王 則(おう そく、502年 - 549年)は、北魏末から東魏にかけての軍人は元軌。本貫太原郡[1][2]

経歴 編集

はじめ叔父で広平内史の王老生に従って征討にあたり、出陣するたびに戦功を挙げた。軍功により給事中に任じられ、白水子の爵位を受けた。後に元天穆に従って邢杲を討ち、軽騎で深入りして、邢杲に捕らえられた。永安2年(529年)、元顥洛陽に入ると、王則と王老生はともに元顥に降ろうとしたが、元顥は王老生を疑って殺害した。王則は広州刺史鄭先護のもとに逃れ、元顥に対して抵抗した。元顥が敗れると、王則は征虜将軍となり、東徐州防城都督として出向した[1][2]

永安3年(530年)、爾朱栄が殺害されると、東徐州刺史の斛斯椿の一派は粛清をおそれて、の立てた魏主の汝南王元悦に降った。王則は蘭陵郡太守の李義とともに斛斯椿を攻撃して破った。このため王則は行北徐州事となった。後に爾朱仲遠に属し、爾朱仲遠が敗れると、高歓に帰順した。征南将軍・金紫光禄大夫の位を加えられた。荊州刺史の賀抜勝に従い、後に行台の侯景に従って転戦し、功績を挙げた[1][2]

天平元年(534年)、東魏が建国されると、王則は行荊州事・都督三荊二襄南雍六州諸軍事・荊州刺史となった[1][2]。天平2年(535年)11月、梁の柳仲礼が荊州を攻撃すると、王則は牛飲でこれを破り、その部将の張殖と王世興を斬った[3][4]。天平4年(537年)の渭曲の戦いで、王則は西魏軍の包囲に迫られ、城を棄てて梁に逃亡した。まもなく梁から東魏へと身柄が返還されたが、高歓は王則を許して責めなかった。元象元年(538年)、洛州刺史に任じられた。洛州にあって収賄に明け暮れ、洛陽の銅像を奪っては壊して鑄銭をおこない、世に河陽銭と号した[5][2]。12月、西魏の是云宝に洛陽を襲撃されると、王則は逃走した[6][7]武定年間、再び侯景に従って西魏を討った。武定5年(547年)、侯景が潁川で乱を起こすと、王則は高澄に召し出されて徐州刺史となった。梁が貞陽侯蕭淵明の率いる大軍を徐州に向けると、州城を水攻めにされたが、王則は堅く城を守った。不法行為のかどで、鎖を受けて晋陽に送られたが、高澄はその罪を許した。武定7年(549年)春、王則は48歳で死去した。都督青斉二州諸軍事・司空青州刺史の位を追贈され、を烈懿といった[8][2]

弟に王敬宝がおり、後に東広州刺史となった[5][2]

脚注 編集

  1. ^ a b c d 北斉書 1972, p. 271.
  2. ^ a b c d e f g 北史 1974, p. 1914.
  3. ^ 魏書 1974, p. 2178.
  4. ^ 北史 1974, p. 185.
  5. ^ a b 北斉書 1972, p. 272.
  6. ^ 周書 1971, p. 26.
  7. ^ 北史 1974, p. 323.
  8. ^ 北斉書 1972, pp. 271–272.

伝記資料 編集

参考文献 編集

  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4