済州島から軍船建造の木材3,000隻分を供出させるとともに[255]、6月には900艘の造船を高麗に命じた[40]。
しかし、建造は思うようには進まず、200艘の建造を命じられた蒲寿庚はクビライに「海船を200艘造るよう詔がありましたが、いま完成している船は50艘です。民は実に艱苦しています」と造船により民が疲弊していることを上奏した[254]。これを受けて、クビライは蒲寿庚に命じた200艘の建造を中止させている[254]。
このように造船により江南地方の民が疲弊する中、クビライの日本侵攻を諫言する者が相次いだ。賈居貞は民の疲弊が乱を招くことを危惧して、クビライに日本侵攻を止めるよう諫言したが、聞き入れられなかった[256]。徐世隆もクビライに対して、丁寧に日本侵攻を諫めたが同様であった[257]。
重臣のアンギル(昂吉児)もまた以下のようにクビライに諫言した。
- 昂吉児「臣(昂吉児)、軍兵は士気を主と為すと聞きます。上下が同じものを欲すれば勝つのです。しかしこの者ら(日本侵攻軍)は連年の外夷への外征に使役し、しばしば出血を強いており、ここで士気のことを考えなければ、天下は騒然とし、一たび徴発を行えば、上下は怨むでしょう。それは同じ欲する所を考えてはいないからです。兵を止め、民を休ませてください」[258]
しかし、アンギル(昂吉児)の諫言もまたクビライに聞き入れられることはなかった[258]。老臣の王磐も賈居貞、アンギル(昂吉児)とは違った立場で以下のように諫言した。
この諫言に対してクビライは激怒したが、国を憂う王磐の気持ちを汲み取り、翌日には王磐の下に遣いをやり慰撫したという[259]。
- 同年8月、逃げ出した水夫より杜世忠らの処刑が高麗に報じられ、高麗はただちにクビライへ報告の使者を派遣した[260]。元に使節団の処刑が伝わると、東征都元帥であるヒンドゥ(忻都)・洪茶丘はただちに自ら兵を率いて日本へ出兵する事を願い出たが、朝廷における評定の結果、下手に動かずにしばらく様子を見ることとなった[261]。
- 1280年(弘安3年・至元17年)頃、クビライは日本侵攻軍の司令部・日本行省(征東行省)を設置する[262]。
- 1281年(弘安4年・至元18年)2月、クビライは侵攻に先立って首都・大都に日本侵攻軍の司令官であるアラカン(阿剌罕)、范文虎、ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘ら諸将を召集し以下のように演説した。
- クビライ「そもそもの始めは、彼の国(日本)の使者が来たことにより、こちらの朝廷からもまた使者を遣わし往かしたのだ。しかし、彼の方では我が使者を留めて還さなかった。ゆえに卿らをして、此のたびの遠征を行わせることとした。朕が漢人から言を聞いたところ『人の家国を取るのは、百姓と土地を得たいがためである』と。もし、日本の百姓を尽く殺せば、いたずらに土地を得ても、日本の土地は何に用い得ようか。また、もう一つ朕が実に憂えていることがある。それは、卿らが仲良く協力しないことのみを恐れているのだ。仮にもし彼の国人が卿らのもとに至って、卿らと協議することがあるならば、まさに心を合わせ考えをそろえて、回答が一つの口から出るように答えるようにせよ」[263]
無学祖元による進言
編集1281年(弘安4年・至元18年)、弘安の役の一月前に元軍の再来を予知した南宋からの渡来僧・無学祖元は、北条時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与え[264]、さらに「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた[264]。これはのち「驀直前進」(ばくちょくぜんしん)という故事成語になった。無学祖元によれば、時宗は禅の大悟によって精神を支えたといわれる[264]。なお無学祖元はまだ南宋温州の能仁寺にいた頃の1275年に元軍が同地に侵入し包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる[264]。
弘安の役
編集1281年(弘安4年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、3軍の合計、約140,000~156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった[48]。 なお、『元史』阿剌罕伝によると、モンゴル人を主力とした蒙古軍約400,000人が動員されたとしている[32]。
元の官吏・王惲は、この日本侵攻軍の威勢を「隋・唐以来、出師の盛なること、未だこれを見ざるなり」[265] とその記事『汎海小録』の中で評している。
また、高麗人の定慧寺の禅僧・冲止は、東路軍の威容を前にして以下のような漢詩を詠み、クビライと東路軍を讃えた。
- 「皇帝(クビライ)が天下を統御するに、功績は堯(中国神話の君主)を超えた。徳は寛大で断折を包容し、広い恩沢は隅々にまで及んだ。車は千途の轍と共にし、書は天下の文章と共にした。ただ醜い島夷(日本)だけが残り、鼎魚のように群れをなして生きていた。ただ大海を隔てていることを頼りにして、(元と)領域を分けることを図った。日本は苞茅(朝貢)にかつて入ったことがなく、班瑞(朝貢)もまた聞いたことがない。そこで帝がこれに怒って、時に我が君(忠烈王)に命じた。千隻の龍鵲(軍艦か)の船と10万の勇敢な軍兵で扶桑(日本)の野において罪を問い、合浦の水辺で軍を興した。鼓声が大海に鳴り響き、旗は長い雲を揺さぶった」[266]
さらに、冲止は元軍の戦勝と戦勝後の天下太平の世を想像し、以下のように詠んでいる。
- 「元軍は一瞬のうちに日本軍の軍営を打ち破り、勝報は朝夕のうちに伝わるだろう。玉帛で修貢を争い、戦争で紛争を解決する。元帥は宝玉と酒器を賜わり、兵卒は田畑へ帰れるだろう。三尺の快剣は剣箱に、百斤の良弓は弓嚢に。四方に歌声が響き、世相の音楽に満ち溢れる。辺境の警備で、戦争を告げる狼煙が収まり、辺方に風塵(騒乱)の気が絶たれるのだ。聖なる天子(クビライ)を拝見し、万歳まで南薫太平歌を奏でよう」[266]
また、江南軍について、弘安の役の後にクビライの重臣・劉宣は「南方の新附の旧軍(江南軍)は、十余年の間に老い病んで逃亡し出征で傷つき、それまでの精鋭軍は海東の日本で敗北し、(弘安の役の後に)新たに招集された軍兵はみな武芸や戦争に慣れていないものばかり、これでは敵(日本)を制圧しようとしてもきっと失敗に帰すだろう」[267] と述べており、弘安の役の江南軍については精鋭軍という元側の認識があり、これを失ったために新たな軍勢で日本征服するのは難しいと述べている。
東路軍と江南軍は6月15日までに壱岐島で合流し両軍で大宰府を攻める計画を立てていた[268][269]。 まず先に東路軍が出発した。
東路軍の出航
編集- 5月3日、東征都元帥・ヒンドゥ(忻都)・洪茶丘率いるモンゴル人、漢人などから成る蒙古・漢軍30,000人と征日本都元帥・金方慶率いる高麗軍約10,000人(実数9,960人)の東路軍900艘が、高麗国王・忠烈王の閲兵を受けた後、朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出航[270][271]。
対馬侵攻
編集壱岐侵攻
編集- 5月26日、東路軍は壱岐に襲来。なお、東路軍は壱岐の忽魯勿塔に向かう途中、暴風雨に遭遇し兵士113人、水夫36人の行方不明者を出すという事態に遭遇している[274]。
長門襲来
編集広橋兼仲の日記『勘仲記』(6月14日条)によると、東路軍の軍船と思われる軍船300が山陽道の長門の浦に来着したことが大宰府からの飛脚によって京都に伝えられたことを記載している[275]。また、壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(6月15日条)にも「異國賊船襲来長門」[276] とあり、長門に元軍が現れたことが確認できるが、長門襲来の実態に関しては史料が少なく不明な点が多い。
博多湾進入
編集東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した[277]。
対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし日本側はすでに防衛体制を整えて博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いており、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。日本軍の中には伊予の御家人・河野通有など、武勇を示すために石築地を背に陣を張って東路軍を迎え撃った者さえもいた。後に河野通有は「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ称賛された[278]。
この石築地は、最も頑強な部分で高さ3m、幅2m以上ともされており、日本側が守備する内陸方面からは騎乗しながら駆け上がれるように土を盛っており、元軍側の浜辺方面には乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)などの上陸妨害物を設置していた[278]。『予章記』によれば、海上から見た博多湾は「危峰の江に臨むが如し」[278] 外観であったという。
志賀島の戦い
編集
東路軍の管軍上百戸・張成の墓碑によると、この日の夜半、日本軍の一部の武士たちが東路軍の軍船に夜襲を行い、張成らは軍船から応戦した[280]。やがて夜が明けると日本軍は引き揚げていった[280]。
海の中道を通って陸路から東路軍に攻めいった日本軍に対して、張成らは弩兵を率いて軍船から降りて応戦[280]。志賀島の東路軍は日本軍に300人ほどの損害を与えたが、日本軍の攻勢に抗しきれず潰走する[281][282]。東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘は馬を捨てて敗走していたが、日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれた[282]。しかし、管軍万戸の王某の軍勢が洪茶丘を追撃していた日本軍の側面に攻撃を仕掛け、日本兵を50人ほど討ち取ったため追撃していた日本軍は退き、洪茶丘は僅かに逃れることができたという[282]。
海路から東路軍を攻撃した伊予の御家人・河野通有は元兵の石弓によって負傷しながらも太刀を持って元軍船に斬り込み、元軍将校を生け捕るという手柄を立てた[286]。また、海上からの攻撃には肥後の御家人・竹崎季長[283] や肥前御家人の福田兼重・福田兼光父子らも参加し活躍した[285]。
この志賀島の戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにした。
東路軍軍議
編集ところが壱岐島の東路軍は連戦の戦況不利に加えて、江南軍が壱岐島で合流する期限である6月15日を過ぎても現れず[268]、さらに東路軍内で疫病が蔓延して3,000余人もの死者を出すなどして進退極まった[287]。
高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、この時の東路軍の様子を「暑さと不潔な空気が人々を燻(いぶ)し、海上を満たした(元兵の)屍は怨恨の塊と化す」[288] と漢詩に詠んでいる。
この時の高麗軍司令官の征日本軍万戸・金周鼎の墓碑『金周鼎墓誌銘』によると、東路軍内では、互いに助け合うこともできないほど疲弊していたが、その中で金周鼎は病人を率先して保護したという[289]。また、『金方慶墓誌銘』によれば、疫病が蔓延し、東路軍はこれ以上の日本軍との連戦を続行するのは難しい状況であったという[290]。東路軍の中では、撤退すべきとの声も上がった[290]。
このような状況に至り、戦況の不利を悟った東路軍司令官である東征都元帥・ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘らは撤退の是非について征日本都元帥・金方慶と以下のように何度か議論した。
- ヒンドゥ、洪茶丘「皇帝(クビライ)の命令では『江南軍をして、東路軍と必ず6月15日までに壱岐島に合流させよ』とおっしゃった。未だに江南軍は壱岐島に到着していない。我が軍(東路軍)は、先に日本に到着して数戦し、船は腐れ兵糧は尽きた。このような事態に到って、いったいどうしたものだ」
この時、金方慶は黙ったまま反論しなかった。10日余り後、同じような議論が繰り返された時、今度は以下のように反論した。
- 金方慶「皇帝の命令を奉じて、3か月の兵糧を用意した。今、後1か月の兵糧が尚ある。江南軍が来るのを待って、両軍合わせて攻めれば、必ず日本軍を滅ぼすことができるだろう」
ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘は敢えて反論せず、江南軍を待ってから反撃に出るという金方慶の主張が通った[268]。
江南軍の出航
編集- 江南軍の作戦計画
一方、江南軍は、当初の作戦計画と異なって東路軍が待つ壱岐島を目指さず、平戸島を目指した[33]。江南軍が平戸島を目指した理由は、嵐で元朝領内に遭難した日本の船の船頭に地図を描かせたところ、平戸島が大宰府に近く周囲が海で囲まれ、軍船を停泊させるのに便利であり、かつ日本軍が防備を固めておらず、ここから東路軍と合流して大宰府目指して攻め込むと有利という情報を得ていたためである[291]。
- 江南軍の出航
6月中旬頃、元軍総司令官の日本行省左丞相・アラカン(阿剌罕)と同右丞・范文虎、同左丞・李庭率いる江南軍は、総司令官のアラカン(阿剌罕)が病気のため総司令官をアタカイ(阿塔海)に交代したこともあり[292][293][294]、東路軍より遅れて慶元(明州)・定海等から出航した[33]。
総司令官のアタカイ(阿塔海)は乗船し渡航した気配がないため、実質の江南軍総司令官は右丞・范文虎であったとみられる[33][37][41]。江南軍の先鋒部隊は寿春副万戸・呉安民が務めた[295]。
江南軍の航路については、直接、江南地方から平戸島に向かった部隊とは別に、江南地方から出航後、邢タルグタイ(邢答剌忽台)の部隊のように朝鮮半島西南の済州島を経て平戸島に向かった部隊もあった[296]。
- 江南軍の出航時期について
江南軍の正確な出航時期は不明。唯一確認できるのは管軍万戸・ギラダイ(吉剌歹)率いる軍船が6月18日に出航したことが分かるのみである。ギラダイ(吉剌歹)率いる軍船が6月18日に江南軍全軍と共に出航したかは明らかではない[297]。
- 江南軍の先遣部隊
先立って江南軍は、東路軍に向けて平戸島沖での合流を促す先遣隊を派遣し、壱岐島で先遣隊が東路軍と合流した[33]。 江南軍の先遣隊かは不明であるが、広橋兼仲の日記『勘仲記』(6月24日条)によると対馬に宋朝船(南宋型の船)300余艘が現れたことが伝聞として記載されている[298]。また、壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(6月27日条)にも「異國又襲来」とあり、詳細は不明ながら元軍と日本軍との間で合戦があったという早馬による報告があったことが記されている[299]。
- 江南軍の平戸島・鷹島到着
6月下旬、慶元(明州)・定海等から出航した江南軍主力は7昼夜かけて平戸島と鷹島に到着した[27][44]。
平戸島に上陸した都元帥・張禧率いる4,000人の軍勢は塁を築き陣地を構築して日本軍の襲来に備えると共に、艦船を風浪に備えて五十歩の間隔で平戸島周辺に停泊させた[300]。
壱岐島の戦い
編集この戦闘で薩摩の御家人・島津長久や比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄や舩原三郎らが奮戦し活躍した[302][303]。山代栄はこの時の活躍により、肥前守護・北条時定から書下を与えられている[304]。
- 7月2日、肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。瀬戸浦において東路軍と激戦が展開された。
龍造寺家清率いる龍造寺氏は、一門の龍造寺季時が戦死するなど損害を被りながらも、瀬戸浦の戦いにおいて奮戦[305]。龍造寺家清は、その功績により肥前守護・北条時定から書下を与えられた[306]。一方、東路軍の管軍上百戸・張成を称える墓碑文にも6月29日と7月2日に壱岐島に日本軍が攻め寄せ、張成ら東路軍が奮戦した様子が記されている[307]。
壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した知らせに接したことにより壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、前の鎮西奉行・少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、少弐経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上において戦死するなどの損害を出している[308]。
京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(7月12日条)によると、壱岐島の戦いにより(元軍が壱岐島を放棄したため)元軍が退散し撤退したという風聞が日本側にあったことが確認できる[309]。
東路軍・江南軍合流
編集- 7月中旬[310]-7月27日[311]、平戸島周辺に停泊していた江南軍は、平戸島を都元帥・張禧の軍勢4,000人に守らせ[300]、続いて鷹島へと主力を移動させた[47]。新たな計画である「平戸島で合流し、大宰府目指して進撃する」計画[291] を実行に移すための行動と思われる。
- 東路軍が鷹島に到着し、江南軍と合流が完了する[44]。
壱岐島の戦いにより元軍が撤退したという風聞に接していた京都の官務・壬生顕衡は、その日記『弘安四年日記抄』で、元軍が平戸島方面から再度襲来したという飛脚の情報に接して「怖畏無きに非ざるか、返す返すも驚き」[312] と恐怖と驚きの念をもって日記を記している。
鷹島沖海戦
編集この鷹島沖海戦については日本側に史料は残っておらず、戦闘の詳細については詳らかではない。元軍はこれまでの戦闘により招討使・クトカス(忽都哈思)が戦死するなどの損害を出していた[28]。そのためか、元軍は合流して計画通り大宰府目指して進撃しようとしていたものの、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を停止した[44]。また『張氏墓誌銘』によると、鷹島は潮の満ち引きが激しく軍船が進むことができない状況だったという[27]。鷹島に留まった元軍は、鷹島に駐兵して土城を築くなどして塁を築いて日本軍の鷹島上陸に備えた[310]。また、元軍艦船隊は船を縛って砦と成し、これを池州総把・マハマド(馬馬)に守備させた[27]。
一方、日本側は六波羅探題から派遣された後の引付衆・宇都宮貞綱率いる60,000余騎ともいわれる大軍が北九州の戦場に向けて進撃中であった。なお、この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃には、元軍は壊滅していたため戦闘には間に合わなかった[31][313]。
さらに幕府は、同年6月28日には九州および中国地方の因幡、伯耆、出雲、石見の4か国における、幕府の権限の直接及ばない荘園領主が治める荘園の年貢を兵粮米として徴収することを朝廷に申し入れ、さらなる戦時動員体制を敷いた[314]。
台風
編集東路軍が日本を目指して出航してから約3か月、博多湾に侵入して戦闘が始まってから約2か月後のことであった。なお、北九州に上陸する台風は平年3.2回ほどであり、約3か月もの間、海上に停滞していた元軍にとっては、偶発的な台風ではなかった[316]。
- 元軍の損害状況
『張氏墓誌銘』によれば、台風により荒れた波の様子は「山の如し」であったといい、軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという[27]。また、元朝の文人・周密の『癸辛雑識』によると、元軍の軍船は、台風により艦船同士が衝突し砕け、約4,000隻の軍船のうち残存艦船は200隻であったという[317]。
ただし、後述のように、江淮戦艦数百艘や諸将によっては台風の被害を免れており、また、東路軍の高麗船900艘の台風による損害も軽微であったことから『癸辛雑識』の残存艦船200隻というのは誇張である可能性もある。
- 元軍諸将等の状況
『元史』等の史料には台風を受けた元軍の将校たちの様子が以下のように記されている。
江南軍の日本行省左丞・李庭は台風により自身の乗船する軍船が沈没し、壊れた船体の破片に掴まりながらも、岸に辿り着いた[42]。江南軍の1千余人の兵を率いた管軍総管・楚鼎も船が壊れ、三昼夜漂流した末に江南軍総司令官の右丞・范文虎と合流している[318]。 池州総把・マハマド(馬馬)の妻・張氏は、モンゴル軍の通例として夫に従軍していたが[319]、台風の際、マハマド(馬馬)が軍務に服している中、一人船中にあって夫の総把印を守り、決して逃げ出さず、船が壊れることになって、折れたマストにしがみついて岸に達することができたという[320]。
将校の中には実際に溺死した者もいた。大元に人質に出されていた高麗国王・高宗の息子の王綧の子で東路軍の左副都元帥・アラテムル(阿剌帖木児)は台風を受けて溺死している[3]。
また、『金周鼎墓誌銘』によると、東路軍の征日本軍万戸・金周鼎は、漂流する兵ら400人余りを救助するなどしたため、兵らは益々、金周鼎の下に附して帰還したという[289]。
- 江南軍における被害を免れた部隊
范文虎や李庭率いる軍船が大損害を被ったのとは対照的に、一方で台風の被害を受けなかった部隊もあった。
平戸島に在陣していた江南軍の都元帥・張禧の軍勢は、艦船同士距離を空けて停泊させるなど風浪対策を施していたため、被害を受けなかった[300]。また、『元史』嚢加歹伝によると江南軍の都元帥・ナンギャダイ(嚢加歹)率いる戦艦群は、「未だ至らずして帰った」とだけあり台風の被害は確認されない[321]。東路軍の管軍万戸・イェスデル(也速䚟児)率いる江淮戦艦数百艘も台風の被害を受けず、後に全軍撤退した。イェスデル(也速䚟児)は、その功績により帰還後、クビライから恩賞を与えられている[322][323]。
このように諸将によって台風の被害が異なることから、約4,400艘の大船団は平戸島・鷹島周辺だけでなく、海域広く散開していたものと思われる。
- 東路軍の損害状況
東路軍も台風により損害を受けたが、江南軍に比べると損害は軽微であった[36][43]。
その理由を弘安の役から11年後の第三次日本侵攻の是非に関する評議の際、中書省右丞の丁なる者が、クビライに対して「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。これは(第二次日本侵攻の)利を失する所以である。高麗をして船を造らせて、再び日本に遠征し、日本を取ることがよろしい」[324] と発言しており、高麗で造船された軍船に比べて、江南船は脆弱であったとしている。また、元朝の官吏・王惲もまた「唯だ句麗(高麗)の船は堅く全きを得、遂に師(軍)を西還す」[325] と述べており、高麗船が頑丈だったことが分かる。それを裏付けるように、捕虜、戦死、病死、溺死を除く高麗兵と東路軍水夫の生還者は7割を超えていた[36]。
なお、考古学においても、多くの元軍船が沈んだ鷹島沖海底で見つかっている陶磁器などの元軍の遺物は、ほとんどが江南地方で作られていたことが判明しており、高麗産の遺物は発見されておらず、高麗船が頑丈だったとする諸史料を裏付けている[326]。
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元軍の弩
松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 -
元軍の矢束
松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵
元軍軍議と撤退
編集- 張禧「士卒の溺死する者は半ばに及んでいます。死を免れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう」
- 范文虎「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるまい」[300]
このような議論の末、結局は范文虎の主張が通り、元軍は撤退することになったという。張禧は軍船を失っていた范文虎に頑丈な船を与えて撤退させることにした[300]。その他の諸将も頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒10余万を見捨てて逃亡した[47][327]。平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬70頭を降ろして、これを平戸島に棄てるとその軍勢4,000人を軍船に収容して帰還した。帰朝後、范文虎等は敗戦により罰せられたが、張禧は部下の将兵を見捨てなかったことから罰せられることはなかった[300]。
この時の元軍諸将の逃亡の様子を『蒙古襲来絵詞』の閏7月5日の記事の肥前国御家人・某の言葉の中に「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」[327] とある。
なお、元軍のうち、宋王朝の皇室の子孫[328] で夫の楊将軍の日本侵攻に従軍していた趙時妙の墓碑によると、趙時妙は台風により夫と離れ離れとなった[329]。そのため、趙時妙は東西不明となり船で彷徨っていたが、目前に青い鳥が現れ、前を導いたため、これについていくと、7日を経て東呉(江南地方)に至り帰還できたという[329]。
御厨海上合戦
編集- 閏7月5日、日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始。
午後6時頃、御厨(みくりや)海上において肥後の御家人・竹崎季長らが元軍の軍船に攻撃を仕掛け[330]、筑後の地頭・香西度景らは元軍の軍船3艘の内の大船1艘を追い掛け乗り移って元兵の首を挙げ、香西度景の舎弟・香西広度は元兵との格闘の末に元兵と共に海中に没した[331]。また、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門も御厨の千崎において元軍の軍船に乗り移って、負傷しながらも元兵一人を生け捕り、元兵一人の首を取るなどして奮戦した[332]。
日本軍は、この御厨海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃した。
弘安4年閏7月5日の「御厨海上合戦」については、長く伊万里湾合戦=肥前国鷹島合戦とされてきて、疑われることがなかった。しかし竹崎季長ら博多湾岸にいた武士は、閏7月5日払暁=夜明けに関東御使合田遠俊・安東重綱らと軍議し、その昼に博多湾・生の松原を行進し、船に乗った。合戦は閏7月5日酉の刻(夕方6時)で、肥後・筑前・薩摩国御家人らが戦った。そして翌6日払暁=夜明けに季長らは御使合田の仮館にて合戦の成果を報告した。生の松原から伊万里湾までの140キロ以上をわずか1日で船で往復して、合戦することはあり得ない。博多湾上に浮かぶ能古島も志賀島も御厨(権門に海産物を貢上する庄園)であったから、合戦場である「御厨海上」とは博多湾を指し、攻撃目標は5月下旬以来、志賀島を拠点としていた東路軍(高麗・旧北宋軍・蒙古軍)となる。伊万里湾・鷹島で合戦が行われたのは2日後の閏7月7日で、肥前国・豊後国・薩摩国(一部)らの御家人が鷹島を拠点としていた江南軍(旧南宋軍)と戦い、勝利した。一部の連絡隊を除けば、東路軍が志賀島を放棄して、鷹島に向かったことはなく、志賀島を対大宰府の重要拠点として死守しながら、江南軍の到着を待ち続けていた。[333] [334] [335]
鷹島掃討戦
編集御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍10余万と鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した[336]。一方、台風の後、鷹島には日本軍の襲来に備えて塁を築いて防備を固めた元軍の兵士10余万が籠っていたが、 台風の襲来で既に大損害を被っていたため諸将らは、軍議を開き最終的に撤退に決する。諸将は損傷していない船から兵卒を無理矢理下ろすと、乗船して兵卒を見捨て本国へと逃走した。その後鷹島では管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退することにした[47]。
- 閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始。
文永の役でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入り奮戦した[337]。上陸した日本軍と元軍とで鷹島の舩原(ふなばる)中川原でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を2人生け捕るなどした[332]。また、鷹島陸上の戦闘では、西牟田永家や薩摩の御家人・島津長久、比志島時範らも奮戦し活躍した[338][339][340]。
一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払った[341]。
これら福田兼重・都甲惟親父子ら日本軍による鷹島総攻撃により10余万の元軍は壊滅し、日本軍は20,000〜30,000人の元の兵士を捕虜とした[47]。現在においても鷹島掃討戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっている[342][343]。
高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、鷹島掃討戦後の情景を「悲しいかな、10万の江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や(鷹島掃討戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」[288] と漢詩に詠んでいる。一方で郭預は、兵卒を見捨てた将校については「当時の将軍がもし生きて帰るなら、これを思えば、憂鬱が増すことを無くすことはできないだろう」[288] とし、いにしえの楚の項羽が漢の劉邦に敗戦した際、帰還することを恥じて烏江で自害したことを例に「悲壮かな、万古の英雄(項羽)は鳥江にて、また東方に帰還することを恥じて功業を捨つ」[288] と詠み、項羽と比較して逃げ帰った将校らを非難している。
『元史』によると、「10万の衆(鷹島に置き去りにされた兵士)、還ることの得る者、三人のみ」とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の3人のみであったという[47]。他方、『高麗史』では、鷹島に取り残された江南軍の管軍把総・沈聡ら十一人が高麗に逃げ帰っていることが確認できる[297]。
