田 嬰(でん えい、生没年不詳)は、中国戦国時代公族政治家諡号靖郭君威王の末子[1]。子は孟嘗君(田文)ら。

概要 編集

威王宣王宰相として仕え、斉の興隆期を支え、薛(現在の山東省棗荘市滕州市)に封じられた。

彼は多くの側室を持っており、子供が40人あまりもいた。側室のひとりに身分が低い女性がいた。その女性は5月5日に男児を出産した。当時の風習として、当日に生まれた嬰児は後年に親を殺害する迷信があった。そのため、田嬰はこの嬰児を殺害するように命じた。だが、この女性は密かに嬰児を養った。

この嬰児は文と名付けられ、後の孟嘗君(田文)で、成人後に父との問答でその器量を認められた。田嬰が臨終間際になったときに、自分の後継者と定められた。

脚註 編集

  1. ^ 史記索隠』が引く『竹書紀年』では、桓公(威王の父)の末子と記されている。宮城谷昌光の『孟嘗君』(講談社)も『竹書紀年』魏紀を参照にしている。