本来の表記は「王齕」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

王 齕(おう こつ、生没年不詳)は、中国戦国時代末期のの将軍。昭襄王荘襄王に仕えた。生没年は不詳であるが、紀元前244年に死没した王齮との同一人物説がある[1]

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経歴編集

紀元前260年(昭襄王47年)、を討って、上党を取った。趙も反撃してきて、は内密に白起を増援させて上将軍とし、王齕をその副将とした。長平の戦いでは、趙を大いに破った。

紀元前259年(昭襄王48年)、白起に代わって、将として趙の武安君を討ち、皮牢を取る。

紀元前258年(昭襄王49年)、王陵が趙の邯鄲を攻めて増軍もしたが、戦況が思わしくないので王齕が代わって将となる。

紀元前257年(昭襄王50年)、邯鄲を攻めたが落とせないので、汾城郊外の秦軍と合流した。その後、を攻め、首を斬ること6千、魏軍は敗走し、黄河で2万人が流れ死んだ。汾城も攻め落とし、張唐に従って寧新中を抜いた。

紀元前247年(荘襄王3年)、の上党を攻めて、太原郡を置いた。魏の信陵君が五カ国連合軍を率いて秦を攻めてきたのを蒙驁と迎え撃ったが敗れた。秦軍は河内から河外(河南の地)に退却し、その軍を解散した。

なお、『史記』「秦本紀」で活躍した王齕は「秦始皇本紀」では一切触れられず、逆に「秦始皇本紀」に初めて現れる将軍王齮は「秦本紀」には登場しない。遅くとも南朝宋代には王齕と王齮が同一人物である可能性が論じられており、裴駰の『史記集解』は徐広の説を引いて、「齮」字について「一に齕に作る」と述べている[1]

関連項目編集

  • 王齮 - 紀元前246年(「秦始皇本紀」の初年)に初めて現れた秦の将軍。紀元前247年(「秦本紀」の末年)まで活躍した王齮と同一人物という説がある。

脚注編集

  1. ^ a b 史記集解』秦始皇本紀:始皇元年「蒙驁王齮〈徐廣一作齕〉麃公等為將軍」

参考文献編集