南宋遺臣の鄭思肖は、日本に向けて出航した元軍が鷹島の戦いで壊滅するまでの様子を以下のように詠んでいる。
- 「辛巳6月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩7千隻、7月半ば頃、倭国の白骨山(鷹島)に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日(30日)に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか400餘隻のみ廻る。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう」[310]
戦闘はこの鷹島掃討戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた。
-
少弐景資像
長崎県松浦市鷹島町阿翁免 -
鷹島の中川激戦場
この一帯は舩原(ふなばる)、中川原と呼ばれ、激戦地となったと伝承される。この石碑の付近で鷹島掃討戦により捕虜となった多くの元兵が殺害された場所であることから「首除(くびのき)」という地名が伝わっている。
長崎県松浦市鷹島町三里免 -
伝・対馬小太郎の墓
小太郎は文永の役における元軍の対馬侵攻に対して、伝令として博多に元軍の襲来を伝えたとされる人物。その墓と言い伝えられている。小太郎は鷹島掃討戦に参加し負傷し「我が屍を埋るに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と言い残すと息を引き取ったという伝承が伝わっている。
長崎県松浦市鷹島町里免 -
伝・兵衛次郎(ひょうえじろう)の墓
兵衛次郎は文永の役における元軍の対馬侵攻に対して、小太郎とともに伝令として博多に元軍の襲来を伝えたとされる人物。弘安の役の鷹島掃討戦に参加し戦死。その墓と言い伝えられている。
長崎県松浦市鷹島町神崎免
元・高麗連合軍の損害
編集『元史』によると、日本軍はモンゴル人と高麗人、および漢人の捕虜は殺害したが、交流のあった旧南宋人の捕虜は命を助け、奴隷としたという[47]。他方、『高麗史』では命を助けられた捕虜は、工匠および農事に知識のある者となっている[297]。この時に処刑された者や奴隷とされた者の他に、すぐには処分の沙汰を下されず、各々に預けられた捕虜も多数おり、捕虜の処分はその後も継続して行われた[344]。幕府は捕虜が逃げ出さないように、昼夜問わず往来の船の監視を御家人に命じている[344]。なお、近年、大阪府和泉市内の寺所蔵の『大般若波羅蜜多経』経典の修正に弘安の役で投降した捕虜が弘安9年(1286年)4月上旬に携わっていたことがわかった [345]。 同書によると「大唐国江西路瑞州軍人何三於」とあり、修正に携わっていたのは江南軍に所属していた旧南宋軍人であった[345]。
また、九州からの使者により戦勝の報が京都にも続々と伝わり、京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(閏7月12日条)には、台風により元軍が崩壊し元兵2,000人が降伏したこと[346]、その2日後の公家・広橋兼仲の日記『勘仲記』(閏7月14日条)には台風を受けて元軍船の多くが漂没し、元兵の誅戮ならびに捕虜が数千人に及んだこと[347]、さらにその7日後の『弘安四年日記抄』(閏7月21日条)には残留していた元軍の殲滅が完了したことが記載されている[348]。
- 元軍のうち帰還できた兵士は、『元史』の中でも、全軍の1〜4割と格差が見受けられる[41][42][43][44]。元軍140,000〜156,989人のうちの1〜4割とした場合、帰還者の数はおよそ14,000〜62,796人。また、『高麗史』によると、高麗兵および東路軍水夫の帰還者は26,989人のうち、19,397人[36][46]。
この戦いによって元軍の海軍戦力の2/3以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損された。
マルコ・ポーロ『東方見聞録』の弘安の役
編集マルコ・ポーロの『東方見聞録』には以下のようにマルコ・ポーロが伝聞として聞いた弘安の役に関する記述がある。
「…さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した。将軍の一人はアバタン(アラカン(阿剌罕))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった。さて、そこで不幸が彼らを襲う。凄まじい北風が吹いてこの島を荒らし回ったのである。島にはほとんど港というものがなく、風は極めて強かったので、大カアンの船団はひとたまりもなかった。彼らはこのまま留まれば船がすべて失われてしまうと考え、島を離れた。しかし、少しばかり戻ったところに小島(鷹島)があり、船団はいやおうもなくこの小島にぶつかって破壊されてしまった。軍隊の大部分は滅び、わずかに3万人ほどが生き残ってこの小島に難を避けた。彼らには食糧も援軍もなく、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。というのも、何艘かの船がいちはやく彼らの国に帰ったのだが、いっこうに戻って来る気配がなかったからである。実は司令官である二人の将軍が互いに憎み合い、そねみ合っていたのである。一人の将軍は嵐を逃れたのだが、小島に残された同僚の将軍の救援には赴こうとしなかった。大風は長く続かなかったので、吹き止んでしまえば戻ることは十分可能だったにもかかわらず、彼は戻ろうとせず、自分の国に帰ってしまった。大カアンの軍隊が残されたこの小島には人の住めるようなところではなく、彼ら以外に生き物の姿はなかった。さて、逃げ帰った者たちと小島に残された者たちがどうなったか、次にお話してみよう。
さて、すでに申し上げたように、小島に残された3万の兵士たちはどのようにして脱出してよいかわからず、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。ジパング(日本)の王は、敵の一部が運命に見放されて小島に残され、他はちりぢりに逃げ去ったと聞くとおおいに喜び、ジパング中の船をこぞって小島に赴くと四方八方から攻め寄せた。タタール人(モンゴル人)たちは、戦いに慣れていないジパングの人々が船に警戒の兵を残さず、みな上陸してしまったのを見た。思慮に富んだタタール人たちは一気に動き出し、逃げると見せかけて敵の船に殺到すると、すぐさま乗り込んでしまった。船を守る兵がいなかったので極めて容易なことであった。さて、タタール人たちは船を奪うと、すぐさま本島に向けて出立した。彼らは上陸し、ジパング王の旗をなびかせて進んだ。首都を守る人々はこれに気付かず、てっきり味方が帰って来たのだと思って中に入れてしまった。それでタタール人たちは入城し、すぐさま城郭を占領し、住民たちをすべて外に追い払ったのである。もちろん美しい女たちだけは手元に留めた。さて、大カアンの軍隊はこうして首都を占領したのであったが、これを知ったジパングの王と軍隊とは大いに悲しみ、残された何艘かの船に乗って本島に戻ると、兵を集めて首都を囲んだ。一人として出ることも入ることもできなかった。中に籠もったタタール人たちは7か月の間持ちこたえた。その間、ことの次第をいかに大カアンに知らせるか、夜となく昼となく努めたのだが、結局、知らせることはできなかった。もはや持ちこたえられなくなって、命を助けるかわりに一生ジパングの島から出ないという条件で降伏した。これは1268年に起こったことである(文永の役は1274年、弘安の役は1281年)。大カアンは逃げ帰った将軍の首を
さて、私は今一つ、次のような驚異についてお話しするのを忘れるところであった。それは、戦いの初め、大カアンの軍隊がジパングに上陸して平野を占領した時のことであった。一つの塔を落とすと、中にいた人々は降伏を肯じなかったので、その首を刎ねたのであったが、どうしても八人だけは首を切り落とすことができなかった。その八人は、うまく隠れて外からは見えなかったが、腕の肉と皮膚の間に石を埋め込んでいた。その石には魔術が施れ、決して刃物では殺されぬという効能を帯びる。これを聞いたタタール人の将軍たちはその八人を棒で殴り殺し、その死骸から石を取り出すと大事にしまったのであった」[349]
以後の動向
編集第二次高麗征伐計画
編集元軍に大勝した鎌倉幕府は、直ちに高麗出兵計画を発表した [350]。
『東大寺文書』によると、幕府は少弐経資か大友頼泰を大将軍として、三ヵ国の御家人を主力に大和・山城の諸寺の悪徒(僧兵)をも動員して高麗への出兵を計画した[351]。しかし第二次高麗出兵計画は突然中止となった。詳細は不明ながら、御家人の困窮などの理由により実行されなかったともいわれる[352]。
一方、クビライも日本の反撃を警戒し、高麗の金州等に鎮辺万戸府を設置し日本軍の襲来に備えた[353]。
第三次日本侵攻計画(1282年〜)
編集第二次侵攻(弘安の役)で敗北した元は、翌年の1282年(弘安5年・至元19年)1月に一旦は日本侵攻の司令部・日本行省を廃止したものの[354]、クビライは日本侵攻を諦めきれず再度日本侵攻を計画した。
- 同年7月、クビライの再侵攻の意向を知った高麗国王・忠烈王は、150艘の軍船を建造して日本侵攻を助けたい旨をクビライに上奏する[355]。
- 同年9月、第二次日本侵攻(弘安の役)で大半の軍船を失っていた元は、平灤、高麗、耽羅、揚州、隆興、泉州において新たに大小3,000艘の軍船の建造を開始した[356]。しかし、こうした大造船事業は大量の木材を必要としたため、平灤では山は禿山となり、寺や墳墓からも木を伐採しなければならない状況であったという[357]。また、平灤の五台山造寺や南城の新寺の建立も造船に木材を集中させるために中止となった[358]。このような軍船の不足から、民間から商船を徴発し、日本侵攻用の軍船へと転用した[359]。
- 1283年(弘安6年・至元20年)1月、日本侵攻の司令部・日本行省を再設置。アタカイ(阿塔海)を日本行省丞相に任命して日本再侵攻の総司令官として、チェリク・テムル(徹里帖木児)を右丞、劉国傑を左丞に任命し、兵を募り造船の指揮を執らせ日本侵攻を急いだ[360]。この出兵計画には、兵員の不足から、重犯罪者の囚人部隊も動員する計画であったという[361]。また、第二次日本侵攻(弘安の役)で軍船の大量喪失とともに多くの海事技術者も失ったため、海事技術者の養成が急務となっていた。そのため、アタカイ(阿塔海)は都元帥・張林、招討使・張瑄、管軍総管・朱清など軍官に水練を行うよう命じて出征に備えさせた[362]。また、右丞・チェリク・テムル(徹里帖木児)と管軍万戸35人が中心となって水練を施した兵士の中には蒙古軍2,000人や深馬赤軍10,000人などの元朝精鋭部隊も含まれ、そのうち500人には水練の他に海上戦闘での訓練を施している[363]。日本侵攻は江南地方から徴発した軍勢を主力に、この年の8月に実行することが予定された[364]。
一方、日本側はこうした元側の動向を察知し、元朝領内の造船を担った江南地方に間者を送り込み、情報収集に努めていた。江南地方で日本側の間者が捕らえられたことが元側の史料『元史』において確認できる[365][366]。
このような急激な日本侵攻準備は、元に大きな負担をもたらすものであった。日本侵攻用の軍船の造船を担った江南地方では盗賊が蜂起し、元は軍隊を派遣するなどして鎮圧に苦心した[367]。また、江南地方の盗賊の続発は、元朝領内の遠近を問わず広がりをみせ、騒然としたという[368]。このような状況の中でクビライに日本侵攻計画を中止、あるいは延期するよう諫言する者も現れた。『元史』崔彧伝には、日本侵攻計画の延期を訴えた御史中丞・崔彧とクビライとの間で以下のようなやりとりがあったとされる。
- 崔彧「江南地方で相次いで盗賊が起こっています。およそ200余所においてです。皆、かつては水手として拘束され、海船を造り、人民の生活は安んずることができなかったため、激情して盗賊として変を為しています。日本の役は暫く止めるべきです。また、江南地方四省の軍需は、民力を量って、土地の産物が無い所の者には労働を強いるべきではありません。およそ労働に対して物価を給して民に与えるのは、必ず実をもってしなければなりません。水手を召募するのは、その労働を欲する土地に従わなければならないのです。そして、民の気力がやや回復して、我が力がほぼ備わるのをうかがい、2、3年後に東征(日本侵攻)しても未だ遅くはないでしょう」
崔彧の諫言を退けて、クビライは次のように言った。
淮西宣慰使・アンギル(昂吉児)もまた、民が疲弊していることを上奏して、クビライに日本侵攻を取り止めるよう諫言した[360]。これらの諫言を退けたクビライであったが、考えを改めて同年5月には日本侵攻計画を一旦取り止めた。高麗は侵攻計画が中止となったことを受けると、造船、徴兵を停止させた[370]。
第三次日本侵攻計画(1283年〜)
編集一旦白紙となった当初の出兵予定の1283年(弘安6年・至元20年)8月の頃、再び出兵計画が持ち上がった。
- 同年8月、民間から日本侵攻用に徴発していた民間船500艘を民が困窮したため返還し、換わりにモンゴル人の大船主・アバチ(阿八赤)が所有する船を徴発して修理を行い、日本行省丞相・アタカイ(阿塔海)の日本侵攻用の艦船群に組み入れた[371]。
- 同年9月、江南地方の広東で大規模な盗賊の蜂起が起こった。元朝はただちに兵10,000でこれを鎮圧[372]。
- 同年10月、続いて江南地方の福建で宋王朝の復興をスローガンに黄華率いる100,000人ともいわれる群衆が蜂起。反乱軍は自らを頭陀軍と称して宋朝の年号を用いた。元はただちに22,000の軍勢を鎮圧に派遣した[373]。この反乱には日本行省左丞・劉国傑が日本侵攻部隊を率いて鎮圧に乗り出している[374]。
- 1284年(弘安7年・至元21年)2月、クビライは、このような国内情勢の不安定化のなかで高麗における造船を停止させた[375]。さらに敵対関係にあったベトナム南方のチャンパ王国との情勢が思わしくないため、第三次日本侵攻計画の総司令官・アタカイ(阿塔海)に命じて、日本侵攻部隊のうちから15,000の兵と軍船200艘をチャンパ王国に派遣した[376]。
このように元の国内情勢やチャンパ王国との敵対関係による不安定化のため、同年5月、クビライは日本行省を廃止し、再び日本侵攻計画を中止した[377]。
この間、日本側は明年(1284年)春に元の大軍が襲来するという情報を得て、九州の各守護に用心するよう厳命していた[378][379]。
第九回使節
編集クビライは第三次日本侵攻計画(1283年〜)を推進する一方で、九回目となる使節団を日本に派遣する。
- 1283年(弘安6年・至元20年)8月、クビライの命を受けた提挙・王君治と補陀禅寺の長老・如智は日本に向けて出航した。ところが、黒水洋を経たところで台風に遭遇し、結局、使節団は日本に辿り着くことはできなかった[380]。
なお、王君治らが託されたクビライの国書の内容は次の通りであった。
「天命を受けた皇帝(クビライ)が命を発して日本国王に諭す。むかし、彼国(日本)はよく遣使し、参内して天子に拝謁した。これに対して、朕もまた使を遣わしてこれに相報いた。すでに互いに約束を交わしており、汝の心にそれを置き忘れてはいないであろう。この頃、彼国は我が信使を執って返さなかったため、朕は舟師を発して咎めさせた。いにしえは兵を交わして、使者はその間を往来する。彼国は一語も交わさずして、固く我が軍を拒む。よって彼国はすでに敵国となり、さらに遣使するべき理ではないが、ここに補陀禅寺の長老・如智らが陳奏し『もしまた軍を興して討伐すれば、多くの生霊が被害を受ける。彼国の中にも仏教文学の感化があり、大小強弱の理を知っているはずだ。臣らが皇帝の命を齎し宣諭すれば、即ち必ずや多くの生霊を救う。彼国はまさに自省し、懇心して帰附するだろう』という。今、長老・如智と提挙・王君治を遣わし、詔を奉じて彼国に往かせた。善なるものは和好のほかになく、悪なるものは戦争のほかにない。果たしてこれを思慮して帰順すれば、即ち去使とともに来朝するべし。ゆえに彼者に諭し、朕はその福か禍の変化を天命に任せる。ここに詔を示し、我が意をすべて知り、考慮されよ」[381]
第三次日本侵攻計画(1284年〜)
編集クビライは前回の日本侵攻計画を取り止めてから1年も経たず、再び日本侵攻準備を開始した。
- 1284年(弘安7年・至元21年)10月、クビライは日本侵攻用の船と水夫の募集を開始[382]。
- 1285年(弘安8年・至元22年)4月、江淮地方に日本侵攻用の兵糧と軍船を運び、そこで海戦訓練を実施する[383]。
- 同年6月、クビライは実体は不明なものの、「迎風船」なる軍船の建造を女真族に命じる[384]。
- 同年10月、日本侵攻の司令部・日本行省を再設置。アタカイ(阿塔海)を日本行省左丞相、劉国傑・陳巌を左丞、洪茶丘を右丞に任命し、日本侵攻部隊の指揮を執らせた[385]。さらに水夫の募集方法も航海に従事する者を通して、水夫を千人集めたものには千戸の軍職、百人集めたものには百戸の軍職を与える事にした[386]。また、囚人を赦免する代わりにその顔に入墨をあてて水夫とし、南宋の時代に私塩を販売して航海技術のある者も水夫とするなどした[387]。
- 同年11月、第三次日本侵攻の作戦計画が発表される。今回は、第二次日本侵攻(弘安の役)の反省から、来年の三月から八月までに、朝鮮半島の合浦(がっぽ)に全軍を集結させてから日本侵攻を行うという計画であった。兵糧は江淮地方より米百万石を徴発し、高麗と東京(遼陽)に各々、十万石貯蔵させた[388]。この作戦に高麗が課された軍役は兵10,000、軍船650艘であった[389]。
- 同年12月、軍籍条例を施行。日本侵攻の兵士として全国から壮士および有力者を選抜し日本侵攻部隊に充てた。さらに五衛軍を各自、家に帰らせて装備を整えさせ、翌年正月一日に元の首都・大都に集結するよう命じた。また、江淮行省では軍船1,000艘に水上戦闘の訓練を施した。さらに最新鋭の投石器である回回砲の砲手として50人が軍に加えられた[390]。
- 1286年(弘安9年・至元23年)1月、ところが計画は一変し、突如日本侵攻計画は中止となった。その理由は、日本侵攻計画が元の軍民に重い負担を強いるものであり困窮が極度に達していたこと、さらに外征であるベトナムの陳朝大越国とチャンパ王国との戦況が思わしくなかったためである。
クビライが第三次日本侵攻計画を中止したのは、以下のようなクビライと礼部尚書劉宣とのやりとりがあったためである。
劉宣は、かつて隋が高句麗に侵攻してたびたび敗北した例を引用し「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」と述べ、かつての隋の高句麗侵攻以上に日本侵攻が困難であるとして、クビライに日本侵攻をとりやめるよう諫言した[197]。
これに対して、クビライは「日本は孤遠の島夷なり。重ねて民力を困するを以て、日本を征するをやむ」[391] と述べて、日本侵攻計画を取りやめた。この知らせが江浙の軍民に伝わると、軍民は歓声を上げ、その歓声は雷のようであったという[392]。
日本侵攻を諦めたクビライは「日本は今までに我が国をかつて侵略したことはない。今は交趾(ベトナム北部の国。陳朝大越国)が我が国の辺境を犯している。日本のことは置いておき、専ら交趾を事とするがよい」[393] として、日本から陳朝大越国に目を転じた。
南宋遺臣の鄭思肖はチャンパ王国が元朝に背いた理由について「弘安の役で元軍が敗れた後、日本がチャンパ王国へ使者を送り、元朝と戦わずに属国でいることを責めた。チャンパ王国は元朝に背くことを決めた」としている。[394]
第十回使節
編集また第三次日本侵攻計画(1284年〜)の推進と同時期に、クビライは前回の使節団派遣から約1年を経て再び日本に服属を迫る使節団を派遣していた。
- 1284年(弘安7年・至元21年)10月、クビライは正使・王積翁と補陀禅寺の長老・如智ら使節団を日本に派遣した[395]。補陀禅寺の長老・如智が使節団に選ばれたのは、日本が仏教を厚く信仰しており、僧侶ならば日本を服属させ得ると考えられたためであった[395]。
ところが、使節団が対馬に至った際に、日本に向かうことを恐れた水夫らが船中において王積翁を殺害してしまったため、今回の使節団も日本側と接触する前に失敗した[380][395]。
元の内乱と外征
編集このナヤンの反乱に関しては、クビライの日本侵攻計画によって、東方三王家の領民にまで造船などの出兵準備で動員がなされ大きな負担となっていたこと[396]、さらにこの日本出兵準備によりクビライの中央権力が東方三王家の支配領域に深く介入したことへの反発があったとも考えられる[397]。
クビライの親征によりナヤンの反乱は一旦鎮圧され、東方三王家の当主たちは軒並み異動されたが、今度はこの戦後処理に不満を持ったカチウン家の王族・カダアン(哈丹)が蜂起。1290年代にはカダアン軍が高麗に侵入し、いくつかの城塞を占拠し、一部は高麗の首都・開城より南の忠州にまで侵入した。カダアンら反乱軍も元からの援軍もあって鎮圧されたが、ナヤンの反乱の時には、クビライに敵対する中央アジアのカイドゥ(海都)もカラコルムを目指して進撃しており、1287年から1291年にかけて、元の東部全域から北部、また高麗内外では騒乱が続いた。
- 陳朝大越国侵攻
- また、モンゴル帝国第4代皇帝・モンケ(蒙哥)の時代に服属していたベトナム北部の陳朝大越国でも、元によるベトナム南部のチャンパ王国侵攻に対しての過剰な物資徴発に抗議して太上皇・陳聖宗が中心となって反乱を起こした。これに対してクビライは、軍船500艘、92,000の兵(元軍7万、新附軍1千、雲南軍6千、黎兵(海南島の黎族兵)1万5千)を派遣した[398]。両軍激しい消耗戦となり、最後に元軍は雲南へ撤退中に襲撃を受けて壊滅的な損害を受けている(白藤江の戦い)。
これらの内乱、南方での軍事的な失敗などもあって日本侵攻計画は当分の間は浮上しなかった。クビライはナヤン(乃顔)の反乱を境に東南アジア・インド洋方面への軍事的政策を、経済・通商を重視した和平路線へ転換したとも言われており、陳朝大越国やチャンパ王国、また1290年代に侵攻があったジャワ島のマジャパヒト王国でも交戦後ほどなくして服属関係の修復や朝貢関係の再締結の使節が交わされている。これらの戦役後も中国沿岸部から東南アジア方面への商船の往来は活発化し、クビライ治世末期には南方への元からの軍事的脅威はほぼ解消した。
第十一回使節
編集- 1292年(正応5年・至元29年)7月、クビライの重臣であった江淮行中書省参知政事・燕公楠が、交易により来航した日本の商船に日本宛の書状を託し、その日本船によって日本側に書状がもたらされた[399][400][401]。なお、書状の内容は史料として残っておらず、またクビライの命によるものかは詳らかではない。
第十二回使節
編集- 1292年(正応5年・至元29年)、クビライから漂着した日本人の護送を機に日本側に服属を迫る国書を渡すよう命じられた高麗国王・忠烈王は、高麗人の太僕尹・金有成を正使に書状官・郭鱗らを日本へ派遣した[402]。
日本に到着した金有成らは日本側によって鎌倉へ連行され[403]、その後の様子は詳らかではない。なお、その後、高麗を訪れた日本僧の情報によれば「(金)有成、丁未(1307年)七月五日、病卒」[404] とあり、金有成が使節として日本に到着して以来、15年近く日本で生存していたことがわかる。
第三次日本侵攻計画(クビライ晩年)
編集クビライは5年にわたる内乱が鎮まると、再び日本侵攻を考え始めた。
- 1292年(正応5年・至元29年)、中書省右丞の丁なる者がクビライに対して「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。これは(第二次日本侵攻の)利を失する所以である。高麗をして船を造らせて、再び日本に遠征し、日本を取ることがよろしい」と進言した[324]。これを受けてクビライは近臣らに日本侵攻の是非を問うたという[324]。それに対して、洪茶丘の弟・洪君祥は「軍事は重大なことです。先に遣使し、これ(日本侵攻の是非)を高麗に問い、然る後に之を行うべきです」と進言したため、クビライはそれを了承した[324]。
高麗に遣わされた洪君祥は、7年間、元に勾留されていた漂着した日本人の護送を高麗に命じるとともに(第十二回使節)、日本侵攻の是非を高麗国王・忠烈王に問うた。忠烈王は「臣(忠烈王)は、既に不庭の俗(日本)に隣接しています。願わくば、当に自ら(日本を)致討し、僅かながら功労を立てます」と答えて、日本侵攻に積極的姿勢をクビライに示した[405]。それを受けて、クビライは再び、戦艦の造船を高麗に命じる[406]。ところが、この頃には相次ぐ造船により、すでに高麗では木材がほとんど尽きていたため、造船できるような状況では無かったという[407]。
- 1294年(永仁2年・至元31年)1月、大元朝初代皇帝・クビライが没する。クビライが死去したことに伴い、高麗での造船は停止し、幾度も持ち上がっては消えた日本侵攻計画はようやく中止となった[407]。
- 1298年(永仁6年・大徳2年)、クビライの後を継いだ大元朝第2代皇帝・テムル(鐵穆耳)に対して、江浙省平章政事・イェスタル(也速答兒)が日本を征すことを願ったが、テムル(鐵穆耳)は「今は其の時に非ず。朕、おもむろに之を思わん」と述べてイェスタル(也速答兒)の進言を退けた。以後、元において日本侵攻計画が持ち上がることは無かった[408]。
第十三回使節
編集- 1299年(正安元年・大徳3年)、クビライの後を継いだ大元朝第2代皇帝・テムル(鐵穆耳)は、補陀禅寺の僧・一山一寧を正使として国書を託して日本へ派遣する[409]。この一団が元が日本へ派遣した最後の使節団となった。
一山一寧らが博多に至ると鎌倉幕府9代執権・北条貞時の命により、一山一寧らは鎌倉に連行され伊豆の修禅寺に留め置かれた[410]。 後に一山一寧は徳の高い高僧であったことなどから日本側に厚遇をもって迎えられ、後に建長寺の住持や後宇多上皇の招きにより京都の南禅寺3世を務めるなどして1317年(文保元年・延祐4年)に日本で死去した。
瑠求侵攻と正安の蒙古襲来
編集- 1291年(正応4年・至元28年)9月、元は6,000人の大軍で瑠求(りゅうきゅう)に侵攻する計画をたて[411]、翌年の1292年3月、元は瑠求に武力侵攻[412]。クビライの後を継いだテムルは即位後の1297年9月に、再度瑠求へ侵攻。島民130人を拉致する。なおこの「瑠求」が琉球か台湾かについては諸説ある[413]。
- 1301年(正安3年・大徳5年)11月、薩摩国甑島の沖に異国船200隻が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものともされるが、正安の蒙古襲来とも呼ぶこともあり[413]、1292年・1297年の瑠求侵攻と関連したものとする説もある[413]。
- 1592年豊臣秀吉による文禄の役においては北元(韃靼)勢力下にあったオランカイに侵攻している。
影響
編集元・高麗側の状況と影響
編集浙江大学教授・王勇によれば、弘安の役で大敗を喫した元は、その海軍力のほとんどを失い、海防の弛緩を招いた[414]。他方、日本では幕府の弱体化と御家人の窮乏が急速に進む中で浪人武士が多く現れ、それらの中から九州や瀬戸内海沿岸を根拠地に漁民や商人も加えて武装商船商団が生まれ、敗戦で海防力が弱体化していた元や朝鮮半島の沿岸部へ武力を背景に進出していったとする[414]。
1292年(正応5年、至元29年)、日本の商船が貿易を求めて四明(現在の寧波)にやってきたが、検査により船内から武具が見つかり、日本人が武具を隠し持っていたことが発覚した[415]。日本人による略奪の意図を恐れた元朝政府は都元帥府を設置して、総司令官・カラダイ(哈剌䚟)に海防を固めさせた[415]。
1304年(嘉元2年、大徳7年)、江南に度重なって襲来するようになった日本武装商船に警戒し、千戸所を定海に設けて海防を強化させ[416]、市舶司を廃して元の商人が海外に出ることを禁ずる禁海令を発布した[417]。王勇は、このように、元が倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉関主義へと態度を変化させ日本との通交を回避するようになったとする[414]。
また、高麗においても、二度に及ぶ日本侵攻(文永・弘安の役)及び第三次日本侵攻計画による造船で国内の木材が殆ど尽き、海軍力が弱体化したため、その後相次ぐ倭寇の襲来に苦戦を強いられる重要な原因となった[418]。
日本脅威論の形成
編集浙江大学教授・王勇は弘安の役での敗戦とその後の日本武装商船の活動によって中国における対日本観は大きく変化し、凶暴で勇猛な日本人像および日本脅威論が形成されていったと指摘している[420]。
例えば、南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」[419] と述べ、また元朝の文人・呉萊は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない」[421] と述べ、日本征服は無益としている。
また、明の時代の鄭舜功が著した日本研究書である『日本一鑑』では、元寇について「兵を喪い、以って恥を為すに足る」と評すなど、後の時代にも元寇の記憶は批判的に受け止められていたことが窺える[422]。
元寇の敗戦を通してのこういった日本軍将兵の勇猛果敢さや渡海侵攻の困難性の記憶は、後の王朝による日本征討論を抑える抑止力ともなった[423]。元の後に興った明による日本征討論が、初代皇帝・朱元璋(洪武帝)、第3代皇帝・永楽帝、第12代皇帝・嘉靖帝の時の計3回に渡って議論された[423]。
そのうち、朱元璋は軍事恫喝を含んで、明への朝貢と倭寇の鎮圧を日本の懐良親王に要求した。ところが懐良親王は、もし明軍が日本に侵攻すれば対抗する旨の返書を送って朱元璋の要求を受け付けなかった。この返書に激怒した朱元璋であったが、クビライの日本侵攻の敗北を鑑みて日本征討を思い止まったという[424]。
日本側の状況と影響
編集文永の役後、幕府は石築地の建設や輪番制の異国警固番役の設置など博多湾の防備を強化したが、しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちを不満にしたとされる。竹崎季長は鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得ている。
弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、この戦争に対しても十分な恩賞給与がなされなかった。また、九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は解消されなかった。また、鎌倉幕府が女性の所領知行を制限・禁止する方針を明確にしていくことになったのは、元寇に対する異国警護体制の維持と関係しているとする見方もある。これは中世後期以降の父系嫡系単独相続や近世近代の家父長制における女性の無権利状態が成立していく背景として無視し得ないと考えられている[425]。
貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。借金が棒引きされた御家人も、後に商人が徳政令を警戒し御家人との取引・融資等を極端に渋るようになったため、結果的に資金繰りに行き詰まり没落の色合いを見せるようになった。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。これらの動きはやがて大きな流れとなり、最終的には鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなったのである。
宗教・思想への影響
編集日蓮は、外国の侵攻という『立正安国論』における自己の予想の的中として元寇を受け止め、『妙法蓮華経(法華経)』の行者としての確信をますます強めた。浄土教を民間に広めた一遍の踊念仏にみられる熱狂の背景に、元寇の脅威による緊迫感・終末感があったという見解もある[426]。
この当時、神仏の国土守護の存在意義が社寺側によって宣伝され布教に利用された。各地の社寺縁起では、朝鮮半島を征服したとされる神功皇后の三韓征伐が想起され、日本の軍事力や神々の力の優越性が主張された。同時に、外国とりわけ元寇で主要な役割を果たした高麗が存在した朝鮮半島は征伐される悪人の地として位置付けられた[426]。
伝承
編集その後の日本では、元寇の際、蒙古・高麗軍が日本を襲い虐殺を行ったことから、「蒙古・高句麗の鬼が来る」といって怖れたため、転じて恐ろしいものの代名詞として子供の躾けなどで、「むくりこくり、鬼が来る」と脅す風習などとなり、妖怪に転じて全国に広がった。モッコの子守唄(青森県木造町)のように「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」などと、昔の元寇の記憶を子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。
軍事
編集かつては元軍の集団戦術、いわゆる組織戦闘に対して、当時の日本側は一騎討ちを基本とした戦い方をしていたと言われていた。また元軍は『八幡愚童訓』によれば毒矢・てつはう(鉄火砲)など、日本側が装備しない武器を活用したことにより、各地で日本軍は圧倒されたと言われていた。しかし、現在の研究では双方共に被害を出していることが判明していることから、実際は日本側も集団戦術を取っていたと考えられている。
集団戦法・一騎討ち
編集『八幡愚童訓』に記されているように、多くの書籍で元軍の集団戦法の前に一騎討ち戦法を用いる日本軍は敗退したと書かれている。しかし、『八幡愚童訓』は後世に記された宗教書であり、八幡神の化身の登場によって元軍を破ったことを強調しており、そのために日本軍が戦闘で一騎討ちなど稚劣な戦闘法で敗北したかのような記述になっているとの見解がある[427]。
一騎討ちに関しては、元寇に参戦した肥後国御家人・竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』絵五に描かれているように、陸戦においては日本の武士たちが騎兵を密集した一団となって集団で戦闘が行われている様子が描かれており、一騎討ちを挑む武士は全く描かれていない。また、文永の役の元軍の博多湾上陸に際しては、日本軍の総大将・少弐景資は、赤坂から博多に進出してくる元軍を待ち受けるよう全軍に指示し、元軍が進出してきた後、元軍に集団で一斉に騎射攻撃を加える作戦を立てていた[161][162]。このように、特別な場合を除いて一騎討ちは行われておらず、一騎討ちは武士の通常の戦闘方法ではない[427]。武士団ごとにまとまって戦っていたと考えられている。
また、元朝の官吏・王惲は、元寇の際の武士の様子をその記事『汎海小録』において「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」[164] と記しており、武士が騎兵を結束させて集団で戦っていたことを指摘している。
『元史』においても、日本の特性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」[197] とあり、一騎討ち戦法ではなく、日本が大軍を擁しており、上陸した場合四方から元軍に攻撃を仕掛けてくることを元朝政府が警戒している様子が記されている。
てつはう
編集正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で直径16-20 cm、総重量は4-10 kg(約60%が容器の重量、残りが火薬)ある。
2001年(平成13年)、長崎県の鷹島海底から「てつはう」の実物が2つほど発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径4cmの孔が空いた直径14cmの素焼物の容器で重さは約4kgあった。なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。 歴史学者・帆船学者の山形欣哉によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は約4kgもあり、手投げする場合、腕力があるものでも2、30mしか飛ばすことができず、長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている。
「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、襄陽・樊城の戦いの攻城で用いられた回回砲(トレビュシェット)や投石器がある。しかし、山形欣哉は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石器は、一番軽い1.2kgの弾を80m飛ばすのに41人(1人は指揮官)も要した。したがって、組立式にし日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器を目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている[428]。
和弓と蒙古弓
編集和弓の第一の特徴は、弓が約2.2mもあり世界最大の長弓であったことにある。長弓であることは矢を引く長さ(矢尺)を伸ばし弓矢の威力が増大することを意味し、現存している鎌倉時代の矢から80-90cm前後の矢尺を引いたと推測される。
第二の特徴は弓を握る位置にある。日本以外の弓では握りの位置が弓の中央であるのに対して、和弓は上から2/3の中央より下の方を握るようになっており、短下長上という構造になっていた。これは弥生時代には確認できる日本独特の弓の特徴であった。中央より下方を握ることで以下の利点があった。同一の弓でも弓力(弓が矢を放つ力)が増大すること。短下長上という構造上、矢の角度が仰角となり、結果、射程をより長くできた。さらに弓幹の振動がこの握りの近辺では少なく、操作しやすいことなどが挙げられる。
第三の特徴としては「弓返(ゆがえ)り」といわれるものがある。これは、矢が発射された直後に、弓を握る左手の中で、弓が反時計回りにほぼ1回転することをいう。これも日本独特のものであり、鎌倉期〜南北朝期の射術の進歩、弓の改良によって新しく起こった現象である。この「弓返り」により、弓の復元力(弓が矢を発射する前の本来の形状に戻ろうとする力)は速さを増し、矢はさらに加速され威力を増した。ただし、実戦では矢の連射性を重視したため、復元に手間が掛かる「弓返り」はさせなかった。
一方、蒙古弓は、長さが1.5m〜0.6mで短弓である。弓は牛の角と腱と木を組み合わせて作られている。弓全体の芯となっているのは木であり、弓の弦側には圧縮に強い牛の角を加工したものを張り付け、その反対側には伸張に対して強度のある腱を張り付けてある。そして、弓全体を接着力強化のため樹皮で巻き、また湿気予防のために塗料が塗られた。また、弓は弦を外すと反対側に大きく反る形に作られており、矢の速度および飛距離が増すよう工夫されている。矢の先には鏃が付けられ、その形状には各種ある。弓の弦は鹿(アンテロープ)の首の皮で作られ、丈夫にできている。
なお、和弓と蒙古弓についてそれぞれ言及されている史料もあり、日本側の史料『八幡愚童訓』によると「蒙古か矢、みしかしといへとも、矢のねに毒をぬりたれは、ちともあたる処、とくに氣にまく…」とあり[179]、一方、元側の史料の『汎海小録』によれば和弓ついて「弓(和弓)は木によって作られ、矢は長いが遠くには届かない」[164] とある。
騎馬兵
編集文永の役で元側が馬を戦場で使用したことは『蒙古襲来絵詞』や『八幡愚童訓』からも窺え、『高麗史』にも高麗南部に日本侵攻に用いる軍馬のための糧秣を配給するアウルク(奥魯)が設置されていることからも、軍馬が文永の役で使用されたことは間違いないが、正確な軍馬の数は不明。
『蒙古襲来絵詞』絵八の麁原に陣を布く元軍の騎乗率は約17%で『八幡愚童訓』でも元軍の左副都元帥劉復亨と思われる人物の共廻りの記述に「十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して…」[182] とあり、騎乗率を約15〜17%ほどとしている。なお、室町時代に日朝が著した日蓮の『立正安国論』の注釈書『安国論私抄』(文明11年、1478年擱筆)第一巻「蒙古詞事」(の「文永十一年蒙古責日本之地事」)には「或記云」として、文永の役での日本軍の捕虜となった元兵の証言によれば、元軍の構成は軍船の総数が240艘で、1艘につき兵300人、水夫70人、軍馬5匹であったとしている[158][429]。
また、対する日本軍は、陸戦においては騎兵を密集させた集団で戦っていた。そのことは、クビライに仕えた王惲が日本軍の様子を「騎兵は結束す」[164] と記していることや『蒙古襲来絵詞』絵五に騎兵を密集させて突撃する日本軍の様子が描かれていることからも窺える。
なお、両軍が使用した軍馬は、日本在来馬とモンゴルのモウコウマともに体高としては120〜140cmほどであり、体格に差は無かった。
元軍船
編集- 文永の役の元軍船
元軍が撤退中に暴風雨を受けた文永の役においては、高麗は軍船を建造するのに「蛮様」(南宋様式)の船(竜骨を持ち、隔壁構造の船)にしたのでは建設費がかさみ期限には間に合わないので、高麗様式の船を造船したとされており、軍船の準備が整っているので日本を征服しましょうとの忠烈王によるクビライへの進言は実態とまったく異なることであったことが記されている[430]。
- 弘安の役の元軍船
弘安の役において台風により元軍船が沈没した理由として、船の建造が、服属させた高麗人や南宋人に造らせたことにあるという粗製乱造説がある。彼らはモンゴル人支配に不満を募らせていたという前提の下、造船が急務であったこともあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていたのではないかという説である。しかし、手抜きを裏付ける史料は無く、むしろ元朝の官吏・王惲の記事『汎海小録』や『高麗史』には高麗船が頑丈だったことが指摘されており、実際に高麗船での生還者は多かった。詳しくは弘安の役・台風を参照。
また、長崎県松浦市の海底遺跡「鷹島
研究と評価
編集日本侵攻理由の諸説
編集文永の役は征服を目的とした侵攻では無く、威力偵察ではなかったかとの説もある[434]。モンゴル帝国の軍事行動では、事前に兵力100〜10,000規模での威力偵察を数度行った後、本格的な侵攻を行うことがある。例えば、モンゴル帝国の外交交渉では、チンギス・カンからオゴデイの時代に掛けて行われた金王朝侵攻では、数度にわたり「軍事行動に先立ち、あるいは並行して使節を派遣し服属を呼び掛けていたことが知られており、侵攻した地域で掠奪や交戦は行われたものの、領土征服をせずに軍が撤退する場合もあった[435]。 また、『元史』には文永の役において、元軍の矢が尽きたという記述が見られ、当時の主力武器である矢がすぐに尽きる程度の準備で来るとは考えにくいこと、日本を征服するには33,000人程度という少ない兵力であることを威力偵察の根拠に挙げている。しかしながら、元軍の日本以外の派兵兵力は、渡海侵攻である三別抄の乱鎮圧戦ではおよそ12,000[100]、樺太侵攻でも最大で10,000[57]、ジャワ侵攻で20,000[436] であり、文永の役の兵力はその他の侵攻と比べて、決して規模の小さいものではなかった。また、偵察目的であることを裏付ける史料はなく、『元史』の矢が尽きたという記述の前に、撤退理由として「官軍(元軍)整わず」とあり、日本軍との戦闘に及んで編成を乱し、撤退することに決した元軍の様子の記述があり、予定通りの撤退であったとは書かれていない[188]。また、『高麗史』においても、元軍は日本軍の頑強な抵抗に遭い、兵力不足を勘案した結果、元軍の総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)が撤退を決断したことが記されている[175]。
一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。
旧南宋軍が主力となった江南軍10万人については軍隊兼移民団だったのでは、との見解がある[437]。元々、南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかったのではないかとしている。旧南宋軍の新たな雇用先として受け入れたことも元朝にとって負担であり、また軍を解散させると職を失った大量の兵士たちが社会不安の要因となってしまうというものだが、征服した現地兵を次の戦争に投入することはモンゴル帝国では創建初期からよく行われており、日本との戦いの時のみことさら強調すべきこととは考えにくい、というものである[要出典]。
陰謀論
編集江戸時代後期の国学者橘守部は、元寇は朝廷潰しを企んだ鎌倉幕府・北条氏と元朝が結託して行った自作自演であるという説を唱えた。天保の国学四大家の一人に数えられる守部がこのような荒唐無稽な珍説を提唱した背景は不明だが、一説には北条時宗を高く評価していた国学者・本居宣長に対する当てつけだと言われる[438]。
海底調査
編集近年の海底調査では、長崎県鷹島南部の海底から元軍の刀剣や碇石などが発見されている。 海から引き揚げられた物の中には、元軍中隊長クラスの管軍総把の証である「管軍総把印」と刻まれている青銅印が発見されている。管軍総把印の印字は、元朝の国字パスパ文字で刻まれており、印面の裏の左側は漢字で「中書礼部 至元十四年(1277年)九月 日 造」の字がみえる[439]。
2011年10月24日、琉球大学教授・池田栄史の研究チームが、伊万里湾の鷹島沖海底に沈んでいる沈没船を元寇時の元軍船と判定したと発表した。2011年11月16日に参議院に提出された「長崎県松浦市鷹島沖で発見された元寇船の文化財指定及び保存の在り方に関する質問主意書」[440] に対して、政府は同1月25日の答弁書において文化庁において文化財指定に向けた準備を進める見解を示し[441]、その後元軍船が発見された鷹島東部沖合は「鷹島
2014年10月2日には、さらに2隻目となる元軍船を1隻目の発見地点より東に約1.7kmの地点で発見したことを池田栄史が発表。左右両側の外壁板や船体内の隔壁板の構造が分かる良好な状態で残っていることを明らかにした。なお、船体は長さ約12m、最大幅約3mで、周辺から中世の中国製とみられる茶碗、壺といった陶磁器が約20点見つかり、船体は外板が3枚打ち付けられ、船内が9枚の隔壁で仕切られている等、中世の中国船の特徴が確認できることから、江南軍の船体であったと思われる [442]。
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獅子像
松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 -
木印
松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 -
磚(せん)
重さ1kg・2kg・2.5kgの三タイプ
元軍が使用したレンガ。用途としては船のバランスをとるためのバラストとしての機能や簡易の建築に利用したものとみられる。
松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵
日本の封建制
編集今谷明は、日本の勝因として、その理由を強固な組織としての封建制とそれに基づく挙国一致体制の完備によるという見解を出している[443]。今谷明は、蒙古軍が制圧できなかったエジプトのマムルーク朝[444] や神聖ローマ帝国[445] と日本の3つの地域に共通するものとして、強固な組織としての封建制があることを指摘している[443]。今谷はマムルーク朝についてイクター制研究で著名な佐藤次高の説明を引用し、マムルークが主君であるスルターンから与えられる地租(ハラージュ)等の租税徴収権とその当該地であるイクターを「地頭職と読み換えれば、日本の御家人制にそっくりの構造が浮かび上がる」と述べ、加えてスルターンとの強い忠誠心やマムルーク相互の間での強い仲間意識など日本の御家人制との共通点を指摘している[446]。また、マムルーク軍団の源流としてアラブ征服時代のアラブと征服地域の非アラブとの間に行われたパトロン(保護者) - クライアント(被保護者)の関係、「ワラー関係」についての清水和裕の研究[447] にも触れ、清水の「主人と従属者の間に結ばれる、法的に保証された個人的紐帯であった」という説明から、これらも「日本の武士団の勃興とその封建制的関係に極めて似通った軍団の性格がみられるということになろう」と評している[448]。
高麗人の関与
編集上記「日本招諭の発端」の節にもあるように、1265年(文永2年・至元2年)、高麗人である趙彝(ちょうい)がクビライに「日本は高麗の隣国であり、典章(制度や法律)・政治に賛美するに足るものがあります。また、漢・唐の時代以来、或いは使いを派遣して中国と通じてきました」[60] とし、日本との通交をクビライへ進言している[59]。このことがクビライが日本に興味を持つ契機となった。
1272年(文永9年・至元9年)には、高麗国王・元宗の子の王世子・諶(しん、後の忠烈王)が、大元朝のクビライに「日本は、いまだ陛下の聖なる感化を受けておりません。ゆえに命令を発して我が軍の装備や糧食を整えさせました。今こそ戦艦兵糧を使うべきです。わずかではありますが、臣たる私めにお任せくだされば、つとめて心力を尽くし、帝の軍をいささかでもお助けできますことを切願しております」[449] と具申した記録が『高麗史』に残っている。李氏朝鮮の柳成龍の『懲毖録』にも「昔、高麗が元の兵を導いて日本を攻撃した」とあり、李氏朝鮮時代においても元寇に対する高麗の主導的な関与があったとの認識であった[450]。
また『元史』によると高麗国王・忠烈王は弘安の役後、「高麗国王、請自造船一百五十艘、助征日本。」と150艘の軍船を自ら作り、日本遠征を援助したいとクビライに上奏している[355]。
高麗はモンゴル帝国の侵攻を受ける以前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、元宗、忠烈王以降の高麗国王はモンゴル帝国の兵力を借りることによって王権を奪い返したため、それ以後、高麗王はほとんどモンゴル帝国に頼り、モンゴル名を貰い、モンゴル帝国皇帝の娘を王妃にし皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族、「駙馬高麗国王家」となっていた[451]。このようなモンゴル帝国に頼らざるを得ない状況の忠烈王が、自身の王権を保つためにクビライの意を迎えようと、これらの発言を行ったとする見解がある。
日蓮伝「手ヲトヲシテ船ニ結付」の解釈
編集日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、信徒や弟子達もこれを大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片を含めても600点を越えるとされている[452]。しかし、一般信徒に向けた日蓮の伝記や書簡の整理は教団の拡大が進展する室町時代頃から本格的に始まる。室町時代、応仁の乱以降に日蓮宗の勢力拡大とともに教団内外の要請に応える形で各種の日蓮の伝記集が成立した。このうち『元祖化導記』と『日蓮聖人註画讃』が後代まで模範となる主要な日蓮伝の双璧となったが、日朝の『元祖化導記』は日蓮の書簡を主要典拠として正しい日蓮の歴史像を明示しようという学究性の高い伝記であった。『元祖化導記』と時期を同じくして成立した日澄の『日蓮聖人註画讃』はとりわけ日蓮の各種書簡と伝世された祖師伝説とを合わせて成立した絵巻による伝記であり、全国的な日蓮宗の布教網の拡大に合わせ、当時の日蓮宗徒や巷間に流布していた「超人的で理想的な祖師像」に合致した内容でもあった[453]。『日蓮聖人註画讃』の第59段「蒙古来」は文永の役について「一谷入道御書」を主な典拠としており、「一谷入道御書」で日蓮が伝えた「手ヲトヲシテ船ニ結付」という文言はここでも現れている。特に『日蓮聖人註画讃』は室町時代から江戸時代にかけての一般的な(超人的な能力や神通力を具有する祖師としての)日蓮像の形成に強い影響を及ぼすことになる[454]。
『日蓮聖人註画讃』は江戸時代に入って幾度も刊本として出版されており、江戸時代における元寇関係の研究書では、津田元貫の『参考蒙古入寇記』や群書類従の編者でもある塙保己一の『螢蠅抄』、橘守部の『蒙古諸軍記弁疑』などで頻繁に引用されている[455]。本来『日蓮聖人註画讃』は文永・弘安の役についての史料としては日蓮の没後200年程たって成立したことからも明らかなように二次的なものに過ぎないのだが、江戸時代における『日蓮聖人註画讃』の扱いは、橘守部が「日蓮画讃の如き実記」と述べているように「実記」として意識され、大抵は無批判に引用される傾向があった[456]。『日蓮聖人註画讃』の文永・弘安の役についての史料価値についての批判的研究は、明治時代、1891年(明治24年)になって小倉秀貫が『高祖遺文録』などにある日蓮書簡の詳細な分析を通さないうちは史料とはみなせない、と論じるまで待たねばならない[457][458]。明治期に入り、小倉と同じ1891年(明治24年)11月に山田安栄は日本内外の元寇関係の史料を収集した『伏敵編』を著した[459]。『伏敵編』は『善隣国宝記』や『異称日本伝』、『螢蠅抄』、『蒙古諸軍記弁疑』、大橋訥庵『元寇紀略』など江戸時代やそれ以前から続く元寇史研究の成果を批判的に継承したもので、従来から引用されて来た諸史料をある程度吟味しながら引用やその資料的な批判を行っている。一方で、『伏敵編』の編纂は、当時、福岡警察署長の湯地丈雄の主導で長崎事件(1886年)を期に進められていた元寇記念碑建設運動との関係で行われたものであり、日清戦争への緊迫した情勢を反映して、江戸時代からの攘夷運動の流れを組みつつも自衛のための国家主義を標榜するという山田安栄の思想的な表明の書物でもあった[460]。
山田安栄は『日蓮聖人註画讃』の「手ヲトヲシテ船ニ結付」についても論じており、『太平記』の記述「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」や、『日本書紀』と比較しつつ、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。」と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と文言の解釈を行っている[461]。さらに山田安栄は、『日本書紀』の天智天皇の時代(662年)について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)やり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としたうえで[461]、この行為を蒙古というより高麗人によるとしている。
翻って、日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している[462]。
元使殺害
編集文永の役後に行われた使者殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためという見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為が行なわれたようである。『八幡愚童訓』には「此牒使、夜々ニ筑紫ノ地ヲ見廻リ、船津・軍場・懸足待路ニ至ルマデ差図ヲシ、人ノ景色ヲ相シ、所ノ案内ヲ註シ、計リスマシテゾ帰ケリ。」[463] とある。更に1370年に訪日した明使・趙秩に対して懐良親王が「願るに蒙古は戎狄にして華に莅み小国をもって我を視る。乃ち趙良弼を使わし我を「言朮」うに好語もてす。初めその我が国を覘うを知らざるなり。既に而して船数千を発し我を襲う。」[464] と述べており、元寇から約100年後でも日本側は趙良弼が日本侵略のためのスパイ行為を行っていたと認識していたことが分かる。『元史』でも、趙良弼はほぼ1年間、太宰府に留まっていたが、その間「日本の君臣の爵号、州郡の名称とその数、風俗と産物」などの情報収拾を行い、帰還して後にクビライに報告した[118]。ただし、趙良弼は日本侵攻については「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見るに、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性が無く、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つこと無きが良いでしょう」と述べ、日本侵攻に反対した[119]。
こういった行為が間諜であったと考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置する考え方などがある。元使殺害の評価については同時代では日蓮が批判し、後世では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙とする見解もあるが、『大日本史』や頼山陽らは国難に対しては手本にすべき好例と評価している。
神国思想
編集異国調伏祈祷
編集文永の役に先立つ1271年(文永8年・至元8年)10月25日に、後深草上皇が石清水八幡宮へ行幸して異国の事について祈願しており、文永に際して、亀山上皇は石清水八幡宮へこの報賽のため自ら行幸、参拝し徹夜して勝利と国土安穏の御祈謝を行った。翌9日には賀茂・北野両社へも行幸している。
弘安の役においても朝廷から22社への奉幣と異国調伏の祈祷が命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所でも公卿・殿上人らの公家、上皇の身辺を警護する北面武士による般若心経30万巻の転読などの祈祷や持仏堂への供養が行われた。
朝廷や幕府は、元からの使者が来航した直後から石清水八幡宮や宇佐八幡宮などの主な八幡社、伊勢神宮、住吉大社、厳島神社、諏訪大社、東大寺、延暦寺、東寺など諸国諸社寺に異国調伏の祈祷や祈願、奉幣を連年盛んに行っていた。
幕府は弘安4年から翌5年にかけて、これら九州の諸社および伊勢神宮に対して「興行法」と呼ばれる一種の徳政令が発布し、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ返還するよう命じている。
現代中国における元寇
編集元朝については、中国の中学高校の歴史の授業で教えられているが、日本への進攻については短く書かれているだけで、日中戦争のような積極的に取り上げるべき重要事項とはされていない。
史料
編集日本側史料
編集- 『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長)
- 『福田文書』
- 『金剛集』(日向 )
- 『朝師御書見聞 安国論私抄』(日朝)
- 『五代帝王物語』
- 『五檀法日記』
- 『関東評定衆伝』
- 『鎌倉年代記』
- 『帝王編年記』
- 『深心院関白記』(近衛基平)
- 『吉続記』(吉田経長)
- 『勘仲記』(広橋兼仲)
- 『師守記』(中原師守)
- 『弘安四年日記抄』(壬生顕衡)
- 『公衡公記』(西園寺公衡)
- 『調伏異朝怨敵抄』(宗性)
- 『蒙山和尚行道記』(東越允徹)
- 『大般若波羅蜜多経』巻第四百九十八
- 『金剛仏子叡尊感身学正記』(叡尊)
- 『善隣国宝記』(瑞渓周鳳)
- 『日田記』
- 『一代要記』
- 『皇年代略記』
- 『歴代皇紀』(洞院公賢)
- 『八幡愚童訓』
- 『日蓮聖人註画讃』(日澄)
- 『予章記』
- 『将軍執権次第』
- 『武藤系図』
- 『宇都宮系図』
- 『深堀系図証文記録』
- 『龍造寺系図』
- 『江上系図』
- 『財津氏系譜』
- 『歴代鎮西要略』
- 『鎌倉遺文』
元朝側史料
編集- 『元史』
- 『元文類』
- 『新元史』
- 『元高麗紀事』
- 『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌(鄭思肖)
- 『癸辛雑識』続集下(周密)
- 『隣交徴書』二篇巻一 論倭(呉萊)
- 『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録(王惲)
- 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』
- 『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑(蘇天爵)
- 『滋溪文稿』巻二十一 碑誌十五 元故贈長葛県君張氏墓誌銘(蘇天爵撰)
- 『道園類稿』巻四十九 趙夫人墓誌銘(虞集撰)
- 『墻東類稿』故武徳将軍呉侯墓志銘(陸文圭撰)
- 『呉文正集』巻六十六 有元懐遠大将軍処州万戸府副万戸邢侯墓碑(呉澄撰)
- 『呉文正集』巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状(呉澄撰)
- 『至正集』巻第四十五 碑志二 勅賜推誠宣力定遠佐運功臣太師開府儀同三司上柱国曹南忠宣王神道碑銘并序(許有壬撰)
- 『賛皇復県記』
- 『続文献通考』
- 『日本一鑑』(鄭舜功)
- 『明史』
高麗側史料
編集ヨーロッパ側史料
編集- 『東方見聞録』(マルコ・ポーロおよびルスティケロ・ダ・ピサ)
資料館
編集- 福岡県
- 長崎県
-
- 松浦市立鷹島歴史民俗資料館 - 海底から引き揚げられた元軍の碇や蒙古剣・兜・てつはう等の遺物を収蔵。
- 長崎県立上対馬高等学校 - モンゴル型兜を収蔵。
- 奈良県
-
- 賀名生の里歴史民俗資料館 - モンゴル型兜を収蔵。
史跡
編集- 福岡県
- 長崎県
関連作品
編集- 絵画
- 映画
- 小説
- 漫画
-
- 「暗殺鬼フラン衆伝 ユーラシア1274」石川賢、小学館 (BIC COMICS IKKI)、2001年 - フビライ・ハーン率いる蒙古の軍勢と、日蓮率いる腐乱衆の戦いを描く。全1巻。
- 「アンゴルモア 元寇合戦記」たかぎ七彦、角川書店 (カドカワコミック・エース) - 文永の役に襲来した元寇と対馬の攻防を描く。
- ゲーム
-
- 『Ghost of Tsushima』(PlayStation 4、PlayStation 5)1274年の対馬を舞台に元寇を描くオープンワールドゲーム。開発はサッカーパンチプロダクションズ。
脚注
編集- ^ a b 櫻井大 1999, p. 62.
