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原 長頼(はら ながより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 |
生誕 | 天文13年(1544年) |
死没 | 慶長5年10月13日(1600年11月18日) |
別名 | 彦二郎(通称)。信政、房親、政茂、胤房、 可房、高豊、勝胤、勝根(別名) |
主君 | 織田信長→柴田勝家→前田利家 →豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
官位 | 従五位下、隠岐守 |
氏族 | 原氏 |
天文13年(1544年)に生まれる。はじめ織田信長に仕え、美濃本巣郡花木城主となる。天正3年(1575年)、信長から越前大野郡に2万石を与えられ、柴田勝家軍団に属した。天正6年(1578年)に荒木村重が信長に対して反乱を起こすと、その討伐で軍功を挙げ、天正7年(1579年)には信長の命令で村重一族の処刑を担当している。
信長没後は勝家に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田方に属して先鋒を務めたが、後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)方に寝返った。戦後は徳山秀現と共に前田利家の家臣となり、天正12年(1584年)の能登末森城の戦いで軍功を挙げた。天正13年(1585年)、秀吉の家臣となり、伊勢国内に3万石を与えられた。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、三河に移封された。慶長3年(1598年)、美濃太田山に移封される。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して伊勢攻略戦で活躍したが、関ヶ原の本戦で西軍が敗れると敗走し、10月13日に自害した。享年57。
関ヶ原の戦いのとき、石田三成に対して伊勢から尾張に侵攻しての清洲城攻めを進言したという。毛利秀元は賛成したが、三成らの反対で実現しなかったという。