サリクタイモンゴル語: Saliγtai、? - 1233年1月27日)は、モンゴル帝国の将軍の一人。タンマチ(辺境鎮戍軍)を率いて高麗を攻めた事で知られる。

元史』では撒礼塔/撒里台/撒礼答/撒里答と記され、あるいはサリクタイ・コルチ(Saliγtai qorči>撒礼塔火児赤/sālǐdāhuǒérchì)とも。

概要 編集

 
モンゴルの第二次高麗侵攻

サリクタイの出自については不明な点が多いが、「コルチ(qorči)」という称号から元来はケシク(親衛隊)の一員であったと見られている[1]

1228年遼東方面で金朝の平章ジェブゲ(哥不靄)が活動を始めたことなどを理由に、即位前のオゴデイの命によりサリクタイは遼東方面に派遣された[2]。史料上には明記されていないものの、この時サリクタイが率いていたのはタンマチ(タマ軍)であったと考えられている[3]1229年にはチンギス・カンの頃から活躍しており、実戦経験豊富なサルジウト部のウヤルも麾下に加え、蓋州・宣城など遼東の諸城を攻略した[4]

更に1231年秋、高麗がかつてモンゴルの使者を殺害したことの報復を理由として、サリクタイは高麗への侵攻を命じられた[5]。サリクタイ率いる遠征軍は現地の有力者の洪福源と合流し[6]、まずは鴨緑江沿いの咸新鎮鉄州を攻略した[7]

10月に安北府の戦いで勝利したサリクタイ率いるタンマチ(タマ軍)は年末には早くも首都の開京を包囲し、高麗に対し降伏勧告を行った[8]。その後も何度か使者のやり取りが行われ[9][10][11]1232年初には高麗の降伏が決まった。

しかし、同年秋には早くも高麗はモンゴルに叛旗を翻し、再びサリクタイが軍を率いて高麗に侵攻することとなった。水州の処仁城を攻めていた時、サリクタイは流れ矢に当たり戦死してしまった(処仁城の戦い[12][13]。サリクタイの死によってモンゴル軍の副将のテゲの指揮の下撤退したが、この後もタングート・バートルを司令官として高麗への攻撃は続けられることとなった[14]

サリクタイ率いるタンマチ(タマ軍) 編集

高麗史』等の史料には、サリクタイが「権皇帝」という称号を称していたことが記録されている[15]。これはかつてチンギス・カンにより中国方面の攻略を任せられていたムカリが称していた称号の1つで、かつてのムカリの地位を一部(遼東方面のみ)継承するという意図の下称したものと考えられている[16]。実際に、サリクタイ率いる軍勢にはウヤルに代表される旧ムカリ麾下の将校、特に契丹人が多数含まれていた。『元史』に記されるサリクタイ麾下の将軍にはウヤル・耶律薛闍[17]移剌買奴[18]王栄祖[4]らがいるが、彼等はウヤルを除き全て契丹人である[19]

また、『高麗史』には「辛亥、蒙兵自平州来屯宣義門外、蒲桃元帥屯金郊、迪巨元帥屯吾山、唐古元帥屯蒲里……」という記述があり、高麗方面のタンマチはサリクタイ及びテゲ(迪巨)、タングート・バートル(唐古元帥)、蒲桃という4人の将軍によって率いられていた。これはイラン方面に派遣されたチョルマグン率いるタンマチが4つの万人隊から構成されていたことと対応するものと見られている[20]