- ^ 文永・弘安の役に関する日本語によるほとんどの著作・論文では「ヒンドゥ(忻都)」としているが、『高麗史』『高麗史節要』などの高麗側の資料によると、文永の役の時の総司令官は、ヒンドゥ(忻都)ではなく「クドゥン(忽敦)」という人物であった。『元朝秘史』および『華夷訳語』「韃靼館訳語」雑文などによると、「忻都」という単語は、『元朝秘史』巻11・261段に「忻都思(Hindus)」と見え、「インド」を意味するペルシア語の“Hind”ないし“Hindū”の漢字転写、もしくはそのモンゴル語音化したものの漢字転写。「忽敦」は『元史』にも10度ほど現れる人名だが、『元史語解』によると「忽敦」は「火敦」、つまりモンゴル語で「星」を意味するhotun〜udunの漢字音写の別表記の一つであるという。『元史』の至元十一年三月庚寅の条に「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、」とあり、ヒンドゥ(忻都)が洪茶丘らとともに派遣されたはずだが、『高麗史』の元宗十五年八月己酉の条に、「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦来。令加発京軍四百五十八人。」とあって、高麗に侵攻軍全体の都元帥として着任して来たのは「クドゥン(忽敦)」であった。『元史』洪茶丘伝に「(至元十一年)八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島。」とあり、下記にもある『高麗史』金方慶伝や『高麗史節要』での博多上陸後の侵攻軍内の軍議で金方慶とやり取りしている人物も「クドゥン(忽敦)」と書かれている。『高麗史』『高麗史節要』では八月己酉の高麗到着から、侵攻から高麗へ帰還し、翌忠烈王元年正月丙子(1275年2月1日)に北還するまで、都元帥は一貫して「クドゥン(忽敦)」であり、「ヒンドゥ(忻都)」とは書かれていない。上述のように、「ヒンドゥ(忻都)」と「クドゥン(忽敦)」は同じ語彙の別転写ではなく、全く別の単語である。そのため、「ヒンドゥ(忻都)」と「クドゥン(忽敦)」は別の名前を持つ同一人物か、あるいは全くの別人だと考えられるが、この問題に関しては十分な論考が行われていない。
- ^ a b c 大元朝に人質に出された高麗国王・高宗の子息・王綧の子。『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 王綧・附阿剌帖木兒「十一年、進昭勇大將軍、従都元帥忽都征日本國、預有戰功。十五年、加鎭國上將軍、安撫使、高麗軍民總管、尋陞輔國上將軍、東征左副都元帥。十八年、復征日本、遇風涛、遂没於軍。」
- ^ a b 東越允徹『蒙山和尚行道記』「偶文永之歳、元兵偵我西」鄙、有万戸将軍、降于本朝、蓋儒而将者、」(榎本渉『南宋・元代日中渡航僧伝記集成 附 江戸時代における僧伝集積過程の研究』勉誠出版 2013年3月30日 431頁)
- ^ 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年十一月癸巳の条「召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三没合等赴闕。」
- ^ a b 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年十月乙巳(三日)の条「冬十月乙巳、都督使金方慶將中軍、朴之亮金忻知兵馬事、任愷爲副使、金侁爲左軍使、韋得儒知兵馬事、孫世貞爲副使、金文庇爲右軍使、羅裕朴保知兵馬事、潘阜爲副使、號三翼軍。與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本。」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』絵二の墨書「太宰少貳/三郎左衛門尉景資二十九/むま具足にせゑ/其勢五百余騎」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』絵三の墨書「白石六郎通泰/其勢百余騎/後陣よりかく」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞三「そのせい(勢)百よき(余騎)はかりとみへて、(中略)ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)二郎たけふさ(武房)と申すものに候、」 赤坂の戦い直後の兵力。赤坂の戦い以前の兵力は不詳。
- ^ a b 『元史』巻一百五十二 列傳第三十九 劉通・附劉復亨「十年(十一年)、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」
- ^ a b 『歴代皇紀』「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」(近藤瓶城編『改定史籍集覧 第18冊(新加通記類 第1)』臨川書店 1984年2月 275頁)
- ^ a b 『高麗史』金方慶伝によると、蒙漢・高麗連合軍39,700が女真軍の到着を待ったとあり、蒙漢・高麗連合軍39,700の他に女真軍が存在したとしている。『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「以蒙漢軍二萬五千、我軍(高麗軍)八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百餘艘、留合浦、以待女眞軍、女眞後期、乃發船。」
- ^ a b 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年三月庚寅の条「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本。」
- ^ 『元文類』巻四十一 経世大典序録 征伐 日本「十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒二萬五千伐之、」
- ^ 歴史学者の池内宏は大元朝から日本へ派遣された軍勢は20,000である、という見解を示している。根拠は高麗に駐兵していたヒンドゥ(忻都)率いる兵4,500と洪茶丘率いる兵500の他に「元征東兵萬五千人來」と大元朝から新たに15,000の日本侵攻軍の増派されたことが確認できるため、ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘ら率いる兵5,000に15,000を足して20,000としている。そして、『元史』洪茶丘伝に「與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、」とあり、20,000という数字が合致していることを見解の補強としている(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 125頁)。他方、歴史学者の大葉昇一は『元史』至元十一年三月庚寅の条「合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、」の15,000とは高麗に駐兵していた軍と新たに大元朝から派遣された軍勢を含んだ総計が15,000であって大元朝の日本侵攻軍は『元史』至元十一年三月庚寅の条の15,000で正しい、という見解を示している。(大葉昇一『軍事史学-文永の役における日本遠征軍の構成--耽羅(濟州島)征討から元寇へ--』第35巻第2号 軍事史学会編集 1999年)。『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年二月甲子(十七日)の条「又正月十九日奉省旨云、忻都官人所管軍四千五百人、至金州行糧一千五百七十碩、又屯住處糧料及造船監督洪總管軍五百人行糧八十五碩、亦令應副、」、同元宗十五年(五月)己丑(十四日)の条「己丑、元征東兵萬五千人來。」
- ^ 高麗軍の兵力は『元史』や『高麗史』の中でも一定していない。『元史』や『高麗史』に記載された高麗軍の兵力を挙げると、5,300(『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年己酉の条)、5,458(『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌の条及び同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉の条)、5,600(『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國)、8,000(『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一十月乙巳の条)となっている。なお、歴史学者の池内宏は、『元史』高麗伝の高麗軍数5,600人に後に加えられた458人の高麗兵を足して高麗軍総数が約6,000であるという見解を示している(池内 宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 126頁)。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「小國一千軍鎭戌耽羅者、在昔東征時、係本國五千三百軍額。」、同巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌(九日)の条「三月丙戌、元遣經略司王總管來、命發軍五千、助征日本。」、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉(六日)の条「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍(高麗軍)四百五十八人。」、『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一)三月、遣木速塔八、撒本合、持詔使高麗、簽軍五千六百人、助征日本。」
- ^ a b c 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、總計一萬人(実数九千五百人)、兵船總九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、竊念、小國戸口、自來凋弊、往歳東征之時、大船一百二十六艘梢工水手、猶爲未敷、況今三百艘、何以盡數應副、以此至於農民、徴發丁壯、凡一萬五千人、其不敷水手三千人、於何調發、有東寧府所管諸城及東京路沿海州縣、多有梢工水手、伏望、發遣三千人補乏、」
- ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「十一年三月、命鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟各三百、共九百艘、載士卒一萬五千、期以七月征日本。」 各艦船の用途については山形欣哉・石井謙治『歴史群像シリーズ64―北条時宗―蒙古襲来と若き執権の果断--元寇軍船』(学研出版 2000年 36〜39頁)を参考。
- ^ a b c d e 『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 蒙古詞事「又或記云十一歟月二十四日ニ聞フル定、蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也、又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、又總ノ生捕二十七人、頭取事三十九、其他数ヲシラズ、又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云、」(『日蓮宗宗学全書 御書所見聞集 第1』日蓮宗宗学全書刊行会 1922年 21頁)
- ^ a b c d e f g 『金綱集』第十二 雑録 異賊襲我国事「九十代、今上御宇(亀山天皇)、筑前国大博多箱崎ニ来事、文永五年正月一日、新左衛門尉経資請取大田次郎左衛門 自蒙古国状、筑前国大宰府ニ、彼状豊前之新左衛門尉経資請取、大田次郎左衛門長盛并伊勢法橋二人ヲ以被進六波羅彼使者ヲ以被進関東、自鎌倉佐々木(「前」脱カ)対馬守氏信・伊勢入道(二階堂行綱)行願二人ヲ以被進公家、於仙洞菅宰相長成卿被召被読条状也、同十一年十月五日、蒙古人乗数百艘之船対馬仁来、同六日辰剋守護代宗馬(メノ)允資国等防キ戦之、(「蒙」脱カ)古人雖打取資国子息等悉打死畢、同十四日蒙古人壱岐国仁押寄テ守護代平内左衛門尉影高(景隆)等構城廓雖合戦ト、蒙古人乱入之間影高等自害畢、同十九日、蒙古人筑前国博多・箱崎・今津・佐原賊来、同廿日辰尅少郷入道覚恵(武藤資能)・子息三郎左衛門尉影(景)資・大友出羽守頼泰并以読(ママ)次郎左衛門尉重秀・難波次郎(在助)・菊池次郎(康成)、九国御家人等馳集令合戦之間、両方死輩不知其数、及酉尅九国軍兵引退処入夜三百余騎ノ軍兵出来、白〔弓偏ニ牟〕(鉾カ)梅○〔弓偏ニ牟〕暗空ニアリ、仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄生取四人、一杜肺子・二白徳義・三羡六郎・四劉保兒也、同廿一日、住吉第三神殿ヨリ鏑ノ聲シテ西ヲ指シテ行、有人夢見、北野天神御歌神風仁蒙古賀船和散波多(亭カ)々底之花久津登成曾宇礼志幾 自他国国王十一代之間○我朝ニ賊来事十八度此中蒙古人十度来也、建治元年九月六日酉尅前後生取九人被切之也、文応元年庚申聖人(日蓮)造立正安国論進覧西明寺(北条時頼)殿、」(坂井法曄 2003, p. 27)
- ^ 『八幡愚童訓』「宗右馬允戦(たたかう)ト云ヘ共、辰ノ終ニ打レヌ。同子息宗馬次郎、養子弥次郎、并右馬允、同八郎、親類刑部丞郎、郎等三郎右馬允、兵衛次郎、庄ノ太郎入道、源八、在庁左近ノ右馬允、流人肥後國御家人口井(タイノ)藤三、源三郎、以上十二人、同時ニ打死ス」(これらの戦死者名については諸本で若干異同がある)萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.183。
- ^ 『八幡愚童訓』「同十四日申時尅ニ、壱岐嶋ニ西面ニ蒙古人ノ船着ク。(中略)守護代平内左衛門尉経高(景隆)并御家人百余騎、庄三郎ガ城ノ前ニテ矢合ス。(中略)異敵ハ大勢也。可(ベウモ)叶無カリケレバ、城ノ内ヘ引退テ雖防戦、同十五日終(ついに)、被責落、城中ニテ自害ス」萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.183-184。
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年(十一月)己亥(二十七日)の条「己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之。軍不還者無慮萬三千五百餘人。」
- ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年十二月辛未の条「以高麗中贊金方慶爲征日本都元帥、密直司副使朴球、金周鼎爲管高麗國征日本軍万戸、并賜虎符、」
- ^ a b 『朝鮮王朝実録』太祖実録 総序「十八年辛巳、世祖征日本、天下兵船、會于合浦。翼祖蒙上司文字、將本所人戸、簽撥軍人、與雙城摠管府三撒千戸蒙古大塔失等赴征、」
- ^ 『元史』巻一百三十二 列傳第十九 哈剌䚟「十八年、擢輔國上將軍、都元帥、從國兵征日本、値颶風、舟回、明年二月、還戍慶元、」
- ^ a b c d e f 蘇天爵撰『滋溪文稿』巻二十一 碑誌十五 元故贈長葛県君張氏墓誌銘「明年、宋滅。論功行賞、受池州總把。歸附之初、新令未洽、豪民潛擾郷邑。公撫治以嚴、民頼以安。久之、朝廷以日本梗化不庭、出帥征之。公又行。由慶元汎舟入海凡七晝夜、抵達可島。去其國七十里。潮汐盈涸不常、舟弗能進。乃縛艦爲寨、碇鐡靈山下。命公守之。八月一日夜半、颶風大作、波濤如山。震撼撃撞、舟壞且盡。軍士號呼、溺死海中如麻。明日、大帥命公先歸。公由躭羅逾高麗、渡遼水以趍京師。遂歸于池。」
- ^ a b 『元史』巻一百二十三 列傳第十 月里麻思・附忽都哈思「十八年、以招討使將兵征日本、死於敵、」
- ^ 外山幹夫 『肥前松浦一族』 新人物往来社 2008年。なお外山はこの記述を誇張であろうとしている。
- ^ 『歴代鎮西要略』「弘安四年辛巳、蒙古大軍襲來。夏六月。元蒙古阿剌罕范文虎爲上將。忻都洪茶丘爲次将。遣數千之舟師。以伐我國。其兵不知幾百萬。」 なお、同書は文永の役においても日本軍「10万余騎」に対して元軍を「数百万」と記載している。「文永十一年九月異國大元蒙古兵舟五百餘艘襲來(中略)(日本側)都合十万余騎。至壹岐、松浦、今津、博多、姪濱所々相戦。十月二十日。合戦於筑前赤坂數回。於蒙古數百万之兵其交鉾之間、靡敵助我。破堅碎強。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二30頁、巻之四35頁)
- ^ a b 『深堀系図証文記録』「弘安四年五月蒙古襲來于筑之博多、賊船無數。其兵十餘萬侵九州、探題秀堅、大友豊後守時重、太宰小貳父子三人、菊池四郎武通、秋月九郎、原田、松浦、宗像大宮司、三原、山鹿・草野、島津等。其外御家人三十二人。防戰于豊筑之際、厚東、大内介來加、于豊前賊兵挑戰不利而退、探題被疵、大友戰死、從六波羅宇都宮貞綱爲大將其勢六萬餘騎、先陣已著于長府、蒙古大將出船、即日猛風吹破賊船、賊兵悉溺、歸者幾希、神國霊験異國舌、此時深堀左衛門尉時光、深堀彌五郎時仲有戰功。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四29頁)
- ^ a b 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中」
- ^ a b c d e 『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇「十七年、授龍虎衞上將軍、征東行省右丞、十八年、與右丞欣都、將舟師四萬、由高麗金州合浦以進、時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海、期至日本一岐、平戸等島合兵登岸、兵未交、秋八月、風壞舟而還。」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(八月)乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、兩軍畢集、直抵日本、破之必矣、」
- ^ 4万を戦闘員のみとするか、水夫を含めるかで兵力が異なる。水夫を含めない場合は蒙古・漢軍30,000に『高麗史』に記載されている戦闘員9,960名と水夫17,029名を足すと東路軍の総兵力は56,989人となる。『元史』世祖本紀の至元十七年八月戊戌の条によると弘安の役に際して、高麗国王・忠烈王がクビライに元軍3万の軍勢を要請したとある。また、『高麗史』の同時期の記載でも高麗国王が高麗・漢軍を減らして、蒙古軍を増強するよう要請し、クビライはこれを了承したという記載があり、4万は戦闘員のみだった可能性が高い。『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年八月戊戌の条「戊戌、高麗王王賰来朝、且言將益兵三万征日本。」および『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年 (八月)乙未(二十六日)の条「王以七事請、一以我軍鎮戌耽羅者、補東征之師、二減麗漢軍、使闍里帖木兒、益發蒙軍以進、三勿加洪茶丘職任、待其成功賞之、且令闍里帖木兒與臣、管征東省事、四少國軍官、皆賜陴面、五漢地濱海之人、幷充梢工水手、六遣按察使、廉問百姓疾苦、七臣躬至合浦、閲送軍馬、帝曰、已領所奏。」(大葉昇一 2003, p. 25)
- ^ a b c d e 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年(十一月)壬午(二十日)の条「壬午、各道按廉使啓、東征軍九千九百六十名、梢工水手一萬七千二十九名、其生還者一萬九千三百九十七名。」
- ^ a b c 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年六月壬申(八日)の条「范文虎亦以戰艦三千五百艘、蠻軍十餘萬來、會値大風、蠻軍皆溺死。」
- ^ 江南軍の実体に関しては史料が少なく不明な点が多い。江南軍が10万であったことは『高麗史』や『元史』から確認できるが、『元史』洪茶丘伝では「時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海」とあり、江南軍10万とは戦闘員であったとしている。元の時代では、戦闘員と水夫はそれぞれを専門職とするのが通例であり、戦闘員が水夫を兼任することはそれほど事例が多くはなかった。なお東路軍4万が戦闘員であり、水夫が含まれていなかったことを考えれば、江南軍10万とは戦闘員の動員数であり、10万の軍勢の他に江南軍には多くの水夫が乗船していた可能性もある。大葉昇一 2003, p. 37また、日本側の史料『鎌倉年代記裏書』においても、元軍の構成として「大元船二千五百餘艘、兵士十五萬人、除水手等、高麗船千艘云々、」とあり、兵士15万人とは別に水夫がいたとしている。
- ^ a b 『鎌倉年代記裏書』「今年(弘安四年)七月、大元賊徒、自宋朝、高麗數千艘船寄來、數日漂對馬海上而後群集肥前國鷹島之處、同卅日夜、閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千萬、但將軍范文虎歸國云々、大元船二千五百餘艘、兵士十五萬人、除水手等、高麗船千艘云々、」(竹内 理三編集『続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』臨川書店増補版 1979年9月 54頁)
- ^ a b 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王五年(六月)辛丑(二十五日)の条「東征元帥府承省旨、令造戦艦九百艘。」
- ^ a b c 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年八月壬辰の条「忻都、洪茶丘、范文虎、李庭、金方慶諸軍、船爲風涛所激、大失利、余軍回至高麗境、十存一二。」
- ^ a b c 『元史』巻一百六十二 列傳第四十九 李庭「十七年、拜驃騎衞上將軍、中書左丞、東征日本、十八年、軍次竹島、遇風、船尽壞、庭抱壊船板、漂流抵岸、下收余衆、由高麗還京師、士卒存者十一二。」
- ^ a b c 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿塔海「二十年、遷征東行省丞相、征日本、遇風、舟壞、喪師十七、八。」
- ^ a b c d e 『元史』巻一百二十八 列傳第十五 相威「十八年、右丞范文虎、參政李庭、以兵十萬、航海征倭、七晝夜至竹島、與遼陽省臣兵合、欲先攻太宰府、遲疑不發、八月朔、颶風大作、士卒十喪六七。」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年閏(八)月の条「是月、忻都茶丘范文虎等還元、官軍不返者、無慮十萬有幾。」
- ^ a b 『高麗史』の「東征軍九千九百六十名」とは高麗兵のことを指しており、蒙古・漢軍の生存者数は不明。以下は高麗兵約一万の地域的内訳である。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、捴計一萬人(実数九千五百人)、兵船楤九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、」
- ^ a b c d e f g h 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元十八年)官軍六月入海、七月至平壷島(平戸島)、移五龍山(鷹島か)、八月一日、風破舟、五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下、衆議推張百戸者爲主帥、號之曰張總管、聽其約束、方伐木作舟欲還、七日日本人來戰、盡死、餘二三萬爲其虜去、九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、謂新附軍爲唐人、不殺而奴之、閶輩是也、蓋行省官議事不相下、故皆棄軍歸、久之、莫靑與呉萬五者亦逃還、十萬之衆得還者三人耳。」
- ^ a b 村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁
- ^ 戸川芳郎監修、佐藤進、濱口富士雄編集『全訳 漢辞海 第三版』三省堂 2011年2月 396頁
- ^ 川添昭二 1977.
- ^ 佐伯弘次 (2003) 他。
- ^ 舩田善之 2009.
- ^ a b 『日本歴史大系2 中世』山川出版社、1985年、269頁。
- ^ 『元史』巻五 本紀第五 世祖二 至元元年十一月辛巳の条「辛巳、征骨嵬、先是、吉里迷内附、言其國東有骨嵬、亦里于兩部、歳來侵疆、故往征之。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年十月辛酉の条「辛酉、征東招討司以兵征骨嵬。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月乙巳の条「詔征東招討使塔塔兒帶、楊兀魯帶以萬人征骨嵬。」
- ^ a b 『元史』巻十四 本紀第十四 世祖十一 至元二十三年十月己酉の条「己酉、遣塔塔兒帶、楊兀魯帶以兵萬人、船千艘征骨嵬。」
- ^ a b c d e 中村和之 2001, p. 178.
