生田浩二
日本の社会主義運動家
生田 浩二(いくた こうじ、1933年〈昭和8年〉2月3日 - 1966年〈昭和41年〉3月23日[1])は、日本の社会主義運動家。共産主義者同盟(共産同・ブント)創立者。
人物・略歴
編集静岡県静岡市出身[2]。静岡城内高校2年の時、共産党に入党。1952年、静岡県立静岡城内高等学校[3]卒業。同年東京大学入学[2]。教養学部細胞のリーダーとして活動。共産党が武装闘争路線を転換した1955年(昭和30年)の六全協の後、大学に戻り、授業料値上げ反対闘争を指導[2]。1956年(昭和31年)、経済学部に進み、自治会中央委員会議長として砂川基地反対闘争などを指導[2]。1958年(昭和33年)、東大細胞機関誌「マルクス・レーニン主義」を創刊、党中央と理論的に対立し、島成郎らとブントを組織、1959年(昭和34年)8月事務局長[2]。1960年(昭和35年)、羽田デモ事件で逮捕、起訴されたが、安保闘争後大学院に進み、1964年(昭和39年)には米ペンシルベニア大学に留学[2]。1966年(昭和41年)、アパート火災で妻の恭子とともに焼死した。友人らによる「生田夫妻追悼記念文集」がある[2]。