スタシース・チュルリョーニス

スタシース・チュルリョーニス(Stasys Čiurlionis、1887年4月24日 - 1944年10月1日)は、戦間期リトアニア政治家エンジニアでもあった。

兄に画家作曲家ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス、弟にオルガン奏者で音楽教師のヨナス・チュルリョーニス、妹に民俗音楽家で教授のヤドヴィーガ・チュルリョニーテがいる。

経歴 編集

1908年サンクトペテルブルクの学校を卒業、1908年から1911年までワルシャワ工科学校で学んだ。ワルシャワで学んでいた当時、ワルシャワに住むリトアニア人学生の団体の活動に参加した。1917年、キエフ工科学校を修了した[1]

1912年から1914年までロシア帝国軍で務め、1915年から1916年までキエフ県で働いた。1917年から1918年までキエフ県立ボグスワフ男子ギムナジウムで教師、1918年にはレギシュケイ・ヨナス・ギムナジウムで教師として務めた。

1918年末から1919年初頭にかけて、アリートゥス郡知事を務め、1919年に大統領府長官を務めた。その後1919年から1924年までマリヤンポレ地区知事、1924年から1927年まで教育省高速道路局監査官および高速道路管理局局長、1927年5月3日から教育省長官、1928年2月4日から9月30日まで教育相、1928年から1929年までリトアニア・エンジニア・建築家協会会長を務めている。

1931年から1940年までは教職に携わった。1935年からはカウナス第1中等学校長、1936年からは国立カウナス第4ギムナジウム校長を務めた。また彼はリトアニア人民族主義連合 (Lietuvių tautininkų sąjunga) の党員でもあった。1940年、リトアニアがソヴィエト連邦に占領され、スタシース・チュルリョーニスはドイツへと亡命。その後1941年ドイツがリトアニアを占領、彼は1943年カウナスへと戻った。

脚注 編集

  1. ^ Kazimieras Tamašauskas. Visuotinė lietuvių enciklopedija, IV t.