- ^ a b c d 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「元世祖之至元二年、以高麗人趙彝等言日本國可通、擇可奉使者。三年八月、命兵部侍郎黑的給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本。」
- ^ a b c d 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)癸丑(二十五日)の条「癸丑、蒙古遣黒的殷弘等來、詔曰、今爾國人趙彝來告、日本與爾國爲近隣、典章政治有足嘉者、漢唐而下、亦或通使中國、故今遣黒的等往日本、欲與通和、卿其道達去使、以徹彼疆、開悟東方、向風慕義、玆事之責、卿宜任之、勿以風濤險阻爲辭、勿以未嘗通好爲解、恐彼不順命、有阻去使爲托、卿之忠誠、於斯可見、卿其勉之。」
- ^ 黒田俊雄 (1973), 56頁。
- ^ 月村辰雄・久保田勝一本文翻訳、フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ、小林典子・駒田亜紀子・黒岩三恵解説翻訳『全訳マルコ・ポーロ東方見聞録『驚異の書』fr.2810写本』岩波書店 2002年 147頁
- ^ 本書の底本は14世紀末頃に成立したと思われる中世フランス語による『驚異の書』(Livre des Merveilles) と呼び習わされている系統の写本群(グレゴワール版 FG系統)に属す、パリ国立図書館蔵の15世紀初頭の写本 (Ms.fr.2810) である。ポール・ペリオらによるとアバタン Abatan やジョンサインチン Jousainchin とは、Abachan(F系統)、Vonsamchin(F系統)やVonsainchin(FG系統)などとして現れ、前者は弘安の役時の日本行省左丞相・阿剌罕 (Alaqan, A-la-han)、後者は右丞・范文虎のことと思われる。後者の表記はマルコ・ポーロ存命中の14世紀初頭に成立したパリ国立図書館蔵の写本(Ms.fr.1116 地理学協会版 F系統)等では Vonsamchin などとして現れ、おそらく范丞相 Fan-Tsai-siang の訛音と考えられる。サルコンは Çaiton(F系統)、Çayton(FG系統)と書かれ、同じ時期にイブン・バトゥータ他アラビア語地理書・旅行記でザイトゥーン زيتون Zaytūn と呼ばれた泉州のことで、キンセーも他の写本ではキンサイ Quinsai (F系統)Quinsay(FG系統)と書かれており、南宋成立時に開封から遷都し「行在」(Hsing-tsai)と呼ばれた杭州のことである。しかし、後述するように弘安の役では江南軍は主に慶元路(明州)はじめ東シナ海沿岸部から発しておりキンサイ(杭州)から出帆したという記述は誤りである。続く記事で暴風雨で難破した侵攻軍は漂着した後でジパングの首都を陥落させたなど、ジャワ侵攻やチャンパー侵攻などと混同していると思われる部分が少なくない。「礼儀正しい」とある部分は唐宋以来の「礼節の国」という日本観を反映したものと考えられ、『元史』日本伝にある趙良弼がもたらした国書にある「日本は素より礼を知る国と号す」という文言とも一致する。また、慶元路は当時、杭州(キンサイ)を首府とする江浙行省の管轄であったために錯誤したものと思われ、「上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」という部分もあるいは文永の役のことを指すとも考えられる。(マルコ・ポーロ『完訳 東方見聞録〈2〉』(平凡社ライブラリー 327)愛宕松男訳注、2000年2月、120頁、170頁、183-190頁。高田英樹「ジパング 日本国 : マルコ・ポーロの東方(4)」『国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要』 24(3)、2011年3月、107-130頁。
- ^ 鄭思肖『心史』中興集二巻 元賊謀取日本二絶 元韃攻日本敗北歌「元賊聞其豊庶、怒倭主不来臣、竭此土民力、弁舟艦、往攻焉、欲空其國所有而歸。」(陳福康校点『鄭思肖集』上海古籍出版社 1991年5月 95頁)
- ^ 『呉文正集』巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状(呉澄撰)「至元初年、髙麗趙開建言通日本以窺宋、數輩奉使。竟無成約、」
- ^ a b 『高麗史』巻一百二 列伝十五 李蔵用 元宗九年五月二十九日の条「又勑藏用曰、爾還爾國、速奏軍額、不爾將討之、爾等不知出軍將討何國、朕欲討宋與日本耳、今朕視爾國猶一家、爾國若有難、朕安敢不救乎、朕征不庭之國、爾國出師助戰亦其分也、爾歸語王、造戰艦一千艘、可載米三四千石者、藏用對曰、敢不承命、但督之、則雖有船材、恐不及也、」
- ^ a b 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年(十月)庚寅(十三日)の条「庚寅、蒙古遣明威將軍都統領脱朶兒武徳將軍統領王國昌武略將軍副統領劉傑等十四人來、詔曰、卿遣崔東秀來奏、備兵一萬造船一千隻事、今特遣脱朶兒等、就彼整閲軍敷、點視舟艦、其所造船隻、聽去官指晝、如耽羅已與造船之役、不必煩重、如其不與、即令別造百艘、其軍兵船隻、整點足備、或南宋或日本、逆命征討、臨時制宣、仍差去官先行、相視黑山日本道路、卿亦差官、護送道達。」
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)丙辰(二十八日)の条「丙辰、命樞密院副使宋君斐侍御史金贊等、與黑的等往日本。」
- ^ 新井2007「蒙古襲来」, pp. 21-22
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年 正月の条「元宗八年 春正月、宋君斐金贊與蒙使、至巨濟松邊浦、畏風濤之險遂還、王又令君斐随黑的如蒙古、奏曰、詔旨所湯喩、道達使臣、通好日本事、謹遣陪臣宋君斐等、伴使臣以往、至巨濟縣、遥望對馬島、見大洋萬里風濤蹴天、意謂危險若此、安可奉上國使臣、冒險輕進、雖至對馬島、彼俗頑獷無禮義、設有不軌、將如之何、是以與倶而還、且日本素與小邦未嘗通好、但對馬人、時因貿易、往來金州耳、小邦、自陛下即祚以來、深蒙仁恤、三十年兵革之餘、稍得蘇息、緜緜存喘、聖恩天大、誓欲報効、如有可為之勢、而不盡心力、有如天日。」
- ^ a b 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丙辰朔(一日)の条「八月丙辰朔、黑的殷弘及宋君斐等復來、帝喩曰、向者遣使招懷日本、委卿嚮導、不意、卿以辭爲解、遂令徒還、意者日本既通好、則必盡知爾國虛實、故托以他辭、然爾國人在京師者不少、卿之計亦疎矣、且天命難諶、人道貴誠、卿先後食言多矣、宣自省焉、今日本之事、一委於卿、卿其體朕此意、通諭日本、以必得要領爲期、卿嘗有言、聖恩天大、誓欲報効、此非報效而何。」
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)癸丑(二十五日)の条「卿其道達去使、以徹彼疆、開悟東方、向風慕義、玆事之責、卿其任之、勿以風濤險阻爲辭、勿以未嘗通好爲解、恐彼不順命、有阻去使爲托、卿之忠誠、於斯可見、卿其勉之。」
- ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「四年六月、帝謂王禃以辭爲解、令去使徒還、復遣黑的等至高麗諭禃、委以日本事、以必得其要領爲期、禃以爲、海道險阻、不可辱天使、九月、遣其起居舍人潘阜等持書往日本、留六月、亦不得其要領而歸。」
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丁丑(二十三日)の条「遣起居舍人潘阜、齎蒙古書及國書如日本、」
- ^ a b c 『五代帝王物語』亀山院「(文永五年)閏正月十五日又舞御覽あり。一院御幸なる。麗しき御賀の儀いかばかりの事にてかあらんずらむとおぼえしに。蒙古國とかやより牒状を奉る。高麗の牒を相副たり。宰府よりまづ關東へつげて。關東より二月六日牒状をまいらせたり。是によりて御賀止めらる。公私本意なき御事也。蒙古國もとは契丹の所屬韃靼國也。年比契丹國以下の近邊の諸國を打とる。太宋國も、三百餘州のうち大略みなうちとられて。わづかに六十餘州殘れり。高麗も同せめおとされて。臣として蒙古の朝につかふるよし牒状にも載たり。牒使には趙良弼と云者渡れり。高麗の使を副たり。牒状二通あり。一通は高麗の牒也。蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。至元三年と載たり。高麗國。同彼年號をうけて至元となせり。去年八月の牒也。數多の方物を相副て。正月一日大宰府に着たり。是によりて官外記以下の勘文をめされて仗儀を行る。又仙洞の評定あり。」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 448頁)
- ^ 東大寺宗性筆の『調伏異朝怨敵抄』に「蒙古国牒状」に続いて記載されている。「高麗国王王稙 右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。』其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。惟貴国商酌焉。」『鎌倉遺文』9770号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第13巻 古文書編13巻 自文永2年 (1265) - 至文永5年 (1268)、東京堂出版、1985年、285頁。平岡定海『東大寺宗性上人之研究並史料』(中)・(下)、臨川書店、1959-1260年、(中)図2-4、(下)1-2頁。東大寺宗性によって『調伏異朝怨敵抄』に蒙古国牒状、高麗牒状、潘阜書状の3通が書写され現存。
- ^ 『将軍執権次第』文永五年条「時宗。相模守。三月五日始爲執權云々。正月廿九日辭左馬權頭。」(塙保己一編『群書類従』第四輯 補任部 巻第四十八 続群書類従完成会 1960年 258頁)
- ^ a b 近衛基平『深心院関白記』文永五年二月条「(二月)七日、戊子(中略)晴、東使今日向相國禪門北山亭云々、異國間事也、八日、己丑(中略)天晴、早旦以敕書有召、仍參院、今日異國事可有評定云々、牒状、高麗取進蒙古國牒也、仍其牒二通也、稱講和親之儀、委見牒状、此事國家珍事大事也、萬人驚歟之外無他、前博陸兩人參向其座、無骨、仍餘參内、入夜又歸參院也、(中略)十日、辛卯(中略)晴(中略)依昨召參院、異國事返牒有否有沙汰、前博陸兩人參、然而餘對座居也、如此重事不參之條、不可然之故也、子細不盡翰墨也、」(『岡屋関白記・深心院関白記・後知足院関白記』陽明叢書 記録文書篇 第二輯 思文閣出版 1984年 144〜145頁)
- ^ 『○新式目』関東御教書「一 蒙古国事 蒙古人挿凶心、可伺本朝之由、近日所進牒使也、早可用心之旨、可被相触讃岐國御家人等状、依仰執達如件、文永五年二月廿七日 駿河守殿(北条有時?) 相模守(北条時宗)左京権大夫(北条政村)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十三巻 東京堂出版 九八八三号)
- ^ 新井2007, p25
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年秋七月丁卯(十八日)の条「秋七月丁卯、起居舍人潘阜、還自日本、遣閣門使孫世貞郎將呉惟碩等、如蒙古賀節日、又遣潘阜偕行、上書曰、向詔臣、以宣諭日本、臣即差陪臣潘阜、奉皇帝璽書、幷齎臣書及國贐、以前年九月二十三日、發船而往、至今年七月十八日、回來云、自到彼境、便不納王都、留置西偏大宰府者凡五月、館待甚薄、授以詔旨、而無報章、又贈國贐、多方告諭、竟不聽、逼而送之、以故不得要領而還、未副聖慮、惶懼實深、輒玆差充陪臣潘阜等、以奏。」
- ^ 奥書に国書が京都に送達された直後の1268年(文永5年)2月に宗性が亀山殿大多勝院道場における後鳥羽院御八講に参じた際に蒙古国書を書き写した旨が書かれている。なお同一の蒙古国書の内容が『元史』日本伝にも記載がある。両者の比較と解説についてはwikisource:蒙古皇帝国書を参照。(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十三巻 東京堂出版 九五六四号)
- ^ 村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 66頁
- ^ 山口修「文永・弘安の役」『図説 日本の歴史6 鎌倉の幕府』集英社、1974年、195頁
- ^ 山口修、中村栄孝=岩波講座日本歴史中世二、1963。田中健夫、岩波講座世界歴史9、1970年。杉山正明もモンゴル帝国の命令文書の研究からこの説を採用。他、村井章介、奥富敬之など。
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年(十二月)庚辰(四日)の条「庚辰、知門下省事申思佺侍郎陳子厚起居舍人潘阜、偕黑的殷弘如日本。」
- ^ a b c 『蒙古来使記録』<○賜芦文庫古文書所収称名寺文書>「文永六-二-十六-蒙古高麗使等渡海事<蒙古人官人三人<同從人五人、>高麗人六十七人船四艘着對馬嶋豐岐浦云々> 同二-廿二日馳申了、同三-十三-評定了、同二-廿四日、逃歸本審事(畢カ)云云、文永六年-十-十七-、蒙古牒一通、高麗牒一通持之、牒使二人、令着對馬嶋之由申之云々、彼至元六-六-日、而如院宣者、通好之義、准唐漢之例、不可及子細、但彼國與我國、自昔無宿意、用兵之條、甚以不義之旨、可被遣返牒也、且草者可長成卿之由、諸卿評 定之由云々、而關東評定了、先度牒使來朝之時、不可返牒之由、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇三八〇号)
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「五年九月、命黑的、弘復持書往、至對馬島、日本人拒而不納、執其塔二郎、彌二郎二人而還。」
- ^ 『五代帝王物語』亀山院「(文永)同六年蒙古使高麗の舟にのりて又對馬國に着く。去年の返牒なきによりて。左右きかんため也。不慮の喧嘩いできて。歸國の間。對馬の二人とられて高麗へ渡る。高麗より蒙古へつかはしたれば。王宮へ召入て見て。種々の祿をとらせて。本朝へ返送。是に付て又牒状有。」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 449頁)
- ^ a b c d 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗十年(七月)甲子(二十一日)の条「甲子、蒙古使于婁大于琔等六人、偕倭人來、淐出迎于郊、初申思佺與倭人謁帝、帝大喜曰、爾國王祗稟朕命、使爾等往日本、爾等不以險阻爲辭、入不測之地、生還復命、忠節可嘉、厚賜匹帛、以至從卒、又謂倭人曰、爾國朝覲中國、其來尚矣、今朕欲爾國之來朝、非以逼汝也、但欲垂名於後耳、賚予甚稠、勑令觀覽宮殿、既而倭人奏云、臣等聞有天堂佛刹、正謂是也、帝悦、又使徧觀燕京萬壽山玉殿與諸城闕。」
- ^ 『関東評定衆伝』文永六年条「九月、蒙古高麗重牒状到來。牒使金有成。高柔二人也。還對馬嶋人答二郎。彌二郎。高柔依靈夢獻所持毛冠於安樂寺。即敍其由呈詩。」(『群書類従』第四輯 補任部 巻第四十九 続群書類従完成会 1960年 318頁)
- ^ a b c d 『太政官返牒』<○本朝文集六十七>「贈蒙古國中書省牒 菅原長成 日本國太政官牒 蒙古國中書省 附高麗國使人牒送、牒、得大宰府去年九月二十四日解状、去十七日申時、異國船一隻、來着對馬嶋伊奈浦、依例令存問來由之處、高麗國使人參來也、仍相副彼國幷蒙古國牒、言上如件者、就解状案事情、蒙古之號、于今未聞、尺素無脛初來、寸丹非面僅察、原漢唐以降之蹤、觀使介往還之道、緬依内外典籍之通義、雖成風俗融化之好禮、外交中絶、驪遷翰轉、粤傳郷信、忽請隣睦、當斯節次、不得根究、然而呈上之命、縁底不容、音問縱雲霧萬里之西巡、心夐忘胡越一體之前言、抑貴國曽無人物之通、本朝何有好惡之便、不顧由緒、欲用凶器、和風再報、疑冰猶厚、聖人之書、釋氏之教、以濟生爲素懷、以奪命爲黒業、何稱帝徳仁義之境、還開民庶殺傷之源乎、凡自天照皇大神耀天統、至日本今皇帝(亀山天皇)受日嗣、聖明所覃、莫不屬左廟右稷之靈、得一無貳之盟、百王之鎭護孔昭、四夷之脩靖無紊、故以皇土永號神國、非可以智競、非可以力爭、難以一二、乞也思量、左大臣(藤原家経)宣、奉敕、彼到着之使、定留于對馬嶋、此丹青之信、宣傳自高麗國者、今以状、牒到准状、故牒、文永七年正月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇五七一号)
- ^ 張東翼 2005.
- ^ 『大宰府守護所牒』<○本朝文集六十七>「贈高麗國牒 (菅原長成) 日本國大宰府守護所牒 高麗國慶尚晉安東道按察使來牒事 牒、尋彼按察使牒偁、當使□□□□□□□謹牒、着當府守護所、就來牒、凌萬里路、先訪柳營之軍令、達九重城、被降芝泥之聖旨、以此去月太政官之牒、宣傳蒙古中書省之衙、所偕返之男子等、艤護送之舟、令至父母之郷、共有胡馬嘶北、越鳥翥南之心、知盟約之不空、感仁義之云露、前頃牒使到著之時、警固之虎卒不來、海濱之漁者先集、以凡外之心、成慮外之煩歟、就有漏聞、恥背前好、早加霜刑、宣爲後戒、殊察行李淹留之艱難、聊致旅粮些少之資養、今以状牒、牒到准状、故牒、文永七年二月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇五八八号)
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「六年六月、命高麗金有成送還執者、俾中書省牒其國、亦不報。有成留其太宰府守護所者久之。」
- ^ 『高麗史節要』巻十八 元宗十一年五月丙寅の条「初崔瑀以国中多盗聚勇士、毎夜巡行禁暴、因夜別抄。及盗起諸道分遣別抄以捕之。其軍甚衆、遂分左右。又以国人自蒙古逃還者為一部、号神義軍。是為三別抄。権臣執柄以為爪牙、厚其俸禄。或施私恵。又籍罪人之財而給之。故権臣頤指気使、争先効力。金俊之誅崔 立宣、林衍之誅金俊、松礼之誅惟茂、皆藉其力。」
- ^ a b 吉田経長『吉続記』九月二日・四日条「二日癸亥 晴、參内、關東使隨身高麗牒状、向西園寺大納言許(高麗牒状到來事、)亞相參院申入云々、(中略)四日 晴、不出仕、件牒状趣、蒙古兵可來責日本、又乞糶、此外乞救兵歟、就状了見區分、」(笹川臨風、矢野太郎校訂『史料大成 第23巻 吉記二・吉続記』内外書籍 1935年 293頁)
- ^ a b 『高麗牒状不審条々』「一、以前状文永五年揚蒙古之徳、今度状文永八年韋毳無遠慮云々、如何、一、文永五年状書年號、今度不書年號事、一、以前状、歸蒙古之徳、成君臣之禮云々、今状、遷宅江華近四十年、被髮左衽聖賢所惡、仍又遷都珍島事、一、今度状、端ニハ不從成戰之思成、奧ニハ爲蒙被使云々、前後相違如何、一、漂風人護送事、一、屯金海府之兵、先廿餘人送日本國事、一、我本朝統合三韓事、一、安寧社稷待天時事、一、請胡騎數萬兵事、一、達兇旒許垂寛宥事、一、奉贄事、一、貴朝遣使問訊事、」(歴史学研究会、村井章介編集『日本史史料〈2〉中世』岩波書店 1998年3月) この三別抄からの書状については『吉続記』文永8年9月2日条とその対応を伝える同9月4日条の記述しか窺い知るしかなかったが、その「牒状」についての不審点を箇条書きしたメモ「高麗牒状不審条々」が1977年に東京大学資料編纂所で石井正敏によって発見された。三別抄からの書状の本文ではないが、「条々」で上げられている内容の検討から、この書状は高麗国王・元宗からのものについてではなく、珍島に拠点を移していた三別抄が出した書状についてであった。石井正敏「文永八年来日の高麗使について--三別抄の日本通交史料の紹介」『東京大学史料編纂所報』12号, pp. 1-7+図巻頭1p, 1977年。
- ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元八年三月己卯条「乙卯、中書省臣言、高麗叛臣裴仲孫乞諸軍退屯、然后内附。而忻都未從其請、今願得全羅道以居、直隸朝廷。」
- ^ a b 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年四月庚戌の条「庚戌、金方慶與忻都茶丘等、以全羅道一百六十艘水陸兵一萬餘人、至耽羅與賊戰、殺獲甚衆、賊衆大潰斬、金元允等六人分處降者一千三百餘、」
- ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月己巳の条「己巳、勅發屯田軍二千、漢軍二千、高麗軍六千、仍益武衞軍二千、征耽羅。」
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 耽羅「十年正月、命經略使忻都、史枢及洪茶丘等率捕船大小百有八艘、討耽羅賊党、」
- ^ 『五代帝王物語』亀山院「同(文永)八年九月十九日筑前國今津に異國人趙良弼を始として百餘人來朝の間。軍船と心得て宰府さはぎけれども。其儀はなくて是も蝶状也。但辛櫃に納て金鎖を指て王宮へ持參して帝王に獻れ。それ叶はずば時の將軍に傳えて參らすべし。其儀もなくば持て歸べき由王敕を承たれば。手をはなつべからずとて。案を書て出したり。是も返蝶に及ず。此國後は大元國と號す。威徳のまさるに從て名を改とかや。されば始終いかなるべきにかと恐しく覺侍。」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 449頁)
- ^ a b c d e 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「九年二月、樞密院臣言、奉使日本趙良弼遣書狀官張鐸來言、去歲九月、與日本國人彌四郎等至太宰府西守護所、守者云、曩為高麗所紿、屢言上國來伐、豈期皇帝好生惡殺、先遣行人下示璽書、然王京去此尚遠、願先遣人從奉使回報、良弼乃遣鐸同其使二十六人至京師求見、帝疑其國主使之來、云守護所者詐也、詔翰林承旨和禮霍孫以問姚樞、許衡等、皆對曰、誠如聖算、彼懼我加兵、故發此輩伺吾強弱耳、宜示之寬仁、且不宜聽其入見。從之、」
- ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十二年正月己卯の条「復遣趙良弼、充國信使、期于必達、仍以忽林赤王國昌洪茶丘、將兵送抵海上、此國信使還、姑令金州等處屯住、」
- ^ 『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑「既至、宋人与高麗・聃羅共沮撓其事。留公太宰府、専人守護。第遣人応返議事、数以兵威相恐。或中夜排垣破戸、兵刃交拳。或火其隣舎、喧呶叫号。夜至十余発。公投牀大鼾、恬若不聞。如是者三日、彼詐窮変索公、呼守護所、大加詬責。彼来請受国書。公言、国書当俟見国主日致達。数欲脅取、公以辞拒之。嘖有煩言、随方詰難、彼不能屈。」
- ^ a b 吉田経長『吉続記』十月廿四条「今度蝶状、朝使直可持參帝都、不然者不可放手之由申之、蠻夷者參帝闕事無先例、蝶状之趣可承之由、少卿問答、就之、彼朝使書寫蝶状、與少卿、彼状自關東進之、其趣、度々雖有蝶状、無返蝶、此上以來十一月可爲期、猶爲無音者、可艤兵船云々、可有返蝶云々、先度長成卿草少々引直可被遣云々、」(笹川臨風、矢野太郎校訂『史料大成 第23巻 吉記二・吉続記』内外書籍 1935年 304頁)
- ^ 吉田経長『吉続記』文永八年十一月廿二条「廿二日、參院、異國事有評定、仍不能奏事、次參内、熾盛光法爲異國御祈、座主證覺僧正於惣持院、自今日可被始行云々、」(笹川臨風、矢野太郎校訂『史料大成 第23巻 吉記二・吉続記』内外書籍 1935年)
- ^ a b 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年正月丁丑の条「丁丑、趙良弼還自日本、遣書狀官張鐸、率日本使十二人如元、王遣譯語郞將白琚、表賀曰、盛化旁流、遐及日生之域、殊方率服、悉欣天覆之私、惟彼倭人、處于鰈海、宣撫使趙良弼、以年前九月、到金州境、裝舟放洋而往、是年正月十三日、偕日本使佐一十二人、還到合浦縣界、則此誠由聖德之懷綏、彼則嚮皇風而慕順、一朝涉海、始修爾職、而來萬里瞻天、曷極臣心之喜、玆馳賤介、仰賀宸庭。」
- ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月乙亥の条「可建國號曰大元、蓋取易經乾元之義。」
- ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年三月乙丑の条「諭旨中書省、日本使人速議遣還。安童言、良弼請移金州戍兵、勿使日本妄生疑懼、臣等以爲金州戍兵、彼國所知、若復移戍、恐非所宜、但開諭來使、此戍乃爲耽羅暫設、爾等不須疑畏也、帝稱善。」
- ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年(四月)甲午(七日)の条「甲午、遣御史康之邵、護日本使還其國。」
- ^ a b 『賛皇復県記』「(趙良弼)承命東使日本。鯨海浩瀚、莫測其際。叛賊耽羅蔽其衝。公仗忠信、直抵其國、論以天子威徳。方制數十萬里、靡不從命。東夷悦服、既遣使詣闕。時僞宋以海道去兩浙不遠大畏之、遣僧滕原瓊林等、爲諜止行。日本人與公語、公面折之、縷數宋人浮僞無信。「今西淮襄漢四川、悉爲我有、但東南彈丸地、尋亦不保。」前後數百言、僧語塞不能對。日本亦栗然畏懾。履至危之地、馮仗威靈、無所辱命、全節而歸。」(太田彌一郎「石刻史料「賛皇復県記」にみえる南宋密使瓊林について--元使趙良弼との邂逅--」『東北大学東洋史論集』6 東洋史研究室 1995年)
- ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年(十二月)庚戌(二十六日)の条「元復遣趙良弼、如日本招諭。」
- ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年(四月)甲午(七日)の条「甲午、遣御史康之卲、護日本使還其國。」
- ^ 『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑「日本遂遣使介十二人入覲。上慰論遣還。其国主疑奉表講和。会々宋人使僧曰瓊林者、来渝平。以故和事不成。公還、以疾請帰老樊川。」
- ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年(三月)癸酉(二十日)の条「趙良弼如日本、至大宰府、不得入國都而還。」
- ^ a b 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十年六月戊申の条「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵號、州郡名數、風俗土宜來上。」
- ^ a b c d 『元史』巻一百五十九 列伝第四十六 趙良弼「十年五月、良弼至自日本、入見、帝詢知其故、曰卿可謂不辱君命矣。后帝將討日本、三問、良弼言、臣居日本歲餘、睹其民俗、狠勇嗜殺、不知有父子之親、上下之禮。其地多山水、無耕桑之利、得其人不可役、得其地不加富。況舟師渡海、海風無期、禍害莫測。是謂以有用之民力、填無窮之巨壑也、臣謂勿擊便。帝從之。」
- ^ a b c 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年正月の条「春正月、元遣總管察忽、監造戰艦三百艘、其工匠役徒一切物件、全委本國應副、於是以門下徒侍中金方慶爲東南道都督使、元又以昭勇大將軍洪茶丘爲監督造船官軍民總管、茶丘約正月十五日興役、催督甚嚴、王以樞密院副使許珙爲全州道都指揮使、右僕射洪祿遒爲羅州道都指揮使、又遣大將軍羅裕於全羅道、全伯鈞於慶尚道、朴保於東界、國子司業潘阜於西海道、將軍任愷於交州道、各爲部夫使、徴集工匠役徒三萬五百餘名、起赴造船所、是時驛騎絡繹、庶務煩劇、期限急迫、疾如雷電、民甚苦之。」
- ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年五月己丑(十四日)の条「己丑、元征東兵萬五千人來。」
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一年)五月、皇女忽都魯掲里迷失下嫁于世子愖。」
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一年)七月、其樞密院副使奇蘊奉表告王禃薨、命世子愖襲爵、詔諭高麗國王宗族及大小官員百姓人等、其略曰國王禃存日、屡言世子愖可爲繼嗣。今令愖襲爵爲王。凡在所屬、并听節制。八月、世子愖還至其國襲位。」
- ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年(六月)辛酉(十六日)の条「辛酉、遣大將軍羅裕如元、上中書省書曰、今年正月三日、伏蒙朝旨、打造大船三百艘、既行措置、遣樞密院副使許珙於全州道邊山、左僕射洪祿遒於羅州道天冠山備材、又以侍中金方慶爲都督使、管下員將、亦皆精揀、所須(功に「夫」)匠物件、並於中外差委、催督應副、越正月十五日聚齊、十六日起役、至五月晦告畢、船大小幷九百隻造訖、合用物件、亦皆圓備、令三品官能幹者、分管廻泊、已向金州、伏望諸相國、善爲敷奏。」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉(六日)の条「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍(高麗軍)四百五十八人。」
- ^ 『肥後小代文書』関東御教書「(上包)「北条相模守時宗 北条左京大夫政村」蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所差遣御家人等於鎮西也、早速自身下向肥後国所領、相伴守護人(名越時章)、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件、文永八年九月十三日 相模守(北条時宗)(花押)左京権大夫(北条政村)(花押) 小代右衛門尉(重俊)子息等」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇八七三号)
- ^ 『薩摩二階堂文書』関東御教書「(上包)「北条相模守時宗 北条左京大夫政村」蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所下遣御家人等於鎮西也、早速差下器用代官於薩摩国阿多北方、相伴守護人、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件、文永八年九月十三日 相模守(北条時宗)(花押)左京権大夫(北条政村)(花押) 阿多北方地頭(二階堂行景妻忍照)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇八七四号)
- ^ a b 川添昭二『元寇防塁編年史料―注解異国警固番役史料の研究』福岡市教育委員会 1971年 57頁
- ^ 『尊敬閣所蔵野上文書』大友頼泰書下「「(付箋)大友出羽守頼泰」「(端書)守護所廻文<筑前・肥前両国要害警固事 到来文永九二十六>」筑前・肥前両国要害守護事、東国人々下向程、至来三月晦日、相催奉行国々御家人、可警固之由、関東御教書到来、仍且請取役所、且為差御家人御代官等、已打越候畢、不日相尋亍彼所、無懈怠、可令勤仕候也、恐々謹言、文永九年二月朔日 (大友)頼泰(花押) 野上太郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇九六四号)
- ^ 『薩摩延時文書』平忠俊・同忠恒連署譲状「(端裏書)「□かおかにし太郎とのゝくますにゆつ□(花押)」たゝしかのなりをかのミやうてん(名田)のうち(内)、のたそのら、しよ□くらにゆつ(譲)りあた(与)ふるふん(分)にをいてハ、かくへつの□をたいするあいた、これをのそ(除)くところなり、(花押) ゆつ(譲)りあた(与)ふるあさ(字)なくますまろ(熊寿丸)かところに、平たゝとし(忠俊)か□(せんカ)そ(先祖)そうてん(相伝)のそりやう(所領)、なりおかの名のてんはく(田畠)薗、ならひにさんや(山野)かりくら(狩倉)の事、た(田)のつほ/\(坪々)・はくち(畠地)の四至・その(薗)ゝさかい、しんふ(親父)平忠恒ゆりしやう(譲状)、たゝとし(忠俊)か所帯のしやう(状)にめいはく(明白)也、右、くたん(件)のてんはく(田畠)・その(薗)・さんや(山野)のかりくら(狩倉)にをいてハ、忠俊をちやくし(嫡子)として、ゆつ(譲)りあた(与)へられおはぬ(畢)、こゝに、異国の人襲来せしむへきあいた(間)、関東の御けうしよ(教書)のむね(旨)にまか(任)せて、親父たゝつね(忠恒)のたいくわん(代官)として、上府(太宰府)して、やく(役)所をうけとりて、きんし(勤仕)せしむへきによりて、参府するところなり、これによ(仍)て、かつハ海路のなら(習)いなり、かつハ軍庭におもむくあいた(間)、若たゝとし(忠俊)しせん(自然)の事もあらハ、件ミやう(名)のてんはく(田畠)・さんや(山野)・かりくら(狩倉)にをいてハ、たゝつね(忠恒)のゆつ(譲)りをあいそ(相副)へて、くますまろ(熊寿丸)をちやくし(嫡子)として、しゝそん/\(子々孫々)にいたるまで、た(他)のさまた(妨)けなく、ちきやう(知行)せしむへきなり、後日のゐらん(違乱)をとゝ(停)めむかために、しよはんを給ハるところ也、よ(仍)てゆつりしやう(譲状)、くたんのことし、文永九年<歳次/壬申>卯月三日 平忠俊「盛岡次郎」(花押)平忠恒(花押) (裏)「為証人 平忠重(花押) 湛西(花押)」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇〇三号)
- ^ 『諸家文書纂野上文書』小田原景泰書遵守状「肥前、筑前両国要害警固事、并、豊後国中悪党沙汰事、今年二月廿五日、守護所御書下如此子細被載状候、早且守状、且無左右不可棄件要害役所給候、仍、為其沙汰、景泰、令下向候也、恐々謹言、文永九年卯月廿三日 藤原(小田原)景泰(花押) 野上太郎(資直)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇一五号)
- ^ 『薩藩旧記五延時文書』少弐資能博多津番役請取状「被下 関東御教書候異国警固事、自去四月十七日被上府候、迄今月十六日、博多津番役、被勤仕了、恐々謹言、文永九年五月十七日 覚恵(少弐資能)(花押) 盛岡二郎殿「平忠俊」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇三四号)
- ^ 『比志島文書』「(折紙)被下 関東御教書候異国警固事、自去六月廿四日迄今月廿四日、博多津番役、被勤仕候了、恐々謹言、(文永九年カ)七月廿五日 覚恵(少弐資能)(花押) 薩摩国千島太郎(佐範)殿代河田右衛門尉(盛資)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一〇六八号)
- ^ 『将軍執権次第』文永九年条「時輔。式部大夫。二月十五日於六波羅南方被誅畢。廿五。」(塙保己一編『群書類従』第四輯 補任部 巻第四十八 続群書類従完成会 1960年 259頁)
- ^ a b c 『高麗史』巻一二六 列伝三十九 姦臣 洪福源「明年(元宗十三年)、倭船泊金州、慶州道安撫使曹子一、恐元責交通、密令還去、茶丘聞之、嚴鞫子一、鍛錬以奏曰、高麗與倭相通、王遣張暐、請繹子一囚、一日茶丘遽還元、人莫知其故、王慰鍮之、」『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年七月甲子(八日)の条「秋七月甲子、倭船至金州、慶尚道道安撫使曹子一、恐元責交通、密令還國、洪茶丘聞之、嚴鞫子一、馳聞于帝。/己亥、洪茶丘殺曹子一。」
- ^ 『肥前松浦家文書』少弐資能施行状「今年八月三日 関東御教書、今日十六日到来、為案之、如状者、豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬國國御家人等事、或本御家人并地頭補任所々、或給御下知知行之輩、及就質券売買之由緒、被成安堵之族、云其所名字分限、云領主之交名、且糺明所帯御下文・御下知、且不漏一所、平均可令注進之由、所被仰下候也、然者随身所書帯證文、可被上府候、任 御教書之状、糺明子細、可令注進言上候、更不可有遅怠之儀候也、恐々謹言、(文永十年)十一月十六日 沙彌(少弐資能)(花押)山代孫三郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一四六八号)
- ^ 広橋兼仲『勘仲記』文永十一年十一月十四日条「晴、依筥崎宮火事、自今日三个日廢朝云々、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月 88頁)
- ^ 蒙漢軍は元朝から派遣された軍であるが、1269年10月に、崔坦ら親元派の高麗軍人たちが反元派である林衍の排除を口実に反乱を起こし、高麗北西部の府、州、県、鎮60城を以って元朝に降伏して、慈悲嶺(現在の北朝鮮黄海北道鳳山郡東部)を境界とする高麗領の北半分が東寧府として元朝の直轄領となって接収された。これに伴い東寧府内の鳳州など各地に屯田軍が設置されている。文永の役ではこれらの地域に駐屯していた諸軍が日本侵攻に派遣された。「蒙漢軍二万五千」とは、大都などの華北地域から増派された部隊や東寧府、高麗領内の駐屯軍からなり、その内訳はモンゴル人、契丹人、女真人、水達達や漢人などから編成された部隊だと考えられるものの、その具体的な編成についてはなお不明な点が多い。
- ^ a b c d 『八幡ノ蒙古記』「同十一年十月五日卯時に、對馬國府八幡宮假御殿の内より、火焔おひたゝしく、もえいつ、國府在家の人々、焼亡出来しよと見るに、もゆへき物もなきを、怪しみけるほとに、同日申時に、對馬の西おもて、佐須浦に、異國船見ゆ、」(1ウ)其数四五百艘はかりに、凡三四萬人もやあらんと、見るはかり寄来る、同日酉時、國府の地頭につく、即地頭宗馬允資國、八十餘騎、同日丑時、彼浦にゆきつく、翌日卯時、通人真継男を使者として、蒙古人に、事のしさいを尋る処に、散々に舟よりいる、大船七八艘より、あさち原へ、おりたつ勢、一千人もあらんと見ゆ、其時、宗馬允、陣をとりて戦ふ、いはなつ矢に異國人、数しらす、いとらる、此中に大将軍と、おほし」(2オ)き者四人、あし毛なる馬にのりて、一はんに、かけむかふ者、宗馬弥二郎に右の乳の上を、いられて、馬よりおつ、此時、馬允に射倒さるゝ者、四人、宗馬允かく戦ふといへとも、終にうたれぬ、同子息宗馬次郎、養子弥二郎、同八郎親頼、刑部丞郎等に三郎、庄太郎、入道源八、在廰左近馬允手人、肥後國御家人、口井藤三、源三郎、已上十二人、同時に討死す、蒙古、佐須浦に火をつけて、焼拂ふよし、宗馬允か郎等、小太郎、兵衛次郎」(2ウ)博多にわたりて告しらす、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 193-194頁)
- ^ 江戸時代に対馬藩で編纂された『十九公実録』『宗氏家譜』などの資料では「宗助国」としているが、日蓮書簡や『八幡愚童訓』などの鎌倉時代、室町時代中期までの資料では通常、「宗資国」と書かれる。
- ^ 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆」
- ^ 『金方慶墓誌銘』「又奉東征之命。甲戌、入討日本、俘馘甚多越。」(『第5版 高麗墓誌銘集成』翰林大学校出版部 2012年1月5日 407頁)
- ^ 「去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一八九六号)
- ^ 海老沢哲雄「元代奴婢問題小論」『社会文化史学』 第8号、1972年7月
- ^ 『高麗史』 巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年「(十二月)庚午(二十八日)、侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、獻王及公女。」
- ^ a b 『八幡ノ蒙古記』「同十四日申時に壱岐嶋の西おもてに蒙古の兵船つく、其中に二艘より四百人はかりおりて、赤旗をさして東の方を三度、敵の方を三度拜す、其時、守護代平内左衛門尉景隆并御家人百餘騎、庄三郎か城の前にて矢合す、蒙古人か矢は、二時はかりいる間に守護代か方にも二人手負、異敵は大勢なり、終に叶ふへくもなかりけれは、城のうちへ引退て合戦す、同十五日に、攻めおとされ」(3オ)て城の内にて自害す、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁)
- ^ 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、厲聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、」
- ^ 『日蓮書状』<○日蓮上人遺文>「(前略)壹岐・對馬・九ヶ國のつはもの竝に男女、多く或はころされ、或はとらはれ、或は海に入、或はかけよりをちしもの、いくせんまんと云事なし、又今度よせなは、先にはにるへくもあるへからす、京と鎌倉とは、但壹岐・對馬の如くなるへし(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一九八〇号)
- ^ a b 『八幡ノ蒙古記』「同十六□(日カ)、十七日の間、平戸、能古、鷹嶋の男女多く捕らる、松浦黨敗す。」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁) なお、『八幡愚童訓』諸本のうち、橘守部が『八幡愚童訓』の文永・弘安の役部分の原本と看做している『八幡ノ蒙古記』には平戸、能古、鷹島の襲来についての記述があるが、『八幡愚童訓』の現存諸本のうち平戸、能古、鷹島の襲来について、菊大路本(鎌倉時代末期)、東大寺上生院本(文明12年)、文明本(愛媛県八幡浜市八幡神社蔵本、文明15年)など主要な諸本では記述がない。
- ^ 『石志文書』源兼譲状案「譲与、字猟子所四至境見本證文合二箇所 石志(肥前松浦郡)土毛間事右、件於所領者、兼祖先相伝私領也、而蒙國人之合戦仁、嫡子二郎をハ相具天むけ候あいた、息災にてもとらん事もありかたく候へハ、れうしにあてゝ、所領のてつきせしむるところ也、若又、二郎いのちいきたらんにおきてハ、一後(ママ)のほとすこしのさまたけあるへからす、然者、相具代々手継證文等、無相違可令領知也、仍手継證文之状如件、文永十一年甲戌十月十六日 源兼在判又袈裟童御せん、妃童御前のために、せうせうの事をハあいはからいて、ふひんにあたり給候へく候、在判、(裏書)又かやうにゆつりたてまつりてのちに、たといいつれの子ありといふとも、四郎よりほかにたふへからす候、弘安四年辛巳壬七月十六日 源兼在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七二八号)
- ^ 『有浦文書』関東裁許状「(前略)蒙古合戦之時、房幷嫡子直・二男留・三男勇等殞命畢、(後略)」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百三十号)
- ^ 円明院日澄撰『日蓮註画讃』巻第五 蒙古來「二島百姓等男或殺或捕、女集一所、徹手結附船、不被虜者、一人不害。肥前國松浦黨數百人、或伐或虜、此國百姓男女等、如壹岐對馬。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二11頁) 『日蓮註画讃』は日蓮の書簡や『八幡愚童訓』に依拠しつつ室町時代に執筆されている。
- ^ a b c 『築後高良神社文書』将軍家政所下文案「将軍家政所於博多津、去文永十一年蒙古襲來之刻、肥後・薩摩・日州・隅州之諸軍馳參之砌、筑後河神代浮橋、九州第一之難處之處、神代良忠以調略、諸軍轍打渡、蒙古退治之事、偏玉垂宮冥慮、扶桑永代爲安利之由、所仰如件、建治元年十月二十九日 別当相模守平朝臣(北条時宗)判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二〇七八号)ただし、『鎌倉遺文』の編者である竹内理三氏はこの書状を稍疑うべしとしている。
- ^ 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつまりたれは、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁)
- ^ なお『大友文書』関東御教書案によれば、この時の武士らは自らの所領を守るとして大宰府に赴かなったり、戦場に臨んでも進んで戦おうとしない者が多数いたことが記されているが、近年の研究により、この文書は偽文書であったことが判明している。この文書は文永の役の際における武士らの怠慢を幕府が批判し、今後もし同様のことがあるならば罪科に問うことを大友家に対して全国の御家人等に普く伝えるよう命ずる文書である。歴史学者・村井章介によれば、通常の関東御教書は名宛人が守護職を持つ国名が書かれているのが通例であり、その記載が無く「普」文言を使う場合は、名宛人の権限が全国に及ぶ場合のみであり、この文書では大友頼泰の指揮権が全国の御家人に及んでいることや弘安年間に出家した大友頼泰が兵庫入道と称され出家しているなど当時の実情とは合わない記述があることから、偽造された文書であることを明らかにしている。村井章介は偽書が作成された背景として、1350年(観応元年)に肥前守護職を失い豊後国一国のみの領域に限定されるなど衰退していた後世の大友家が、鎌倉時代の自家の指揮権が全国の御家人らに亘っていたことを主張する意図があったとしている。村井章介『遥かなる中世18号--具書案と文書偽作 「立花家蔵大友文書」所収「鎌倉代々御教書」についての一考察--』中世史研究会 2000年3月 『大友文書』関東御教書案「異賊去年襲來之時、或臨戦場不進闘、或稱守當境不馳向之輩、多有其聞、甚招不忠之科歟、向後若不致忠節者、随令注申、可被行罪科也、以此旨、普可令相觸御家人等之状、依仰執達如件、建治元年七月十七日 武蔵守(北条義政)在判 相模守(北条時宗)同 大友兵庫入道(頼泰)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一九六二号)
- ^ a b c d e 『福田文書』福田兼重申状写「右、去年十月廿日異賊等龍衣(襲カ)渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 334頁)
- ^ 1931年に著された歴史学者の池内宏による『元寇の新研究』以降、通説では元軍の上陸地点は今津、百道原、博多の三か所であり、百道原から上陸したのが高麗軍、今津と博多から上陸したのが蒙古・漢軍であったとされているが(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 149〜150頁)、元軍が今津、博多、百道原の三か所から分かれて上陸したとする史料は存在しない。史料としては、蒙古・漢軍が博多から上陸したとする史料はなく、今津から上陸したことがうかがえるのが宗教書である『八幡愚童訓』の1点史料のみである。対して百道原があった早良郡から上陸したとする史料は、参戦していた肥前国御家人・福田兼重の書状である『福田文書』福田兼重申状に「去年十月廿日異賊等龍衣(襲カ)渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間」とあり、他に捕虜の元兵の証言が収録されている日朝『朝師御書所見聞 安国論私抄』にも「モモミチハラニオルルナリ」と記載され、鎌倉時代末に編纂された『一代要記』においても「攻來筑前國早良郡」とある。また、元側の史料『高麗史』にも「三郎浦」なる地点から上陸したことが記されており、「三郎」という単語と「早良」が音が通じるため、「三郎浦」とは「早良郡」であった可能性もある。以上のように百道原があった早良郡から上陸したとする史料が他を圧倒しており、元軍は百道原を中心に上陸したとみられる。また、通説である百道原から上陸したのが高麗軍のみとする説は、蒙古・漢軍に属していた捕虜の元兵が百道原から上陸したことを証言したことが『朝師御書所見聞 安国論私抄』に載っており、上陸したのが高麗軍のみとする説は誤りである。
- ^ a b 日朝『朝師書所見聞 安国論私抄』 第一 文永十一年蒙古責日本之地事「或記云蒙古ノイケドリノ白状ニ云、蒙古ノ年號ハ至元十一年三月十三日ニ蒙古國ヲ出テ高麗國ノカラカヤノ城ヲコシラヘテ、船ソロヘヲシ勢ヲ集テ、同九月二日ニカラカヤノ津ヲ出シニ、ノキタノ奥ニテ船一艘ニヘ入ル、蒙古ノ物三人生殘リ了、又四日ニ當ニ船一艘燒亡出來テ燒ケ死ス、十月六日對嶋ニヨセ來レリ、同十四日壹岐嶋ニ寄タリ、同二十日モモミチハラニオルルナリ、又船ノ數ハ一ムレニ百六十艘、總ジテ已上ハ二百四十艘也、船一艘別ニ兵三百人水主七十人馬五疋ハシラカス、カナツル四ツツナリ、」(『日蓮宗宗学全書 御書所見聞集 第1』日蓮宗宗学全書刊行会 1922年 17頁)
- ^ a b c 『蒙古襲来絵詞』詞四「たけふさ(武房)にけうと(凶徒)あかさか(赤坂)のちん(陣)をか(駆)けお(落)とされて、ふたて(二手)になりて、おほせい(大勢)はすそはら(麁原)にむ(向)きてひ(退)く。こせい(小勢)はへふ(別府)のつかハら(塚原)へひ(退)く、」
- ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 58.
- ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞七「日のたいしやう(大将)たさい(太宰)のせうに三らうさゑもんかけすけ(少弐三郎左衛門景資)、はかた(博多)のおき(息)のハま(浜)をあひかた(固)めて、一とう(一同)にかせん(合戦)候へしと、しきりにあひふれられ候しによて、すゑなか(季長)ゝ一もん(門)そのほか(他)、たいりやく(大略)ちん(陣)をかた(固)め候なかをいて候て、」
- ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞一「あかさか(赤坂)はむま(馬)のあしたち(足立ち)わろく候。これにひか(控)へ候ハゝ、さためてよ(寄)せきたり候ハんすらん。一とう(一同)にかけて、をものい(追物射)にい(射)るへきよし申さるゝにつきて、けんしち(言質)のやくそく(約束)をたか(違)へしとて、をのゝゝ(各々)ひか(控)へしあいた、」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞三「はかた(博多)のちん(陣)をう(討)ちいて、ひこ(肥後)のくに(国)[ ]一はん(番)とそん(存)し、すみよし(住吉)のとりゐ(鳥居)の[ ]す(過)き、こまつはら(小松原)をうちとを(通)りて、あかさか(赤坂)には[ ]かふところに、あしけ(芦毛)なるむま(馬)に、むらさきさかおもたか(紫逆沢潟)のよろひ(鎧)に、くれなゐ(紅)のほろ(母衣)をか(懸)けたるむしや(武者)、そのせい(勢)百よき(余騎)はか(計)りとみへて、けうと(凶徒)のちん(陣)を[ ]り、そくと(賊徒)を(追)ひお(落)として、くひ(首)二たち(太刀)となきなた(長刀)のさき(先)につら(貫)ぬきて、さう(左右)にも(持)たせてま[ ]とゆゝしくみ(見)へしに、たれ(誰)にてわたらせ給候そ、すゝ(涼)しくこそみ(見)え候へと申に、ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)の二郎たけふさ(武房)と申すもの(者)に候、かくおほせられ候ハたれ(誰)そとと(問)ふ、をな(同)しきうち(内)たけさき(竹崎)の五郎ひやうへすゑなか(兵衛季長)、か(駆)け候、御らん(覧)候へと申ては(馳)せむ(向)かふ。」
- ^ a b c d e f 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「兵仗有弓刀甲、而無戈矛、騎兵結束。殊精甲往往代黄金為之、絡珠琲者甚衆、刀製長極犀、銃洞物而過、但弓以木為之、矢雖長、不能遠。人則勇敢視死不畏。」川越泰博 1975, p. 28掲載
- ^ 佐藤鉄太郎 『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』錦正社史学叢書 錦正社 2005年4月 286~288頁
- ^ a b c 文永の役の激戦地ともなった鳥飼、百道原、姪浜はいずれも早良郡に属している。角川日本地名大辞典編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典 第40巻 福岡県』1988年 949、1343、1356頁
- ^ a b c d 『蒙古襲来絵詞』詞四「つかハら(塚原)よりとりかひ(鳥飼)のしほ[ひ]かた(汐干潟)を、おほせい(大勢)になりあハむとひ(退)くをお(追)かくるに、むま(馬)ひかた(干潟)にはたハ(倒)して、そのかたき(敵)をのハ(逃)す。けうと(凶徒)ハすそはら(麁原)にちん(陣)をとりて、いろゝゝ(色々)のはた(旗)をた(立)てなら(列)へて、らんしやう(乱鐘)ひま(暇)なくして、ひしめきあ(合)ふ。すゑなか(季長)は(馳)せむ(向)かふを、とうけんたすけみつ(藤源太資光)申す。御かた(味方)ハつゝき候らん、御ま(待)ち候てせう人をた(立)てゝ御かせん(合戦)候へ、と申を、きうせん(弓箭)のみち(道)さき(先)をも(以)てしやう(賞)とす、たゝか(駆)けよとて、をめいてか(駆)く。」
- ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞四「けうと(凶徒)すそハら(麁原)より、とりかいかた(鳥飼潟)のしほや(塩屋)のまつ(松)のもと(下)にむ(向)けあハせてかせん(合戦)す。一はん(番)にはたさしむま(旗指馬)をい(射)られては(跳)ねを(落)とさる。すゑなか(季長)いけ(以下)三き(騎)いたて(痛手)を(負)ひ、むま(馬)い(射)られては(跳)ねしところに、ひせん(肥前)のくに(国)の御け人(御家人)しろいし(白石)の六郎みちやす(通泰)、こちん(後陣)より大せい(大勢)にてか(駆)けしに、もうこ(蒙古)のいくさ(戦)ひ(引)きしり(退)そきて、すそはら(麁原)にあ(上)かる。むま(馬)もい(射)られすして、ゐてき(異敵)のなか(中)にか(駆)けい(入)り、みちやす(通泰)つゝ(続)かさりせハ、し(死)ぬへかりしみなり、」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞七「はかた(博多)のちん(陣)をう(打)つい(出)て、とりかひ(鳥飼)のしおひかた(汐干潟)には(馳)せむ(向)かひ候て、さき(先)をし候てかせん(合戦)をいたし、はたさ(旗指)しのむま(馬)、おな(同)しきの(乗)りむま(馬)をいころ(射殺)され、すゑなか(季長)、三井の三郎、わかたう(若党)一人、三き(騎)いたて(痛手)をかうふ(被)り、ひせん(肥前)のくに(国)の御け(家)人しろいし(白石)の六郎せう(証)人にた(立)て候て、かけすけ(景資)のひきつ(引付)けに一はん(番)につき候し事、」
- ^ a b 『都甲文書』大友頼泰勘状写 「蒙古人合戦事、於筑前国鳥飼濱陣、令致忠節給候之次第、已注進関東候畢、仍執達如件、文永十一年十二月七日 (大友)頼泰 都甲左衛五郎(惟親)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七七一号)
- ^ 『財津氏系譜』日田永基伝「文永十一年十月二十日、拒異賊於筑前國姪濱百路原両所一日二度大破之。」(芥川 竜男・福川 一徳編校訂『西国武士団関係史料集 〈1〉財津氏系譜』文献出版 1991年 29頁)
- ^ 『日田記』「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡ニ軍ヲ出シ姪ノ浜百路原両処ニ於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」(財津 永倫、芥川 竜男、財津 永延『日田記』文献出版 1977年 61〜62頁)
- ^ 『武藤系圖』少弐景資伝「弘安(文永カ)蒙古出來時、蒙古大将於百道原射留ラル」(『続群書類従』巻百四十九 系図部)
- ^ 『新元史』巻一百四十三 列傳第四十 劉復亨「戰于百道原、復亨披赤甲、縱横指揮、鋒鋭甚。日本將三郎景資射復亨墜馬、乃引軍還、」ただし、洪鈞の『元史訳文証補』や同時期の民国時代に編纂された屠寄の『蒙兀児史記』に比べ典拠を明らかにしない事で有名な『新元史』の通例に漏れず、『新元史』の編者・柯劭忞はここでも記述のもととなった典拠資料を記載していない。
- ^ a b c d e f g h i j 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「諸軍與戰、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、」
- ^ 少弐景資と大友頼泰は鳥飼潟の戦いに引付(参陣・戦功を記録すること)を行い竹崎季長や都甲惟親に書下を与えている。合戦に加わらず引付を行うことはあり得ないことから両名がこの戦いに加わっていたと推測される。佐藤鉄太郎 2003, p. 61
- ^ a b 佐藤鉄太郎 2003, p. 61.
