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王 則(おう そく、502年 - 549年)は、東魏軍人は元軌。本貫太原郡

経歴編集

はじめ叔父で広平内史の王老生に従って征討にあたり、出陣するたびに戦功を挙げた。軍功により給事中に任じられ、白水子の爵位を受けた。後に元天穆に従って邢杲を討ち、軽騎で深入りして、邢杲に捕らえられた。529年元顥洛陽に入ると、王則と王老生はともに元顥に降ろうとしたが、元顥は王老生を疑って殺害した。王則は広州刺史鄭先護のもとに逃れ、元顥に対して抵抗した。元顥が敗れると、王則は征虜将軍となり、東徐州防城都督として出向した。

530年爾朱栄が殺害されると、東徐州刺史の斛斯椿の一派は粛清をおそれて、の立てた魏主の汝南王元悦に降った。王則は蘭陵郡太守の李義とともに斛斯椿を攻撃して破った。このため王則は行北徐州事となった。後に爾朱仲遠に属し、爾朱仲遠が敗れると、高歓に帰順した。征南将軍・金紫光禄大夫の位を加えられた。荊州刺史の賀抜勝に従い、後に行台の侯景に従って転戦し、功績を挙げた。

534年、東魏が建国されると、行荊州事・都督三荊二襄南雍六州諸軍事・荊州刺史となった。537年の渭曲の戦いで、王則は西魏軍の包囲に迫られ、城を棄てて梁に逃亡した。まもなく梁から東魏へと身柄が返還されたが、高歓は王則を許して責めなかった。538年洛州刺史に任じられた。王則は州にあって収賄に明け暮れ、洛陽の銅像を奪っては壊して鑄銭をおこない、世に河陽銭と号した。武定年間、再び侯景に従って西魏を討った。547年、侯景が潁川で乱を起こすと、王則は高澄に召し出されて徐州刺史となった。梁が貞陽侯蕭淵明の率いる大軍を徐州に向けると、州城を水攻めにされたが、王則は堅く城を守った。不法行為のかどで、鎖を受けて晋陽に送られたが、高澄はその罪を許した。549年春、王則は48歳で死去した。都督青斉二州諸軍事・司空青州刺史の位を追贈され、を烈懿といった。

弟に王敬宝がおり、後に東広州刺史となった。

伝記資料編集