珠名娘子(たまな の いらつめ)は、『万葉集』に登場する女性。

概要 編集

高橋虫麻呂は、下総国真間(現在の千葉県市川市)の手児奈(てこな)の歌や、摂津国葦屋(現在の兵庫県芦屋市)の菟原処女(うないおとめ)の歌など、地方の伝説や人事を詠んでいるが、珠名娘子もそのような歌の中に登場する人物である。

虫麻呂の歌によれば、珠名は、上総国周淮郡[1]の人物であったという。 珠名は、豊かな胸とくびれた蜂のような腰を持つ晴れやかな女性であり、「蝶嬴娘子(すがるおとめ)」と呼ばれた。そして、花が咲くように微笑み、立っていれば、道行く人は自分の行べきであった道を行かず、呼ばれもしないのに珠名の家の門に来た。珠名の家の隣の主人は、あらかじめ妻と別れて、頼まれないのに予め自分の家の鍵を珠名に渡すほどであった。男たちが皆自分に惑うので、珠名は、たとえ夜中であっても、身だしなみを気にせずに、男達に寄り添って戯れたという[2]

高橋虫麻呂の歌 編集

しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 周淮の珠名は 胸別けの 広き我妹 腰細の 蝶嬴娘子の その姿の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば 玉桙の 道行く人は おのが行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに 鍵さへ奉る 人皆の かく惑へれば うちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける(『万葉集』巻9-1738)

反歌

金門にし 人の来立てば 夜中にも 身はたな知らず 出てぞ逢ひける(『万葉集』巻9-1739)

実態 編集

珠名娘子のような女性は、その土地で知られた芸能者(遊行女婦)であり、珠名は遊行せずに周淮の地に定着していたと考えられる[2]

史跡 編集

地元の伝承では、千葉県富津市二間塚字東内裏塚にある内裏塚古墳(だいりづかこふん)が娘子の墓であるとされる[3][注釈 1]。内裏塚古墳は「珠名塚」とも呼ばれ、墳丘上に「珠名姫神社」があったという[5]。ところが、明治末年に近隣の飯野神社の境内に移され[6]、現在では、墳丘上に江戸時代末期に建てられた「珠名冢碑」が残っている[7]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ただし、この古墳は5世紀中頃の築造と推定されているため、あくまで伝承である[4]

出典 編集

  1. ^ 歌では「安房に継ぎたる 梓弓 周淮(安房の隣の周淮)」と詠まれている
  2. ^ a b [1]國學院大学デジタルミュージアム 万葉神事語辞典
  3. ^ 『君津郡誌』
  4. ^ 内裏塚古墳(国指定史跡)(千葉県公式観光物産サイト「まるごとe! ちば」)。
  5. ^ 「ウォーク万葉」編集委員会『ウォーク万葉』第20号「虫麻呂のロマン周准郡コース」(クリエイト大阪、1989年)
  6. ^ 三浦茂一『図説 千葉県の歴史』(河出書房新社版、1989年)
  7. ^ 富津市史編纂委員会『富津市史』(富津市、1982年)

参考文献 編集