- ^ 『福田兼重申状』及び『大友頼泰勘状写 都甲文書』(『鎌倉遺文』一一七七一号) (佐藤鉄太郎 2003, p. 61)
- ^ a b c d e 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「太宰小貳三郎左衛門尉景資殿を、日大将軍として待かけたるところ、十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬やにのり、旗をあけて攻めかゝる、こゝに前小貳入道覺慧孫」(4オ)わつかに十二三なるか、矢合の為とて小鏑を射出したりしに、蒙古一度に、とつと笑ひ、大皷をたゝき、とらを打て鬨をつくる事おひたゝし、日本の馬も、これにおとろき、をとり、はねくるふほとに、馬をこそ刷ひしか、向はんとする時の、おくれけるうちに、射かけらる、蒙古か矢、みじかしといへとも、矢のねに毒をぬりたれは、ちともあたる処、とくに氣にまく、かくて敵より数百人、矢さきを、そ」(4ウ)ろへて雨のことくに、いけるに、向ふへくもあらす、楯、鉾、長柄、物の具の、あき間をさして、はつさす、一面にたちならんて、もし、よする者あれは、中に包て引退て、左右より端をまはし合せて、とりこめて、皆ころしける、其中に、よくふるまひ死したるをは、腹をさき肝をとりてそ、のみにける、もとより牛馬の肉を、うまきものとする國なりけれは、人のみならす、いころさる□馬をも、とりて」(5オ)食とせり、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194〜195頁)
- ^ a b c d e f g h i 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つよく、命をします、豪盛勇猛、自在きはまりなく、かけ引せり、大将は高き所にあかりゐて、引へき所は、逃皷をうち、駈へき時には攻皷を鳴し、それにしたかふて、ふるまへり、その引ときに、てつほうとて、鉄丸に火を包て烈しく、とはす、あたりおちて、わるゝ時、四方に火をとはし、火烟を以て、くらます、又、其音、甚高けれは、心を迷はし、きもをけ」(5ウ)し、目くれ耳ふたかりて、東西をしらすなる、これかために、打るゝ者、多かり、日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に、此合戦は、大勢一度に、より合、足手のうこく所、われもゝゝと取つきて、おし殺し、又は生捕けり、この故に、かけ入ほとの日本人に、一人として、もれたる者こそなかりけれ、其中にも松浦いさみたりし故、おほく打れぬ、原田一類、澤田に、おひこまれ」(6オ)て、うせにけり、日田、青屋二三百騎はかりにて、ひかへたり、青屋かのりたる馬、口つよくして、しねんに敵陣にそ引れたる、主人入しかは、かの手に、したかふものとも、つゝいて、かけ入たりけるに、ひしゝゝと巻こめられて、残りすくなく打死にす、主人ののりし馬、御方の陣、へ歸しにこそ、青屋伐れたりとは、しられたれ、肥後國御家人、竹崎五郎兵衛尉季長、天草城主大矢野種保兄弟、船にかゝりしほ」(6ウ)とは、よくふるまひたれと、此所にいたりて、得かゝらす、白石六郎通泰も、えすゝます、こゝに山田か若者五六人、蒙古に、おひたてられ、赤坂をくたりて、のけ兜になりて、にくる処に蒙古三人、もみにもみてそ、おひかけたる、されとも、とくにけ延し事、一町あまりなりしかは、蒙古ちからなく、せめての事にや、尻をかきあけて、此方へむかひてそ、をとりける、この時、山田の逃武者とも、口をし」(7オ)き事かな、奴原に、かく追立らるゝ事よと、精兵を、えらひて、いあつへきには、あらすとも、遠矢射て見む、南無八幡大菩薩、此矢、敵に當させ給へとて、何にあつよもなく、はなちけるに、あやまたす、かの二人とも射殺しつ、此とき、日本人は一度に、とつと、わらへとも、蒙古は音もせす、手負を掻具して、にけさりつ、大菩薩の御罸にあらさるほか、いかにして、かの矢の、あたるへき事あらんと、貴はさる人なく、うれし(7ウ)さ、はかりなかりけり、されとも蒙古、次第につよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百道、赤坂まて乱入して、松原の中に陣を取てそ居たりける、かほとの事あるへしとは、兼ては、おもはさりけれは、妻子眷属をかくしもおかすして、数千人そ捕られにたる、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 195〜196頁)
- ^ 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「はしめより軍立、思ひしにたかひて、おもてを、むくへきやうもなく、御方追々に引退て、一人も、かゝる者こそ、なくなりに」(8オ)けれ、こゝに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分て、おしよせて、さんゝゝにかけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうたう等、多くうたれにけり、いかゝしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ、是偏に、大菩薩を深く信して、もし、勧賞あるならは、賜ひたらん一はんの物を、手向奉らん」(8ウ)との立願なりし故なりとて、後に太宰府よ(ママ)より注進して、京都より賜はりし甲冑を當社へそ納めける、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 196〜197頁)/東大寺上生院本『八幡愚童記』「蒙古ハ、次第ニ、勝ニ乗(ノリ)テ責入テ、赤坂マテ乱入ル、松原ノ中ニ陣ヲトル、(中略)爰ニ菊地ノ次郎ハ、思切テ、百騎計ヲ二手ニ分テ押寄セ、散々ニ、カケ散シ、取重ナリテ勝負ヲス、蒙古ニ、郎等多ク打セテ、イカゝシタリケン、菊池計ハ死人ノ中ヨリ、ヲキ挙リ、頸共アマタ取テ、城内ヘ入シコソ、名ヲ後代ニ留ケレ」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 442頁)
- ^ a b c 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「小貳入道か子息、大将三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎左衛門等を始として、大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ、此外、名ある者、恥をおもひ、大事をなけく者あつまりて攻しかとも、物のかすともせす、蒙古ひたやふりに破て、佐原、筥崎、宇佐まてこそ乱れ入」(9オ)たりけれ、異國かせん、何ほとの事あらんと、あなつりて、妻子、老人を隠しおかさりしよと、なけくも、かひなし、在々所々に、おし入て、いく萬人を奪取けん、みな人々(カ)、はしめは、ふんとりせんとするに、御方多くして、一人に一人は當つかすあるへきにやなと、いさみ進みしに、たゝ一旦の戦ひに、あきれさわきて、いふかひなく、軍、辰刻より、はしまりしか、日もくれかたに、なりしかは、あなたこなたに、さゝやき事こそ、多くなり」(9ウ)にけれ、何事にかあらんと、あやしみしに、しよせん武力及はす、水木城に引こもり、さゝへてみんと、逃したくをこそ、かまへたりけれ、これをきくより、おそしやとて、われさきに落ゆくか、多かりけれは、いよゝゝおくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ、爰に大将小貳景資、蒙古の大将とおほしくして、長七尺はかりの大男、ひけは臍邊まて、おひさかりたるか、」(10オ)あか(カ)鎧に、あし毛なる馬にのり、十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる、その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究竟の馬廻に、弓の上手かありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、おちたりけれ、つきそひ」(10ウ)たる郎等とも、これをおとろき抱へ入ける紛れにそ、景資、水木城の方へ引かへす、その時、同し、あし毛馬に金作のくらおきて、馳出たる異敵を、おひ廻し捕へたり、此者に、かの大男を尋ぬれは、蒙古一方の大将、流将公と云うものなりとそ、又申けるは、出たつより、あやしや、鳩、翔りて、既に吾か大将軍を、うちてけりと云にそ、八幡宮の降伏、めてたく、たふとき事を知て、皆人かんしける、さて、水木城と」(11オ)申すは、前は深田にて、路一すちあるのみ、うしろは野原ひろくつゝきて、水木おほく、ゆたかなり、馬蹄、飼場よく、兵粮潤澤なり、左右、山あひ、三十餘町をすかして、石もて高くきひしく筑たり、城戸口には、磐石門を立たり、今は礎石はかりになりたり、南山近くて、あひそめ川なかれたり、右山の腰には、深くひろく堀を、とほして、二三里廻れり、これ、いにしへの、みよゝゝ、異賊をふせかんた」(11ウ)めに、帥の大将を、おかれたりし、大城なり、かくゆゝしき古城なれとも、あまたの軍勢、一日の戦に、たへかねて、博多、筥崎を、うちすてゝ、おち入けれは、末は、いかになり行ものかと、あやしの賤山かつまて、泣まと(カ)ひ、かなしまさるそ、なかりける、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 197〜198頁)
- ^ 『高麗史』金方慶伝に「(劉復)亨、中流矢、先登舟」とある。『八幡愚童訓』甲種本に「少弐入道ガ子三郎右衛門景資、(中略)究竟ノ馬乗、弓ノ上手也シカバ、逸物ノ馬ニハ乗リタリ、一鞭打テ馳延ビ見帰テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男ガ真中射テ、馬ヨリ逆様ニ落シケリ。(中略)葦毛ノ馬ニ金覆輪ノ鞍置タルガ走廻リシヲ捕テ後ニ尋ヌレバ、蒙古ノ一方ノ大将軍流将公之馬也ト、生捕共申ケリ」(「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.185)とあり、この『八幡愚童訓』のいう「流将公」は「劉復亨(流将公?)」の訛伝であろうと考えられている
- ^ 明治時代以前に指摘されている「流将公=劉復亨」説の一例としては、大橋訥庵『元寇紀略』では『東国通鑑』の「劉復亨中流矢」という記述を引用して、『八幡愚童訓』で少弐景資が射倒したという「賊将」は劉復亨のことであり、『八幡愚童訓』が「流将公」としているのは「国音」が近いための誤りである、としている。
- ^ a b /橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「廿一日なり、あしたに松原を見れは、さはかり屯せし敵も、をらす、海のおもてを見わたせは、きのふの夕へまて、所せきし賊船、一艘もなし、こはいかに、いつくへは、かくれたる、ようへまて、いねもらやれす、(中略)よくゝゝ見れは、異賊の兵船一艘、志[賀]嶋にかゝりて、逃のこれるも見えにけり、さりけれと、あまり恐れて、さうなく、むかふ者しもあらす、かの陣とりし跡所の、いとあやしく荒れたるを見つゝ行に、こは、たゝ事なたしと、おもへと、なを、さても、おちをのゝきたる、心くせの、はなれぬは、蒙古か方より手をあはせて、をかみけれと、我ゆかんというふ人なく、たゆたひてあるに、賊とも、助船もよせこさるは、降るをたにもゆるさゝる心にこそと、おもひ切て、その中の大将、海に入てそ、うせにける、のこる敵とも、御方の地に、わたりきて、弓箭をすて、兜を脱く、其時はしめて、われもゝゝと、おしよせて高名かほに生捕にける、残る賊ともを水木岸に、引ならへて、二百二廿人、斬てけり、やうゝゝこれを、見きゝて、蒙古退散しにけり(以下略)」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』p.200.)
- ^ a b c 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「語りあへるは、こたひすてに武力つきはてゝ、かゝる大勢、敗北して、にけうせにしは、國の危きかきりなりき、今はかうと見えし、夕過(カ)る比、白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、松原の陣をにけ、海に出けるに、あやしき火もえめくり、船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまゝゝ沖に、にけたるは、大風に吹しつけられにけり、此事さき□(にカ)生捕[た]」(16ウ)る日本人の、其夜歸来て、かたると、今朝生捕たる蒙古か云と、同し事なりけれは、更に、あやまり有へからす、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 200〜201頁)
- ^ 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「もし、此時、日本の軍兵、一騎なりとも、ひかへたりせは、大菩薩の御戦と、いはれすして、わか高名にて、おひ返せしとも、申なさましを、一人もなく落失てのち、よるになりて、さはかりなる異賊ともの、おち恐れて、あるひは、つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりしは、偏に神軍の威徳厳重にして、不思議、いよゝゝ顕然とあらはれ」(17オ)たまひけりと、ふしをかみ貴はぬ人こそ、なかりけれ 建○○○ 此下、紙四五枚うせににけり」(17ウ)」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 201頁)
- ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「至元十一年冬十月、入其國敗之、而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸、」
- ^ 『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇「(至元十一年)八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島、」。なお、洪茶丘伝にある「宜蠻」については、江戸時代の『蒙古寇紀』の著者・長村靖斎は平戸島と音が通じているために「宜蠻」とは平戸島であるとしている(長村靖斎『蒙古寇紀』2巻)。一方で歴史学者の池内宏は「イマツの對音であらう」としており、「宜蠻」とは島ではなく、博多湾の今津であるという説を挙げている(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 150頁)。
- ^ a b c d 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、厲聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、」
- ^ a b 『高麗史節要』巻十九 二十五葉 元宗十五年十月十一日条「諸軍終日戰、及暮乃解、方慶、謂忽敦茶丘曰、『我兵雖少、已入敵境人自為戰。即孟明焚舟、淮陰背水者也。請復決戰』。忽敦曰、『小敵之堅大敵之擒、策疲乏兵大敵、非完計也』而劉復亨中流矢、先登舟、故遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金侁墮水死、」
- ^ 該当部分の出典不明。『旧唐書』などに近似した文言が見られる。『旧唐書』本紀太宗上「太宗曰、金剛懸軍千里、深入吾地、精兵驍將、皆在於此」
- ^ 『孫子』謀攻編「故善用兵者、屈人之兵、而非戰也。;拔人之城、而非攻也。;毀人之國、必以全爭于天下、故兵不頓、利可全、此謀攻之法也。故用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戰之、少則能守之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也」
- ^ 叡尊『金剛仏子叡尊感身学正記』「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年(十一月)己亥(二十七日)の条「己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之、軍不還者無慮萬三千五百餘人。」
- ^ 『呉文正集』巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状(呉澄撰)「率兵征伐、亦不収功、駆有用兵、民取無用地土、猶珠弾雀、已為失策」
- ^ a b c 『元史』巻一百六十八 列傳第五十五 劉宣「況日本海洋萬里、疆土濶遠、非二國可比、今次出帥、動衆履險、縱不遇風、可到彼岸、倭國地広、徒衆猥多、彼兵四集、我帥無援、万一不利、欲發救兵、其能飛渡耶、隋伐高麗、三次大擧、數見敗北、喪師百万、唐太宗以英武自負、親征高麗、雖取數城而還、徒增追悔、且高麗平壤諸城、皆居陸地、去中原不遠、以二國之衆加之、尚不能克、况日本僻在海隅、與中国相懸萬里哉、帝嘉納其言、」
- ^ a b 『高麗史』 巻八十七 表巻第二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
- ^ 『元史』失里伯伝では、シリバイ(失里伯)は文永の役に参加した記述は無く、バヤン(伯顔)に従い、南宋侵攻に従軍している。『元史』巻一百三十三 列傳第二十 失里伯「十年、遷昭勇大將軍、爲耽羅國招討使。奉旨入見上都、改管軍萬戸、領襄陽諸路新軍。從丞相伯顔等渡江、破獨松關、下長興、取湖州、行安撫司事。」
- ^ 鄭思肖『心史』大義略叙「先忽必烈遣失里伯由高麗攻倭、人船倶陥於海。辛巳六月、韃兵由明州渉海、至倭口、遭大風雨作、人與船倶陥、又大敗而回。」(陳福康校点『鄭思肖集』上海古籍出版社 1991年5月 174頁)
- ^ 『金綱集』 第十二 雑録 異賊襲我国事「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄生取四人、一杜肺子・二白徳義・三羡六郎・四劉保兒也、」
- ^ 『皇年代略記』後宇多院「文永十一年十(月)五(日)蒙古賊船着岸。卅大宰府言上賊船百餘艘漂倒。」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十二 続群書類従完成会 1960年 266頁)
- ^ a b c 広橋兼仲『勘仲記』文永十一年十一月六日条「晴、或人云、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來、吹歸本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫(大友頼泰)郎從等凶賊五十餘人許令虜掠之、皆搦置彼輩等、(裏書)六日下、召具之。可令參洛云々、逆風事、神明之御加被歟、無止事可責、其憑不少者也、近日内外法御祈、諸社奉幣連綿、無他事云々」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月 85頁)
- ^ a b 『薩藩旧記 前編巻五 国分寺文書』大宰府庁下文「就中蒙古凶賊等来着于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹、異賊失命、乗船或沈海底、或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二一二号)
- ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 64頁
- ^ 広橋兼仲『勘仲記』文永十一年十月二十九日条「廿九日、辛未、土成 大歳前、厭對、陰、異國賊徒責來之間、興盛之由風聞、武家邊(関東)騒動云々、或説云、北条六郎(時定)幷式部大夫時輔等打上云々、是非未決、怖畏無極者也、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月)
- ^ 『東寺百合文書ヨ』関東御教書「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)所注申也、早来廿日以前、下向安芸、彼凶徒寄来者、相催国中地頭御家人并本所領家一円地之住人等、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月一日 武蔵守(北条義政)在判 相模守(北条時宗)在判 武田五郎次郎(信時)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四一号)
- ^ 『長府毛利家文書』関東御教書「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)注申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月三日 武蔵守(北条長時)在判 相模守(北条時宗)在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四三号)
- ^ 『諸家文書纂十一』関東御教書案「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)注進申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依執達如件、文永十一年十一月三日 武蔵守長時判 相模守時宗判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四四号)
- ^ 村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 111頁
- ^ a b c 『帝王編年記』「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之。於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二50頁)
- ^ a b c 『五檀法日記』「仰去月(十一月)六日申刻、自鎮西飛脚上洛。去月十九日廿日両日合戦。廿日蒙古軍兵船退散了。」(塙保己一編『続群書類従』26上 釈家部 巻第七百三十六 続群書類従完成会 1957年)
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞八「御ふんの御くた(下)しふみ(文)は、ちき(直)にしん(進)すへきおほ(仰)せに候、いま百二十のくゑんしやう(勧賞)ハ、さいふ(宰府)におほ(仰)せくたされ候、」
- ^ a b 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「又於昔東征時、五千三百軍齎去衣甲弓箭、多有棄失、僅得収拾、頓於府庫不堪支用、」
- ^ a b 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年正月庚辰(八日)の条「庚辰、遣侍中金方慶大将軍印公秀如元、上表曰、小邦近因掃除逆族(三別抄)、惟大軍之糧餉、既連歳而戸収、加以征討倭、民修造戦艦、丁壮悉赴工役、老弱僅得耕種、早旱晩水、禾不登場、軍國之需、斂於貧民、至於斗升、罄倒以給、已有採木實草葉而食者、民之凋弊、莫甚此時、而況兵傷水溺不返者多、雖有遺噍、不可以歳月期其蘇息也、若復擧事於日本則其戦艦兵糧、實非小邦所能支也、」
- ^ 2010年度時点における日本文教出版、帝国書院、扶桑社、日本書籍出版協会、清水書院などの出版社の歴史教科書。包黎明 & 2010年, p. 98
- ^ 陸上自衛隊福岡修親会 編集『元寇―本土防衛戦史』1964年 96頁
- ^ 荒川秀俊 1958.
- ^ 『関東評定衆伝』文永十一年条「十月五日蒙古異賊寄來着對馬嶋。討少貳入道覺惠代官藤馬允。同廿四日寄來太宰府與官軍合戰異賊敗北。」(『群書類従』第四輯 補任部巻 第四十九 続群書類従完成会 1960年 324頁)
- ^ 関 幸彦『神風の武士像―蒙古合戦の真実(歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館 2001年 99頁
- ^ 京都大学附属図書館所蔵 平松文庫(流布本)『一代要記』後宇多天皇 文永十一年十月条「十月五日、異國群勢襲來之由、自宰府申之、同十三日、異國軍兵亂入壹岐島、同十四日、彼島守護代荘官以下被悉打取云々、對馬以同前、同十九日亥刻、攻來筑前國早良郡、同二十日始合戰、宰府軍等背北了、爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、即異國軍兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數六十人許、云々、」
- ^ 『肥前武雄神社文書』武雄社大宮司藤原国門申状「<是/五>又永則十月廿日夜、鏑矢音出、自御神殿差賊船方響、廿一日賊徒退散、<是/六弘安>亦七月廿九日、午時、紫幡三流、出自上宮、懸飜青天上、飛テ行賊船方之間、緇素驚目、尊卑合掌畢、其時大風吹賊船、悉漂波、異国降伏ノ霊瑞、自御在世之音、迄御垂跡之今掲焉也、争無御帰敬哉、<是/七>武雄武内共以勝軍之名称置而不論、随而宇佐香椎武雄三所大菩薩号也、尤是武家御尊敬之準的<是/八>重訪故実、至異国合戦者、不謂京家凡下浪人非御家人、令致忠者、可被行賞之旨、被定置之間、不論貴賎、所被忠賞也、誠不被捨一土之功勲之条、令相叶先世之兵法歟、然者、上下潤恵、遠近欹徳、人倫恩賞巳無用捨、神明忠勤争被棄置哉、雑掌抱理運、多年雖疲長訴為仰 上裁、少為重述短慮悲哀之至、勒事状、言上如件、延慶二年六月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第三十一巻 東京堂出版 二三七二一号)
- ^ 関 幸彦『神風の武士像―蒙古合戦の真実(歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館 2001年 101頁
- ^ a b c 包黎明 & 2010年, p. 101.
- ^ a b 佐藤和夫 2003, p. 14.
