拓跋 儀(たくばつ ぎ、生年不詳 - 409年)は、北魏皇族。衛王。

経歴 編集

拓跋翰の子として生まれた。成長すると身長は7尺5寸、容貌魁偉で髭が美しく、舞剣を得意とし、騎射は匹敵する者がなかった。拓跋珪が賀蘭部を頼ると、拓跋儀は侍従として従った。登国元年(386年)、九原公の爵位を受けた。拓跋珪に従って諸部を撃破し、戦功を挙げた。

登国3年(388年)、後燕慕容垂のもとに使者として立った。慕容垂と問答し、慕容垂の余命の長くないことを見抜き、子の慕容宝の非才と慕容徳の野心を察知して、帰国すると拓跋珪に報告した。登国6年(391年)、陳留公拓跋虔らとともに西方の黜弗部を討ち、撃破した。後に平原公に改封された。

拓跋珪が劉衛辰を討つと、拓跋儀は別道を進軍して、劉衛辰の遺体を回収し、その首級を行宮に伝えた。功績により、東平公に徙封された。登国9年(394年)、黄河の北の屯田を命じられて、五原から塞外までの開墾を推進した。登国10年(395年)、後燕が五原に侵攻してくると、拓跋儀は朔方に拠って、後燕軍の帰路を扼した。并州が平定されると、功績により拓跋儀は尚書令に任じられた。

皇始元年(396年)、中山を包囲した。慕容徳が敗走すると、拓跋珪は慕容麟の妻の周氏を拓跋儀の妻として与えた。征東大将軍としてを包囲した。皇始2年(397年)4月、鄴の包囲を解いて鉅鹿に移鎮し、楊城に兵糧を集めた。5月、驃騎大将軍・都督中外諸軍事・兗豫雍荊徐揚六州牧・左丞相に任じられ、衛王に封じられた。後燕に対する征戦に参加し、中山や鄴の平定に軍功を挙げた。

天興元年(398年)1月、道武帝(拓跋珪)が中山行台を置くと、拓跋儀は守尚書令として中山に駐屯した。3月、平城に召還された。天興2年(399年)、3万騎を率いて西北の砂漠を越え、高車の別部7部を討った。天興5年(402年)、後秦の姚平を柴壁で討ち、功績を挙げた。

天賜初年、宜都公穆崇とともに反乱を計画した。道武帝はその計画を察知したが、秘密にして拓跋儀を赦した。天賜6年(409年)、天文に異変が多く、占いに「逆臣ありて屍を伏し血を流すべし」と言われた。道武帝はこのため多くの公卿を殺し、天災を避けようとした。拓跋儀は不安を抱いて、単騎で遁走し、道武帝の追っ手に殺害された。庶人の礼で葬られた。

子女 編集

15人の子があった。

  • 拓跋纂(太武帝のときに定州刺史、中山公、中山王、内大将軍)
  • 拓跋良(南陽王、後嗣)
  • 拓跋幹(明元帝のときに内将軍・都将となり、射鴟都将と称す、太武帝のときに新蔡公、文成帝のときに都官尚書)

伝記資料 編集