脚注 編集

  1. ^ 松田1992,97-98頁
  2. ^ 『元史』巻120列伝7吾也而伝に「太宗元年(1229年)、入覲す。命じて撒礼塔火児赤と遼東を征せしめ、之を下す」とあることからサリクタイの遼東派遣は1229年のこととされる場合もあるが、松田孝一は『元史』巻149列伝36王珣伝でサリクタイの派遣が己丑(1229年)以前のこととされていること、吾也而伝の記述はあくまで「吾也而(ウヤル)が」出征した時期であると解釈できること、そして1228年にチョルマグンのタンマチ(タマ軍)派遣が始まっていることなどから1228年に派遣されたのが正しいとする(松田1992,95-96頁)
  3. ^ サリクタイが派遣された1228〜1229年頃に他のタンマチ(タマ軍)も派遣されていること、サリクタイの地位を引き継いだタングートが『集史』「オゴデイ・カアン紀」でタンマチ(タマ軍)を率いていたと記されていること、などによる(松田1992,108-109頁)
  4. ^ a b 『元史』巻149列伝36王珣伝「会金平章政事哥不靄行省於遼東、咸平路宣撫使蒲鮮万奴僭号於開元、遂命栄祖還、副撒礼塔進討之。抜蓋州・宣城等十餘城、哥不靄走死」
  5. ^ 『元史』巻2本紀2太宗本紀「秋八月……是月、以高麗殺使者、命撒礼塔率師討之、取四十餘城。高麗王皞遣其弟懐安公請降、撒礼塔承制設官分鎮其地、乃還」
  6. ^ 『元史』巻154列伝41洪福源伝「辛卯秋九月、太宗命将撒礼塔討之、福源率先附州県之民、与撒礼塔併力攻未附者、又与阿児禿等進至王京。高麗王乃遣其弟懐安公請降、遂置王京及州県達魯花赤七十二人以鎮之、師還。壬辰夏六月、高麗復叛、殺所置達魯花赤、悉駆国人入拠江華島、福源招集北界四十餘城遺民以待。秋八月、太宗復遣撒礼塔将兵來討、福源尽率所部合攻之、至王京処仁城、撒礼塔中流矢卒、其副帖哥引兵還、唯福源留屯」
  7. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2「十八年……秋八月……壬午、蒙古元帥撒礼塔囲咸新鎮、屠鉄州」
  8. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2「十八年……十二月壬子朔、蒙兵分屯京城四門外……。時撒礼塔屯安北都護府、亦遣使者三人来諭講和……」
  9. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2「十八年……十二月……丙辰、遣淮安公、以土物遺撒礼塔」
  10. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2「十八年……十二月……壬戌、宴蒙使于内殿。丁卯、遣人遺唐古迪巨及撒礼塔之子、銀各五斤・紵布十匹・布二千匹・馬纓等物」
  11. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2「十八年……十二月……甲戌、将軍趙叔昌与撒礼塔所遣蒙使九人持牒来。牒曰……」
  12. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2「十九年……十二月……撒礼塔攻処仁城有一僧避兵在城中射殺之」
  13. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2「十九年……十二月……東真書曰……至今年十二月十六日、水州属邑処仁部曲之小城方与対戦射中魁帥撒礼塔殺之。虜亦多餘衆潰散……」
  14. ^ 『元史』巻208列伝95高麗伝「太宗三年八月、命撒礼塔征其国、国人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戸、旁近州郡亦有来師者。撒礼塔即与福源攻未附州郡、又使阿児禿与福源抵王京、招其主王、遣其弟懐安公王侹請和、許之。置京・府・県達魯花赤七十二人監之、遂班師。十一月、元帥蒲桃・迪巨・唐古等領兵至其王京、遣使奉牛酒迎之。十二月一日、復遣使労元帥于行営。明日、其使人与元帥所遣人四十餘輩入王城、付文牒。又明日、遣王侹等詣撒礼塔屯所犒師」
  15. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2「十八年……十一月……癸巳……蒙兵有一、元帥自称権皇帝名撒礼塔、坐氊廬、飾以錦繍、列婦人左右乃曰……」
  16. ^ 同様に、山西方面におけるムカリの地位を継承したと見られるテムデイは、「都行省」という別のムカリの称号を受け継いでいる(松田1992,98-99頁)
  17. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝「庚寅、帝命与撒礼塔東征、収其父遺民、移鎮広寧府、行広寧路都元帥府事」
  18. ^ 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝「庚寅、命攻高麗花涼城……」
  19. ^ 松田1992,100-107頁
  20. ^ 松田1992,102-103頁

参考文献 編集

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「モンゴル帝国東部国境の探馬赤軍団」『内陸アジア史研究』第7/8合併号、1992年