- ^ 関幸彦『神風の武士像―蒙古合戦の真実(歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館 2001年 43〜45頁
- ^ 『薩藩舊記』島津久時書下案「爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月五日 (島津)久時在判 大隅五郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九三号)
- ^ 『薩藩舊記』島津久時書下案「爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月五日 (島津)久時在判 吉富次郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九四号)
- ^ 『肥前武雄神社文書』少弐経資書状案「爲異國征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月廿一日 (少弐)經資在判 武雄大宮司殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六九号)
- ^ 『肥前深江文書』少弐経資石築地役催促状「異國警固之間、要害石築地事、高麗發向輩之外、課于奉行國中、平均所致沙汰候也、今月廿日以前、相具人夫、相向博多津、請取役所、可被致沙汰候、恐ゝ謹言、建治二年三月十日 少貳(少弐経資)(花押) 深江村地頭殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六〇号)
- ^ a b 『東寺文書』関東御教案「明年三月比、可被征伐異國也、梶取・水手等、鎭西若令不足者、可省充山陰・山陽・南海道等之由、被仰太宰少貳經資了、仰安安藝國邊知行之地頭御家人・本所一圓地等、兼日催儲梶取・水手等、經資令相觸者、守彼配分之員數、早速可令送遣博多也者、依仰執達如件、建治元年十二月八日 武蔵守(北条義政)相模守(北条時宗)在判 武田五郎次郎(信時)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二一七〇号)
- ^ 『野上文書』大友頼泰書下「異國發向用意條ゝ 一 所領分限、領内大小船呂數幷水手梶取交名年齢、可被注申、兼又以來月中旬、送付博多津之様、可相構事、一 渡異國之時、可相具上下人數年齢、兵具、固可被注申事、以前條ゝ、且致其用意、且今月廿日以前、可令注申給、若及遁避者、可被行重科之由、其沙汰候也、仍執達如件、建治二年三月五日 前出羽守(大友頼泰)(花押) 野上太郎(資直)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二五二号)
- ^ 『石清水文書』肥後窪田庄僧定愉請文「爲異國征伐、可注申勢幷兵具・乘馬等之由事、今月廿五日當所御施行、同廿九日至來、謹以令拝見候畢、仰任被先度仰下候旨、愚身勢幷兵具員數、去十日既雖令付于押領使河□□(尻兵カ)衛尉之候、今重任被仰下候旨、所令注進之候也、以此旨、可有御被露候哉、定愉恐惶謹言、建治二年三月卅日 窪田庄(肥後飽田郡)預所僧定愉」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七一号)
- ^ 『石清水文書』肥後窪田庄僧定愉注進状「肥後國窪田庄(飽田郡)預所僧定愉勢幷兵具乘馬等事 一 自身歳三十五 郎從一人 所從三人 乘馬一疋 一 兵具 鎧一兩 腹卷一兩 弓二張 征矢二腰 大刀 右、任被仰下候旨、注進之状如件、建治二年三月卅日 窪田庄預所僧定愉」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七五号)
- ^ 『石清水文書』井芹秀重西向請文「(前略)一 人勢弓箭兵杖乘馬事 西向年八十五、仍不能行歩、嫡子越前房永秀年六十五在弓箭兵杖、同子息彌五郎經秀年三十八弓箭兵杖、腹卷一□(領カ)、乘馬一疋、親類又二郎秀尚 年十九弓箭兵杖、所從二人、一 孫二郎高秀 年樠四十弓箭兵杖、腹卷一領、乘馬一疋、所從一人、右、任御下知状、可致忠勤也、仍粗注進状言□(上カ)如件、建治二年壬三月七日 沙彌西向(裏花押)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九七号)
- ^ 『石清水文書』尼眞阿請文「建治二年三月廿五日御書下、昨日閏三月二日到來、畏拝見仕候了、仰被仰下候爲異國征伐、人數交名幷乘馬物具數等事、子息三郎光重・聟久保二郎公保、以夜繼日企參上候へハ、可申上候、以此旨、且可有御披露候、恐惶謹言、(建治二年)閏三月三日 北山室地頭尼眞阿(裏)「花押」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九二号)
- ^ 『石清水文書』持蓮請文「異國征伐事、今年二月廿日大宰少貳(経資)殿御奉書案、同廿八日城次郎殿御奉書案、已上三通、謹以拝見仕候了、仰佛道房城次郎(肥後守護代城盛宗)殿御使鎌倉(へ脱カ)まいられて候、持蓮分注進状進之候、恐ゝ謹言、(建治二年)三月十一日 持蓮(花押) 進上 惣公文殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六二号)
- ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 61頁
- ^ a b 『薩摩比志島文書』少弐経資書下「蒙古警固結番事、以使者民部次郎兵衞尉國茂、令啓候、被聞食候て、可令被露給候、恐々謹言、(文永十二年)二月四日 大宰少貳經資在判 進上 竹井又太郎殿 蒙古警固結番事 春三ヶ月<筑前國/肥後國>夏三ヶ月<筑前國/豐前國>秋三ヶ月<豐後國/筑後國>冬三ヶ月<日向國/大隅國/薩摩國> 文永十二年二月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一八〇五号)
- ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元)十二年二月、遣禮部侍郎杜世忠、兵部侍郎何文著、計議官撒都魯丁往、使復致書、亦不報、」
- ^ a b c d e 『鎌倉年代記裏書』「今年四月十五日、大元使着長門國室津浦、八月、件牒使五人被召下關東、九月七日、於龍口刎首、一、中須大夫禮部侍郎杜世忠、年卅四、大元人、作詩云、出門妻子贈寒衣、問我西行幾日歸、來時儻佩黄金印、莫見蘇秦不下機、二、奉訓大夫兵部郎中何文着、年卅八、唐人、作頌云、四大元無主、五蘊悉皆空、兩國生靈若(苦カ)、今日斬秋風、三、承仕郎回々都魯丁、年卅二、回々用人、四、書状官薫畏國人杲(果)、年卅二、五、高麗譯語郎將徐、年卅三、作詩云、朝廷宰相五更寒、々甲將軍夜過關、十六高僧甲(由カ)未起、算來名利不如閑、今度刎首事永絶、窺覦不可攻之策也、其後警固事有沙汰、鎭西撰補守護人器用之發遣海邊國々、止京都大番役、被差置左(在カ)京人、公家武家減省公事、行儉約、休民庶、皆是爲軍旅用意也、」(竹内 理三編集『続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』臨川書店増補版 1979年9月 53頁)
- ^ 蘇秦が外交交渉に失敗して家に帰ってきた際、蘇秦の妻は機織りの手を休めず、出迎えもしなかったという逸話を基にしている
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(九月)戊子(二十一日)の条「元遣使、與劍工内來、古内在元言、高麗有路可徑至日本、故遣之。」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(十月)壬戌(二十五日)の条「以元將復征日本、遣金光遠爲慶尚道都指揮使、修造戰艦。」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(十一月)癸巳(二十七日)の条「癸巳、分遣部夫使于諸道。/元遣使來作軍器、以起居郎金磾、偕往慶尚全羅道、斂民箭羽鏃鐵。」
- ^ 『元史』巻一百六十 列傳第四十七 王磐「帝將用兵日本、問以便宜、磐言、當用吾全力、庶可一擧取之。若復分力東夷、恐曠日持久、功卒難成。俟宋滅、徐圖之未晩也。」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王二年(正月)丙子(十日)の条「丙子、帝命除造戰船及箭鏃。」
- ^ a b c 『元史』巻一百八十 列傳第六十七 耶律希亮「十二年、既平宋、世祖命希亮問諸降將、日本可伐否、夏貴、呂文煥、范文虎、陳奕等皆云可伐、希亮奏曰、宋與遼金攻戰且三百年、干戈甫定、人得息肩、俟數年、興師未晩、世祖然之、」
- ^ 『元史』巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年八月戊子の条「戊子、范文虎言、臣奉招征討日本、比遣周福、欒忠與日本僧齎詔往諭其國、期以來年四月還報、待其從否、始宜進兵、又請簡閲舊戰船以充用、皆從之、」
- ^ a b 『鎌倉年代記裏書』「今年(弘安二年)六月廿五日、大元將軍夏貴、范文虎、使周福、欒忠相具渡宋曉房靈杲、通事陳光等着岸、牒状之旨如前々、於博多斬首、」(竹内 理三編集『続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』臨川書店増補版 1979年9月 54頁)
- ^ 中原師守『師守記』弘安二年六月二十六日・七月二十五日条「弘安二年六月廿六日異國牒船到着對馬嶋之由風聞、筑紫使者通關東云々、七月廿五日於院有評定、大宋國牒状(入大 函有銘)有沙汰、件返牒可通好之趣也、無其儀者、令責日本歟云々、彼牒状昨日自關東進上云々、」(藤井貞文、小林花子校訂『史料纂集 古記録編 第44回配本 師守記9』続群書類従完成会 1975年 178頁)
- ^ 広橋兼仲『勘仲記』弘安二年七月二十五日条「廿五日 晴、參殿下、次謁信輔、宋朝牒状自關東去夕到來、今日於仙洞有評定、殿下已下皆參、左辨宰相束帶、讀申牒状云々、如傳聞者、宋朝爲蒙古已被打取、日本是危、自宋朝被告知之趣歟、今日人々議不一揆云々、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 114頁)
- ^ 『元史』巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年二月甲申の条「以征日本、敕揚州、湖南、贛州、泉州四省造戰船六百艘」
- ^ a b c 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年二月己丑の条「福建省左丞蒲壽庚言、詔造海船二百艘、今成者五十、民實艱苦、詔止之。」
- ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年五月甲寅の条「造船三千艘、敕耽羅發材木給之。」
- ^ 『元史』巻一百五十三 列傳第四十 賈居貞「十七年、朝廷再征日本、造戰艦於江南、居貞極言民困、如此必致亂、將入朝奏罷其事、未行。」
- ^ 『元史』巻一百六十 列傳第四十七 徐世隆「會征日本、世隆上疏諫止、語頗剴切、當路者不即以聞、已而帝意悟、其事亦寢。」
- ^ a b 『元史』巻一百三十二 列傳第十九 昂吉兒「日本不庭、帝命阿塔海等領卒十萬征之。昂吉兒上疏、其略曰、臣聞兵以氣爲主、而上下同欲者勝。此者連事外夷、三軍屢衄、不(可)以言氣、海内騷然、一遇調發、上下愁怨、非所謂同欲也、請罷兵息民。不從。既而師果無功。」
- ^ a b 『元史』巻一百六十 列傳第四十七 王磐「日本之役、師行有期、磐入諫曰、日本小夷、海道險遠、勝之則不武、不勝則損威、臣以爲勿伐便。帝震怒、謂非所宣言、且曰、此在吾國法、言者不赦、汝豈有他心而然耶。磐對曰、臣赤心爲國、故敢以言、苛有他心、何爲從反亂之地、冒萬死而來歸乎。今臣年已八十、況無子嗣、他心欲何爲耶。明日、帝遣待臣以温言慰撫、使無憂懼。」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王五年八月の条「梢工上左引海一沖等四人、自日本逃還言、至元十二年、帝遣使日本、我令舌人郎將徐賛及梢水三十人、送至其國、使者及賛等見殺、王遣郎將池瑄、押上左等如元以奏。」
- ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年二月己丑の条「日本國殺國使杜世忠等、征東元帥忻都、洪茶丘請自率兵往討、廷議姑少緩之、」
- ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年二月辛丑の条「賜諸王阿八合、那木干所部、及征日本行省阿剌罕、范文虎等西錦衣、銀鈔、幣帛各有差。」
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「十八年正月、命日本行省右丞相阿剌罕、右丞范文虎及忻都、洪茶丘等率十萬人征日本。二月、諸將陛辭。帝敕曰、始因彼國使來、故朝廷亦遣使往。彼遂留我使不還。故使卿輩爲此行。朕聞漢人言、取人家國、欲得百姓土地。若盡殺百姓、徒得地何用。又有一事、朕實憂之、恐卿輩不和耳。假若彼國人至、與卿輩有所議、當同心協謀、如出一口答之。」
- ^ a b c d 『禅の世界』世界文化社、ほたるの本シリーズ、2006年
- ^ 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「省(征日本行省)大帥欣都、都副察灰(洪茶丘)、次李都帥牢山(李庭)、次降将范殿帥文虎惣二十三、南(江南軍)一十三。隋唐以来出師之盛未之見也。」(川越泰博 1975, p. 28)
- ^ a b 冲止『圓鑑国師集』東征頌「皇帝御天下、神功超放勲、徳寛包有截、沢広被無垢、車共千途轍、書同九域文、唯残島夷醜、假息鼎魚羣、但恃滄溟隔、仍図疆場分、苞茅曾不入、班瑞亦無聞、帝乃赫斯怒、時乎命我君、一千龍鵲舸、十万虎貔軍、問罪扶桑野、鼓聲轟巨侵、旌旆拂長雲、(中略)斫営應瞬息、献捷在朝曛、玉帛争修貢、干戈尽解紛、元戎錫圭卣、戦卒返耕耘、快劒匣三尺、良弓嚢百斤、四方歌浩浩、八表楽欣欣、烽燧収辺警、風塵絶塞氛、当観聖天子、万歳奏南薫、」(南基鶴『蒙古襲来と鎌倉幕府』臨川書店 1996年 230-232頁)
- ^ 『呉文正集』巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状(呉澄撰)「南方新附舊軍、十餘年間老病逃亡出征損、折向來精鋭於海東、新招軍數皆非習武藝慣爭戰陣、之人用此制敵必然敗事、」
- ^ a b c 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「忻都茶丘等、以累戦不利、且范文虎過期不至、議回軍曰、聖旨令江南軍、與東路軍、必及是月望、会一岐島、今南軍不至、我軍先至数戦、船腐糧尽、其将奈何、方慶黙然、旬余又議如初、方慶曰、奉聖旨齎三月糧、今一月糧尚在、俟南軍来、合攻必滅之、諸将不敢復言」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年八月乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、两軍畢集、直抵日本、破之必矣、」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「忠烈王七年 五月戊戌(三日)、忻都茶丘及金方慶朴球金周鼎等、以舟師征日本。」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年四月癸未(十八日)の条「大閲干合浦。」
- ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「方慶與忻都茶丘朴球金周鼎等發、至日本世界村大明浦」 武田 幸男(翻訳)『高麗史日本伝(下)』(岩波文庫、2005年)によると世界村大明浦とは対馬上県郡佐賀村の大明神浦説が有力であるとしている。
- ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「至日本世界村大明浦、使通事金貯激喩之、周鼎先與倭交鋒、諸軍皆下與戦、郎将康彦康師子等死之」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年五月癸亥(二十八日)の条「是月二十六日、諸軍向一岐島忽魯勿塔、船軍一百十三人梢水三十六人遭風、失其所之、」
- ^ 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年六月十四日条「自武家邊内々申云、今日宰府飛脚到來、異賊舟三百艘着長門浦了、云々、閣鎭西直令着岸之条、怖畏之外無他、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 229頁)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』六月十五日条「異國賊船襲來長門□(興)□…」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年六月壬午の条「日本行省臣遣使來言、大軍駐巨濟島、至對馬島、獲島人言、太宰府西六十里、舊有戌軍、已調出戰、宜乘虚擣之、詔曰、軍事、卿等當自權衡之、」
- ^ a b c 『予章記』「通有。弘安四年。蒙古襲來ス。志賀、鷹、能古等島々海上ニ充満セリ。夷國退治之事ハ家ノ先例ナル間。大將トテ筑前國ニ進發ス。日本ノ諸勢、博多、筥崎、上下三十里ノ海涯ニ築地ヲ高ク築キ。此方面々馬ニテ馳上ル様ニ土ヲ築キ上テ。面ニ亂杭逆茂木ヲ付タリ。海上ヨリ見ハ危峰ノ江ニ臨ムカ如シ。然レ共河野ノ陣ニハ海ノ面、幕一重ニテ後ニ築地ヲツカセタリ。是敵ヲ轍ク引入一戦ノ勝負ヲ可決ト也。背ニ逃道アラハ。味方ヤ逃。トカクシテ一人モ引セシト也。從是河野ノ後築地ト云付タリ。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四30頁)
- ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 66.
- ^ a b c d e 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「(至元)十八年、樞密院檄君、仍管新附□□(軍百?)率所統、堦千戸岳公琇、往征倭、四月□(發?)合浦登海州、以六月六日至倭之志賀島、夜将半、賊兵□□來襲、君與所部據艦戦、至暁、賊船廻退、八日、賊遵陸復來、君率纏弓弩、先登岸迎敵、奪占其□要、賊弗能前、日晡、賊軍復集、又返敗之、明日、倭大會兵來戦、君統所部、入陣奮戦、賊不能□(支?)殺傷過□(當?)賊敗去。」(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 229頁)
- ^ a b c 『高麗史節要』巻二十 十四葉 忠烈王七年六月壬申(八日)「六月壬申(八日)、金方慶金周鼎朴球朴之亮荊萬戸等、與日本兵力戰、斬首三百餘級、官軍潰、茶丘乗馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戰敗績、」
- ^ a b c d なお『高麗史節要』では東征都元帥・洪茶丘は馬に乗って敗走したことになっている。『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「六月、方慶周鼎球之亮荊萬戸等、與日本兵合戰、斬三百餘級、日本兵突進、官軍潰、茶丘棄馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戰敗績、」
- ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞十四「陣にをしよせて合戦をいたしきすをかふり候事、ひさなか(久長)のて(手)の物信濃國御家人ありさかのいや(弥)二郎・ひさなか(久長)のをい(甥)しきふ(式部)の三郎「のて(手)の物いはや(岩谷)四郎さゑもんかねふさ(左衛門兼房)、これをせう(証)人にた(立)つ」頼承てお(手負)ひてのち(後)、ゆみ(弓)をす(捨)てなきなた(長刀)をと(取)りてを(押)しよ(寄)せよ、の(乗)りうつ(移)らむ、とはや(逸)りしかとも、これも水手ろ(櫓)をす(捨)てを(押)さゝりしほとに、ちからなくのりうつ(移)らさりし物なり。同日むま(午)の時、季長なら(並)ひにて(手)の物、きす(疵)をかふ(被)るものとも、き(生)のまつはら(松原)にて、守護のけさむ(見参)にい(入)りて、當國一番にひきつ(引付)けにつ(付)く。鹿嶋にさ(差)しつか(遣)はすて(手)の物、同日巳剋に合戦をいた(致)し、親類野中太郎なかすゑ(長季)郎従藤源太すけミつ(資光)いたて(痛手)をかふ(被)り、の(乗)りむま(馬)二疋ゐころ(射殺)されし證人に、豊後國御家人はしつめ(橋詰)の兵衛次郎をた(立)つ。土佐房道戒うちし(討死)にの證人にハ、盛宗の御て(手)の人たまむら(玉村)の三郎盛清をた(立)てけさむ(見参)に入て、同御ひきつ(引付)けにつ(付)く。」
- ^ 『筑前右田家文書』大友頼泰書下案「豊後國御家人右田四朗入道道円代子息彌四郎能明申今年六月八日蒙古合戦刻、自身并下人被疵由事、申状如此、彼輩防戦之振舞、發向之戦場、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五一四号)
- ^ a b 『福田文書』平国澄起請文写「以去年六月八日押寄于志賀嶋、抽合戦之忠、国澄被二疵候之時、兼重子息兼光類船令致合戦候之刻、下人云、被疵子細云、被射折弓子細如申状無相違候、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 335頁)
- ^ 『蒙古襲来絵詞』絵十一は志賀島の戦いで負傷した竹崎季長が同じく負傷した河野通有を見舞う場面である。このことから通有が負傷したのは志賀島の戦いであったことがわかる。佐藤 鉄太郎『蒙古襲来絵詞と竹崎季長』櫂歌書房 1994年 171-177頁
- ^ 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「軍中又大疫、死者三千餘」
- ^ a b c d 郭預『感渡海』「扶桑之海遠不極。萬里蒼蒼接天色。有夷生寄海中央。水道纔通變難測。聖明本自置度外。邊將貪功謀欲得。受命東征自往年。東南師期在六月。千艘駕浪會一岐。十丈風帆檣欲折。相望渉夏不交鋒。辛苦何須爲君説。炎氣瘴霧熏著人。滿海浮屍冤氣結。淫舒虧盈潮落生。九月(七月)已當三十日。是時八極顚風來。撃碎夢衝何太疾。蒼皇誰借千金壺。枉教壯士探蚊室。哀哉十萬江南人。攀依絶嶼赤身立。如今恨骨與山高。永夜羈魂向天泣。當時將帥若生還。念此能無增鬱悒。壯哉萬古烏江上。恥復東歸棄功業。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四63頁)
- ^ a b 『金周鼎墓誌銘』「辛巳、以右翼萬戸征□、軍中多疾□不能相恤、公□軍以公力□卒□保護多護全□、又因大風船艦大敗、人物湮流於□洋者□、公□見□而載出所全活亦四百餘人、士卒由是益附還。」(『第5版 高麗墓誌銘集成』翰林大学校出版部 2012年1月5日 402頁)
- ^ a b 『金方慶墓誌銘』「帝、授中奉大夫、管高麗軍都元帥。辛巳夏、又入日本。南宋軍後期三月、因以淹留、腐船而疫興、上國群師毎誘以還軍、公力爭不可累戰、而還。」(『第5版 高麗墓誌銘集成』翰林大学校出版部 2012年1月5日 407頁)
- ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「今年(至元十八年)三月、有日本船爲風水漂至者、令其水工畫地圖、因見近太宰府西有平戸島者、周圍皆水、可屯軍船、此島非其所防、若徑往據此島、使人乘船往一岐、呼忻都茶丘來會、進討爲利、帝曰、此閒不悉彼中事宜、阿剌罕輩必知、」
- ^ 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中、」
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元十八年)六月、阿剌罕以病不能行、命阿塔海代總軍事、」
- ^ 許有壬撰『至正集』巻第四十五 碑志二 勅賜推誠宣力定遠佐運功臣太師開府儀同三司上桂國曹南忠宣王神道碑銘并序「十八年、入覲賜王帯弓矢、進光禄大夫中書省左丞相、行中書省事、統帥四十餘万征日本、次明州而薨、」
- ^ 陸文圭撰『墻東類稿』故武徳将軍呉侯墓志銘「十八年、汎海征日本、授宣武將軍、壽春副萬戸、先鋒。抵島上、颶風驟起、眾散而歸。」
- ^ 呉澄撰『呉文正集』巻六十六 有元懐遠大将軍処州万戸府副万戸邢侯墓碑「軍随日本行中書省官至耽羅山、抵倭國界、領軍船守平戸島、」
- ^ a b c 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王八年六月己丑(一日)の条「蠻軍把總沈聰等六人、自白本逃來言、本明州人、至元十八年六月十八日、従吉剌歹萬戸上船至日本、値悪風船敗、衆軍十三四萬、同栖一山、十月初八日、日本軍至、我軍飢不能戰、皆降日本、擇留工匠及知田者、餘皆殺之、王遣上將軍印侯郎將柳庇、押聰等送干元。/(八月)甲午(九日)、蠻軍五人、自日本逃來」
- ^ 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年六月廿四日条「自宰府飛脚到來、宋朝船三百餘隻、着對馬嶋云々、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 235頁)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』六月二十七日条「異國又襲來、鎮西合戦之由、早馬先□…」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ a b c d e f g 『元史』巻一百六十五 列傳第五十二 張禧「十七年、加鎭國上將軍、都元帥、時朝廷議征日本、禧請行、即日拜行中書省平章政事、與右丞范文虎、左丞李庭同率舟帥、泛海東征、至日本、禧即捨舟、築壘平湖島、約束戰艦、各相去五十歩止泊、以避風濤觸撃、八月、颶風大作、文虎、庭戰艦悉壞、禧所部獨完、文虎等議還、禧曰、士卒溺死者半、其脱死者、皆壯士也、曷若乘其無回顧心、因粮於敵以進戰、文虎等不從、曰、還朝問罪、我輩當之、公不與也、禧乃分船與之、時平湖島屯兵四千、乏舟、禧曰、我安忍棄之、遂悉棄舟中所有馬七十匹、以濟其還、至京師、文虎等皆獲罪、禧獨免、」
- ^ 『歴代鎮西要略』外山幹夫 2008, p. 70
- ^ 『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「件條、去年六月廿九日蒙古人之賊船數千余艘襲來壹岐嶋時、時範相具親類河田右衛門尉盛資、渡向彼嶋令防禦事、大炊亮殿御證状分明也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)
- ^ 『薩摩比志島文書』島津長久證状「當國御家人比志嶋五郎次郎時範令申□戦之間事、去年六月廿九日五郎次郎幷親類河田右衛門尉盛資相共、罷乗長久之乗船、渡壹岐嶋候事實正候、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号)
- ^ 『山代文書』肥前国守護北条時定書下「肥前國御家人山代又三郎栄申壹岐嶋合戦證人事、申状如此、子細見状、任見知實正、載起請文之詞、可被注申候、仍執達如件、弘安五年九月廿五日 平(北条時定)(花押) 船原三郎殿 橘薩摩河上又次郎殿」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百四十三号)
- ^ 『龍造寺系図』龍造寺季時伝「弘安中蒙古襲来時、季時合戰壱岐島瀬戸浦、顕高名討死」(『大宰府・太宰府天満宮史料』第8巻 太宰府町(福岡県)1972年)
- ^ 『肥前龍造寺文書』肥前守護北条時定書状「去年異賊襲來時、七月二日、於壹岐嶋瀬戸浦令合戦之由事、申状幷證人起請文令被見畢、可令注進此由於関東候、謹言、弘安五年九月九日 時定(花押) 龍造寺小三郎左衛門尉(家清)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六九六号)
- ^ 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「行中書[省]賜賞有差、賜君幣帛二、軍還至一岐島、六月晦(二十九日)、七月二日、賊舟兩至、皆戰敗之、獲器仗無□(算?)」(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 290頁)
- ^ 『武藤少弐系図』「資時。弘安四年。與蒙古戦於壹岐島前討死。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四19頁)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』七月十二日条「異國賊船等退散之由、風聞、實説可尋記之、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ a b c d 鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌「辛巳六月半、元賊由四明下海、大船七千隻、至七月半、抵倭口白骨山、築土城駐兵対塁。晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。船僅廻四百余隻、二十万人、在白骨山上、無船渡帰、為倭人尽刎。山上素無人居、唯多巨蛇。相伝、唐東征軍士、咸隕命此山。故曰白骨山。又曰枯髏山。」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫 1986年 212頁
- ^ a b 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「(七月)二十七日、移軍至打可島(鷹島)、賊舟復集、君整艦、與所部、日以繼夜、鏖戰至明、賊舟始退、」(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 308頁)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』七月二十一日条「異國賊船重襲來之由、昨日飛脚來云々、□(事)躰非無怖畏歟、返々驚□(遂)□…」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ 『宇都宮系図』「貞綱。弘安四年正(五)月。蒙古以十萬兵爲攻日本。兵船六萬艘著肥前平戸島。于時自六波羅爲大將。引率中國之勢赴筑紫。蒙古既雖聞敗亡。猶至九州。異賊襲來爲防戰之備。而歸洛。」(塙保己一編『続群書類従』6下 系図部 巻第百五十二 続群書類従完成会 1957年)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』七月六日条「六日、依異國警固、鎭西九ヶ國幷因幡伯耆□石見、不可濟年貢、可點定、又件國々、雖□莊園同下知之由、去夜自關東令申云々、異賊未入境、洛城欲滅亡歟、上下諸人之歎、不可有比類歟、實否猶可尋記之、異國合戰之間、當時兵粮米事、□要鎭西及因幡伯耆出雲石見國中□(國)□家本所一圓領得分、幷富有之□米穀令在者、可點□(定)□□(申)□(可被)□此旨可令申入春宮大夫□状如件、弘安四年六月廿□(八)日相模守□陸奧□(守)殿、越後左近大夫將監殿、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ 広橋兼仲の日記『勘仲記』(弘安四年閏七月一日条)によると、翌閏7月1日にかけて京都でも暴風雨があったため、時期を考慮して台風であったと比定されている。広橋兼仲『勘仲記』弘安四年閏七月一日条「一日、甲子、雨降、參祖母禪尼、入夜暴風大雨如沃如叩、終夜不休、匪直也事也、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 235頁)
- ^ 気象庁. “台風の平年値”. 2013年6月27日閲覧。
- ^ 『癸辛雑識-続集下』「至大(元)十八年、大軍征日本。船軍已至竹島、與其大宰府甚邇。方號令翌日分路以入。夜半忽大風暴作、諸船皆撃撞而碎、四千餘舟所存二百而巳。全軍十五萬人、歸者不能五之一、凡棄糧五十萬石、衣甲器械稱是。是夕之風、木大數圍者皆拔、或中折。葢天意也。」(周密撰/呉企明点校/『癸辛雑識』唐宋史料筆記叢刊 中華書局 1997年 191頁)
- ^ 『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 楚鼎「十八年、東征日本、鼎率千餘人、從左丞范文虎、渡海、大風忽至、舟壞、鼎挾破舟板、漂流三晝夜、至一山、會文虎船、因得達高麗之金州合浦海、屯駐散兵、亦漂泛來集、遂領之以歸、」
- ^ 歴史学者・池内功によると、モンゴル軍は遠征に際して、家族等を同伴するのが通例であったが、弘安の役の頃になると、妻を同伴することができるのは、将校に限られるなど変化していた。(池内功 2015, p. 40)
- ^ 蘇天爵撰『滋溪文稿』巻二十一 碑誌十五 元故贈長葛県君張氏墓誌銘「及征日本、大風之夕、公方以王事爲重、奚恤其家、而縣君獨在舟中、身綰印章、未嘗舍去。及舟壞、乃抱折墻得達于岸。之豈尋常者所能及哉。」
- ^ 『元史』巻一百三十一 列傳第十八 嚢加歹「召爲都元帥、管領通事軍馬、東征日本、未至而還、」
- ^ 『元史』巻一百三十三 列傳第二十 也速䚟兒「江南平、録功進懷遠大將軍、管軍萬戸、領江淮戰艦數百艘、東征日本、全軍而還、有旨、特賜養老一百戸、衣服、弓矢、鞍轡、有加、」
- ^ 『高麗史』によるとイェスデル(也速䚟児)は朝鮮半島の東寧府に赴いてから、日本征討に加わったとあることから東路軍の将であることが分かる。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年九月丁卯(二十九日)の条「丁卯、元遣也速達崔仁著、以水韃靼之處開元北京遼陽路者、移置東寧府、使之将赴征東。」
- ^ a b c d 『高麗史』巻二十九 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年(八月)丁未(十九日)の条「忠烈王十八年 丁未、世子謁帝于紫檀殿、鄭可臣柳庇等随入、有丁右丞者奏、江南戦船、大則大矣、偶觸則毀、此前所以失利也、如使高麗造船、而再征之、日本可取、帝問征日本事、洪君祥進言曰、軍事至大、宣先遣使問諸高麗、然後行之、帝然之。」
- ^ 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「大小戦艦多為波浪揃触而砕、唯句麗(高麗)船堅得全、遂班師西運、」(川越泰博 1975, p. 28)
- ^ 文化庁『発掘された日本列島2012 新発見考古速報』朝日新聞出版 2012年 55頁
- ^ a b 「たかしまのにしの浦よりわれのこり候ふねに、賊徒あまたこみのり候をはらいのけて、しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候、と申に…」(『蒙古襲来絵詞』後巻・詞11・第9紙:大倉隆二 『「蒙古襲来絵詞」を読む』海鳥社、2007年 145頁)
- ^ 虞集撰『道園類稿』巻四十九 趙夫人墓誌銘「夫人姓趙氏浚儀人、故宋宗室秦邸諸孫弋陽縣主簿、其之女也、諱時妙字妙眞、」
- ^ a b 虞集撰『道園類稿』巻四十九 趙夫人墓誌銘「征倭之助、先將軍以其軍陸還、夫人以舟別行、颶風駭浪莫知東西、有青鳥導其前、舟人隨之、七日、出澉浦三於東呉。」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞十一「閏七月五日、御くりや(御厨)のかいしやうかつせん(海上合戦)は、とりのとき(酉の刻)にをしむかて、かつせん(合戦)をいたす」
- ^ 『筑後五條文書』少貳景資書状写「筑後国大小屋地頭香西小太郎度景申、□弘安四年閏七月五日於肥前国御厨子(千カ)崎海上、蒙古賊船三艘内、追懸大船致合戦、乗移敵船、度景令分取、舎弟廣度異賊入海中、親類□被□被疵、郎従或令打死、或負手、令分取候子細、致見知候由、所立申證人也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十巻 東京堂出版 一五一五〇号)
- ^ a b 『肥前武雄神社文書』黒尾社大宮司藤原経門申状「肥前国御家人黒尾社大宮司藤原資門謹言上 欲早且依合戦忠節、且任傍例、預勲功賞去弘安四年遺賊合戦事、右、遺賊襲来之時、於千崎息乗移于賊船、資門乍被疵、生虜一人分取一人了、将又攻上鷹嶋棟原、致合戦忠之刻、生慮二人了、此等子細、於鎮西談議所、被経其沙汰、相尋証人等、被注進之処、相漏平均恩賞之条、愁吟之至、何事如之哉、且如傍例者、到越訴之輩、面々蒙其賞了、且資門自身被疵之条、宰府注進分明也、争可相漏平均軍賞哉、如承及者、防戦警固之輩、皆以蒙軍賞了、何自身手負資門不預忠賞、空送年月之条、尤可有御哀憐哉、所詮於所々戦場、或自身被疵、或分取生慮之条、証人等状幷宰府注進分明之上者、依合戦忠節、任傍例欲預平均軍賞、仍恐々言上如件、永仁四年八月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十五巻 東京堂出版 一九一三〇号)
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