王 善(おう ぜん)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。

概要 編集

真定藁城の人で、孝行で知られた王増の息子であった。王善は声は鐘のように鳴り響き、知略に長け、騎射を得意とする人物として知られていた。金末、モンゴルの侵攻を受けて金朝が黄河以南の開封に遷都すると、華北各地は荒廃して食料不足に陥り、王善も食料の確保に苦しみつつ母を支えていた。1215年乙亥)に入ると各地で群盗が起こり、治安悪化を苦慮した住民たちは王善を長に推戴し、王善が法を整備し守備体制の強化に努めたことによって群盗は近寄ることができなくなったという[1][2]

1218年戊寅)には権中山府治中となったが、当時真定一帯を支配していた武仙が王善の威名を疎み、知府の李済・府判の郭安らに王善を排除するよう命じた。1219年己卯)秋、李済・郭安らは兵を伏せた上で王善を呼び出したが、王善は陰謀を察知して逃れ、80人の配下を集めて李済・郭安らを殺害した。その後、王善は自らの配下の者たちに累が及ばないよう、自らの首を武仙に差し出すと良いと呼びかけた。しかし配下の者たちは王善が犠牲となることを許せないと反対したため、遂に王善と配下の者たちはモンゴルに降って元のまま知中山府事の地位を承認された。同年冬、王善は300の兵を率いて武仙を攻め、武仙の側は精鋭の兵2000を派遣してこれを迎え撃った。しかし、王善は敵将を斬ることで勝利し、これを知った武仙は配下の将に城を任せて自らは逃げ出した。王善は武仙の本拠地を攻略してこの地を拠点とし、王善の活躍によって中山以南の州郡42が投降するに至ったという[3]

1220年庚辰)には中山真定等路招討使の地位に移り、ついで右副元帥・驃騎大将軍の称号を授けられて藁城に駐屯した。1222年壬午)に藁城は匡国軍に昇格となり、1223年癸未)には金吾衛大将軍・左副元帥の地位に進んだ。この頃、武仙は窮迫して遂にモンゴルに降り、モンゴルは他の漢人世侯同様に投降時の地位をそのまま保証した。しかし、王善は「武仙は豺狼のように野心を抱いており、最後には裏切るでしょう。城壁を補修してこれに備えることを請います」と進言し、果たして武仙はモンゴルから寝返って王善を攻めた。戦火は城の西門まで及んだが、王善の奮戦により武仙軍は撃退された。武仙はその部下の宋元とともに捕虜とした人々を率いて南に退却したが、王善は追撃して捕虜たちを取り戻した。武仙はこれ以後真定地方を奪還しようとすることはなく、その部下たちも多くがモンゴルに降った。以上の功績により、1226年丙戌)には金虎符を与えられて行帥府事とされている[4]

1232年壬辰)からは第2代皇帝オゴデイの金朝親征(第二次金朝侵攻)に加わり、王善率いる部隊は鄭州に至った。鄭州を守る馬伯堅は王善の威名を知っていたため、陣に登って大声で王善に「城の王元帥は軍中にいるや否や?願わくば城を以て降りたい」と呼びかけた。王善はその時すぐ近くにいたため、ただちに胃を外して馬伯堅と語らい、遂に鄭州を降らせた。王善は軍中に厳しく命じて略奪を取り締まったため、民は安堵し、王善に従って黄河以北に移住しようとする者が多くあらわれた。王善はこれらの人々を受け容れ、田地を配分して暮らしを安定させている[5]

1236年丙申)には河北西路兵馬副都総管の地位を兼ねるようになり、1241年辛丑)には知中山府事の地位を授かった。その後も苛斂誅求を禁じる統治で民から慕われたが、1243年癸卯)に61歳にして亡くなった。息子には南宋との戦いで戦死した王慶淵、王慶端らがいた[6]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻151列伝38王善伝,「王善字子善、真定藁城人。父増、監本県酒務、以孝行称。善資儀雄偉、其音若鐘、多智略、尤精騎射。金貞祐播遷、田疇荒蕪、人無所得食、善求食以奉母。乙亥、群盜蜂起、衆推善為長。善約束有法、備禦有方、盜不能犯、擢本県主簿」
  2. ^ 愛宕1988,42/181頁
  3. ^ 『元史』巻151列伝38王善伝,「戊寅、権中山府治中。時武仙鎮真定、陰蓄異志、忌善威名、密令知府李済・府判郭安図之。己卯秋、済・安張宴伏兵、召善計事。善覚、即還治衆、倉卒得八十人、慷慨与盟、人争自奮、遂誅済・安。乃諭其党曰『造釁者、李・郭耳、餘無所問』。善夜臥北城上、戒麾下曰『勿以我累汝家、当取吾首献帥府』。衆曰『公何為出此言、我輩惟有效死而已』。遂率衆来帰、授金符、同知中山府事。是年冬、以兵三百攻武仙、仙遣将率精鋭二千拒戦、善擒斬之。仙走獲鹿、委其佐段琛城守、復戦拔之、入拠其城、軍勢大振、自中山以南、降州郡四十二」
  4. ^ 『元史』巻151列伝38王善伝,「庚辰、遷中山真定等路招討使、尋加右副元帥・驃騎大将軍、屯藁城。壬午、陞藁城為匡国軍、以善行帥府事。癸未、進金吾衛大将軍・左副元帥。仙窮迫請降、詔命復旧鎮。善奏『仙狼子野心、終必反覆、請修城隍備之』。未幾、仙果叛、率衆来攻、火及西門、善出戦、却之。仙使其部下宋元、俘老幼四千人南奔、善追奪之、俾復故業。仙自是不敢復入真定、其部曲多来降。丙戌、以功賜金虎符、仍行帥府事」
  5. ^ 『元史』巻151列伝38王善伝,「壬辰、従征河南、至鄭州。州将馬伯堅素聞善名、登陴大呼曰『藁城王元帥在軍中否。願以城降之』。善直前、免冑与語、伯堅果率衆出降。善令軍中秋毫無犯、民皆按堵、願従善北渡者以万計、授之土田、以安集之」
  6. ^ 『元史』巻151列伝38王善伝,「丙申、兼河北西路兵馬副都総管。辛丑、授知中山府事、属県新楽、地居衝要、迎送供給、倍於他県、皆取於民。善均其労逸、所徵或未給、輒出家貲代輸、民徳之。又放家僮五百人為民、咸懐其恩。癸卯卒、年六十一。皇慶元年、贈銀青栄禄大夫・司徒、追封冀国公、諡武靖。子慶淵、為行軍千戸、征淮南死。次慶端」

参考文献 編集

  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 元史』巻151列伝38王善伝
  • 新元史』巻148列伝35王善伝