念阿弥 慈恩(ねんあみ じおん、ねんなみ じおん、1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)? - 没年不詳)は日本の南北朝時代から室町時代にかけての剣客禅僧剣術流派の源流のひとつである念流の始祖とされる。俗名相馬四郎は義元。法名奥山慈恩または念阿上人

経歴 編集

奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、相馬左衛門尉忠重の子。弟に赤松三首座がいる。父忠重は新田義貞に仕えて戦功があったといわれるが、義元が5歳の時に殺され、乳母に匿われた義元は武州今宿に隠棲した。

7歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられる。念阿弥は父の敵討ちをめざして剣の修行を積み、10歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったという。16歳のとき、鎌倉寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かった。さらに1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年)5月、筑紫安楽寺での修行において剣の奥義を感得した。このとき18歳。京の鞍馬山で修行したことから、「奥山念流」あるいは「判官流」といい、また、鎌倉で秘伝を授かったことから「鎌倉念流」ともいう。

念阿弥は還俗して相馬四郎義元と名乗り、奥州に帰郷して首尾良く父の仇敵を討つと再び禅門に入り、名を慈恩と改めた。こののち諸国を巡って剣法を教え、晩年の1408年(応永15年)、信州波合村(後の浪合村、現阿智村浪合)に長福寺を建立、念大和尚と称した。没年は不明である。長福寺のあった麻利支天山(現念流山)の中腹には、江戸時代に樋口定雄(馬庭念流16世、十郎右衛門)が建てた念大和尚の石碑が残る。

門人 編集

馬庭念流宗家の樋口家に伝わる『樋口家文書』や間光延が著わした『剣術系図』によれば、慈恩には板東8名、京6名、計14名の優れた門弟があったとし、「十四哲」と称される。綿谷雪の『日本剣豪100選』では主な門人を次のとおり挙げているが、これについては疑問視する意見もある[1]

なお、猿御前という人物については未詳であり、通常、陰流開祖は愛洲久忠とされており[2][3][4]猿御前との関係は不明である。

また、沼田法印は丹石流の遠祖とされるが、『本朝武芸小伝』では丹石流は東軍流系とされている。

また、綿谷雪・山田忠史編纂の『増補大改訂 武芸流派大事典』の「念流」の項(683 - 685ページ)に『樋口家文書』と間光延の『剣術系図』に記された門人名の比較が掲載されているが、『剣術系図』には猿御前・沼田法印・樋口太郎兼重の名前は記されていない。

参考書籍 編集

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  1. ^ 今村嘉雄ほか『日本武道体系』第2巻 同朋舎出版
  2. ^ 国史大辞典吉川弘文館
  3. ^ 日本大百科全書小学館
  4. ^ 今村嘉雄ほか『日本武道体系』第1巻 同朋舎出版