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2006年10月10日 (火) 18:22時点における版

大和 岩雄おおわ いわお 1928年 - )は長野県出身の編集者、出版事業家、古代史研究家。大和書房(だいわしょぼう)および青春出版社の創業者。

長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)にて、江戸時代から続く呉服商の家庭に生まれる。生家が没落したため、高等小学校卒業後、名古屋市に出て三菱重工業旋盤工を経験。1942年、官費で学べる長野師範学校(信州大学教育学部)に入学し、1948年に卒業すると長野県下伊那郡大鹿村立鹿塩中学校に赴任。国語音楽を教えていたが、1948年12月に退職し、長野市に移住。ここで山本茂実主宰の人生誌「葦」に参加。第4号以降、同誌の編集長となる。営業部員に小澤和一がいた。

「葦」の成功により1950年に上京。「葦」の編集と併行して、1951年、文理書院と協力して「人生手帖」を1000部で創刊。やがて「葦」が政治的に先鋭化したため、同誌を去る。1955年に「人生手帖」が7万部を記録。この急成長ぶりに風当たりが強く、讀賣新聞社会部から"自衛隊に対する日共の秘密工作機関誌「人生手帖」"と虚偽報道されたこともある。これに対して大和は「人生手帖」紙上で反駁したが、1956年に編集長を辞任。同年5月、小澤和一と共に青春出版社を設立。実用書路線で成功を収める。

1960年、社の経営権を小澤に譲渡。創刊まもない「青春の手帖」誌と共に新たな出版社を設立。1963年7月、大和書房と改名。1964年、不治の病で死を間近にした女子大生とその恋人との往復書簡集「愛と死をみつめて」を出してミリオンセラーとなる。

1966年11月14日に母を亡くしたことを機に、38歳の若さで編集者を引退し、以後は経営に専念する。

1974年から古代史研究に熱中し、季刊誌「東アジアの古代史」を発行。以後、38冊の古代史研究書を自ら著し刊行する。

1988年大和書房社長を退く。